赤
すえのは
赤
私の部屋の窓からよく見えるところに妹がミニトマトの盛大な生垣を拵えた。ただでさえ西日が差すと白い障子が赤く染まるのに、ミニトマトなどを植えられたら私の目は日がな一日赤色に染まらなければならない。
妹はいつも夕方になると笊いっぱいにミニトマトを取り、私の部屋の窓を叩く。そうして私が窓を開けると、せわしげに「はい、お兄ちゃん、これ」と笊を押し付けてくるのだ。私は渡されるままその笊を受け取る。妹は私を使役することで日々の鬱憤を晴らしている傾きがあるが、このミニトマトの受け渡しも使役の一種というわけだ。用事が済むと妹は何食わぬ顔でまた軽々とミニトマトの生垣へ戻っていく。私は妹の背中を見ながら笊のミニトマトを一粒摘まんで盗み食いをする。使役の報酬だ。夏の熱気を含んだ赤い実は種や汁までぬるく、刺のない酸味が甘く感じられた。私は窓も閉めないでぼうっと窓辺に突っ立ち、妹を観察しながら次から次へとミニトマトを摘まんでいった。
緑の茂みの中に赤い斑点を散らす生垣は、私の心の何かを暴こうとするかのように、じっと私を監視していた。
妹は去年、中学三年に上がると、二学年下の凪という女の子と懇意になり、家にまで頻繁に連れてきた。私は音楽をやらないのでさっぱり分からないが、妹と凪嬢はブラスバンド部で同じ楽器をやっていて、妹が凪嬢にコツを教えているうちに仲良くなったらしかった。
一階にある私の部屋と違い、妹の部屋は二階にあるので、大抵自分の部屋に籠っている私は凪嬢と顔を合わせることはなく、学校帰りの夕方に二人の賑やかな話し声が玄関から廊下に響いたと思うと、そのはしゃぎ声は二人の足音と共に階段の上へ遠ざかり、小さくなっていく。妹の部屋のドアが閉ざされると、二人の声は私の部屋にはもう届かない。その声や足音が遠ざかるのを、ただ静かに聞いているたけだった。
私は夕飯までぼんやりと本を読んでいるのが日課だったので、凪嬢が来ようが来るまいが、いつも通りベッドに寝転がってページを捲っていた。礼儀正しい凪嬢が来ることを母も嫌がらなかった。妹は元々快活な子だが、凪嬢を招くようになってからますます生き生きとして頬に艶が増すほどだった。
私が凪嬢と初めて顔を合わせたのは二学期が始まったばかりの九月初めのことだった。私が母に呼ばれて台所の手伝いに行こうと部屋を出ると、妹と一緒に凪嬢が玄関にいて、綺麗に黒光りするローファーに足を入れているところだった。私の気配に気が付いた妹が先に私の方へ振り返り「あ、お兄ちゃん」と呑気な調子で私を呼んだ。続いて靴を履き終えた凪嬢が立ち上がりながら体をこちらへ回転させ、濁りのない清楚な黒い瞳を私に注いだ。
妹は私を手で示しながら、私を凪嬢に引き合わせた。
「なぎちゃん、これがあたしのお兄ちゃんよ。ひょろひょろしてて全然冴えないでしょ?」
妹は笑いながら私の背中を激しくはたいた。凪嬢は白百合のように楚々と笑い、恭しく私に頭を下げた。その動作に合わせて二つに結った黒髪が艶々と揺れる。
「はじめまして。久野凪です。いつも明世さんにはお世話になっています」
その仕草は格式高い家柄の令嬢のように洗練されて気品に満ちていた。白く輝く指先が行儀よく揃っている。軽い衝撃が両腕に走るのを感じながら私も咄嗟に頭を下げた。
「こちらこそ、妹がお世話になっています」
気の利いたことなんて一言も言えなかったのに、凪嬢はきらきら光る瞳を妹に注ぎ「素敵なお兄さんね」と世辞を言った。妹は腰に手を当て呆れたように「下手におだてると調子に乗るから褒めなくたっていいのよ、なぎちゃん」と忠告した。こちらとしても素敵な兄である自覚はないので、小憎らしい愚妹の嫌味も何てことはないが、こんな下らない兄妹のやり取りにも凪嬢は邪心のない笑顔を浮かべ「仲が良くて羨ましいな」と羨望らしい眼差しを注ぐのだった。
