第27話 鏡の中の悪役令嬢

 その日は朝から雨だった。

 水滴が流れ落ちる窓ガラスを見ながらサンドラは呟く。

「雨は嫌いじゃない。心が落ち着く」

 今日は、サンドラとセイラ王子の婚約披露パーティーの日だ。しかし、朝からあいにくの雨だった。

 サンドラは、何となく動きたくなくて、ソファーに寝そべったままである。

 フランと二人のメイドが、昨日完成したばかりのドレスを三人がかりで持って部屋に入って来た。見たこともないほど真っ赤でゴージャスなドレスだ。

 サンドラは驚く。

「えっ? そんなのを着るか?」

 公爵令嬢だけあって、いつも高級そうな服ばかり着せられるのだが、このドレスがさらに桁違いの高級品であることは、元貧乏侍であるサンドラにもわかった。

 フランは三面鏡の前で、メイクの準備を始める。

「もちろんです。国王様へのご挨拶とご婚約の発表なのですから、精一杯おめかししませんと」

「雨だが」

「濡れるのは、馬車に乗る一瞬と降りる一瞬だけでございます。それも、私たちが精一杯お守りしますので、ご心配いりません。さ、その『小袖(江戸時代における普段着)』とか言う珍妙な部屋着をお脱ぎください」

 サンドラは、シルビアに縫ってもらった小袖を脱がされると、三面鏡の前に座らされた。

 三人掛かりのメイクが始まる。

 フランは、メイクをしながら涙を流していた。

「眼にゴミが入ったのなら、洗い流した方がいいぞ、フラン」

「違いますよ、お嬢さま……フランは嬉しくて泣いているのです。お屋敷にお仕えして十五年、幼い頃からサンドラ様を見守って参りましたが、こんなおめでたい日が来るなんて」

「ほほほ」

「今だから申し上げられますが、ここ数年、私はサンドラ様が恐ろしくて仕方ありませんでした。いつも怒鳴られてばかりで……しかし今、ようやくサンドラ様の真意がわかります。私たちを一人前のメイドにするために、あえて厳しくご指導頂いていたのですね。いつか嫁がれる、その日のために……」

 気が付くと、他のメイド達も涙を流している。

「……最近はすっかり優しく接して頂けるようになり、私たちもようやく一人前と認められたのだと皆喜んでおります。サンドラ様が宮殿にお入りになっても、私どもがしっかりお屋敷をお守りしますのでご安心ください」

「ほほほ」

 ひと通りメイクが終わると、次は三人掛かりでドレスを着せられる。

 そして、最後にマリー夫人が入って来て、夫人自らサンドラに装飾品を付けた。

 それは、巨大なエメラルドのネックレスだった。

「これはね、エメラーダ家に代々伝わるネックレスなの。特別な時だけに付けるのよ」

 マリー夫人も幸せそうで、サンドラから一歩離れると、全身を見渡した。

「うん! とっても綺麗! 真っ赤なドレスに、エメラルドのグリーンが良く映えるわ」

「お母さま。今日は第一王子警護筆頭の就任式でもあるのですが、この格好で大丈夫でしょうか?」

「もちろんよ。女の幸せとしてどちらが大事か、考えるまでもないでしょ」

 母は、どこまでも女であった。

「さて、お父さまの所へ戻らないと。久しぶりに正装しているのだけど