やがて彼女は私達二人に頭を下げ「お邪魔しました」と挨拶をした。妹はひらひらと手を振って「また来てね」と凪嬢を送り出した。私もその隣で軽く頭を下げた。
凪嬢が去ると妹はつまらなそうに頭の後ろで手を組み、二階の自室へ引っ込んだ。
凪嬢はそれからも変わらず家へ遊びに来た。慎ましく光るローファーが玄関のたたきに揃えられていると私は泣きたくなるほど胸が燃えた。いつも凪嬢が来るのが夕方なので、私の部屋の西の障子も燃えるように真っ赤に染まっている。勉強机の椅子に座りじっとその赤い光を見ていると、凪嬢が鬼灯の中に眠る小さな姫君のようにも思えた。薄い袋の中に眠る、あの丸い果実のような――。
赤く染まる障子紙を破れば、自分でも自覚していない本当の願望が剥き出しになり、はっきりと面前に現れるのではないか――身震いするような恐怖が私を襲った。いつしか、赤い障子紙の向こうに潜む本当の望みを妄想することが、誰にも言えない密かな日課となった。
九月も終わろうとしていたある日、二人が揃って私の部屋に来た。その日は乾いた夕日がことさら赤く障子を染め、部屋中が炎に呑まれているようだった。まだ夏のように暑かったのでクーラーを掛けていたが、そうでなければこの八畳間は蒸し上がるほど熱気が籠ってしまう。少女二人が入り込むと部屋は手狭になった。凪嬢は鬼灯色に染まる西の障子を見つめた。
「なぎちゃんがね、辞書を貸してほしいって言うのよ」
上の空で障子を眺める凪嬢の代わりに妹が用件を言った。
「辞書なんてお前の部屋にもあるだろう?」
「あるのかもしれないけど、どっかいっちゃったの。普通の国語辞典でいいから貸して」
私は呆れ顔で勉強机の本棚に手を伸ばし、国語辞典を妹に手渡した。
凪嬢は勉強机とは反対側の壁にある大振りの本棚に目をやり、わぁ、と歓声を上げ、並んでいる背表紙に顔を寄せた。何か気になる本があったらしく、きらきらした目で私の方へ振り返り、「わたしもこの本、持ってるんですよ。でも、途中までしか持ってなくて」と興奮気味に言った。凪嬢が指差したのは有名な外国文学の長編小説で、私の持っている文庫本でも四冊セットでなければ完結しないものだった。
「よければ貸すよ。全部持っていきなよ。ちょっと重いけど」
凪嬢はますます目を輝かせた。
「いいんですか? ありがとうございます」
私は持ちやすい手頃な袋を探して四冊の文庫本を入れ、それを凪嬢に差し出した。
「返すのはいつでもいいから」
私より頭一つ分小柄な凪嬢は、栗鼠のように私を見上げ「ありがとうございます」と弾む声で言って、袋を受け取った。
「さ、行くよ、なぎちゃん」
私の貸した辞書を気怠そうに肩に担ぎ、妹は凪嬢の腕を引っ張った。
凪嬢は私に一つ礼をして部屋を出ていった。
大変だったのはその晩だ。
風呂上がりの妹が私の風呂の順番になったことを伝えに部屋に来たが、明らかに怒気を含み、塞ぎ込んだような顔をしていた。風呂に呼ぶだけならわざわざ部屋に入り込むこともないのに、妹はずかずかと畳を踏み締めて我が物顔で部屋に入り、私のベッドに座り込んだ。
何事か理解できない私は呆気に取られて妹を見た。
「……なぎちゃん、お兄ちゃんのこと、好きだよ」
うつむいた顔に影を作り、妹は呟いた。
「辞書を貸してほしいって言ったのも、本を借りたのも、お兄ちゃんと近付きたかったからだよ」
妹は明らかに傷付いて、ガラス片を吐くように言った。
普段から気丈で特に私に対しては決して弱味を見せようとしない妹が、このときばかりは心を乱し、ナイフのような目で私を睨んだ。
「……あたしの友達なのに……サイテー……大嫌い!」
妹は発条のように立ち上がると、濡れた髪を揺らしながら畳を踏み付け、部屋を出ていった。噛み締めた歯が一瞬ちらりと見えた。去り際に妹が力任せに閉めた襖は、柱に激しく叩き付けられ、僅かに跳ね返った。細く開いた隙間から廊下の闇が見えた。
きっと妹は私を断罪したかったのだ。私の心身を完膚なきまでにびりびりと破り、誰も思い出せない闇の奥へと葬り去ってしまいたかったのだ。
凪嬢が私の本を返しに来たのは十一月の終わりだった。妹は学校で受験のための補習を受けていたので私が凪嬢を出迎えた。
「今日は月曜日で部活が休みなんです」
どうりで早い時間に来るわけだ。私は凪嬢を部屋に招いてお茶を出した。凪嬢は湯呑みを両手で持ちながら西の障子を見つめ「この部屋の西日はとても綺麗ですね」と言った。
「あんまりいいわけじゃないよ。今の時期は暖房代わりになるけれど、夏は暑いし無駄に眩しいし、鬱陶しいよ」
「だけど、とても綺麗です」
その障子紙には私の秘密の妄想を隠してある。まさかそんな隠し事があるとは凪嬢も思わないだろう。私の目の前で、何の疑いも持たない純真無垢な少女の瞳が、セピア色に透き通っていく。何かがきらりと光った気がした。
「わたし、明世さんが好きです」
静かな部屋の中で、凪嬢は突然告白した。色も温度もない透明な言葉が私の耳を通り抜けていく。それは、想定内の告白のような気もしたし、衝撃的な告白のような気もした。妹のいない場所で、凪嬢は螺子が外れたように喉を震わせた。突き進めるまで突き進み、壊せるものは何でも壊してしまいたい。そんな刹那的な勢いだった。凪嬢は頷くように頭を垂れると、刹那的な勢いのまま、更なる告白をした。
「でも、あなたのことも好きです」
私の耳はきぃんと静寂を弾いた。それは、私が心のどこかで望み、想定すらしていた言葉だった。いつどこで好かれたのか分かりもしないけれど、私はようやく赤い障子紙を破って自分の願望を引き摺り出したような気がした。
そこから先の記憶はほとんどない。ただふらふらと立ち上がり、冬用の黒いセーラー服に包まれた凪嬢の肩に手を置いて、じっと彼女を見つめたことだけは覚えている。そのときの私の目は恐ろしいほど燃えていたに違いない。凪嬢は私の目の中に、意思のない無数の灰が飛び散っているのを見たのではないだろうか――。
凪嬢はそれからもこの家に通い続けたが、私と顔を合わせることは二度となかった。妹が中学を卒業するまで二人は実の姉妹のように仲が良かったので、凪嬢は妹といるほうが幸せだったのかもしれない。
妹が中学を卒業してから四ヶ月。妹は新しい高校生活の忙しさに揉まれ、凪嬢は早くも受験のために塾へ通い出し、気軽に遊べる間柄ではなくなった。
妹は突然思い立ったようにこの春からミニトマトを育て始め、甲斐甲斐しく世話をした。ミニトマトは元気に育ち、次から次へと実をつけ、私の西向きの窓を赤い斑点で染め上げた。今や障子紙の向こうにあるのは秘密の妄想などではなくミニトマトの生垣だ。図らずも妹は私を妄想の世界から現実へと引き摺り戻したのだった。
私は飽きるまでミニトマトを摘まみ続け、庭にいる妹を眺めた。やがてミニトマトにも妹の観察にも飽きて、私は窓を閉め、台所の冷蔵庫にミニトマトを持っていった。口の中が酸っぱい。
私の部屋はあのときのように西日を受けて輝いている。赤い光が毎日私の心を暴こうとしていた。
赤 すえのは @suetenata
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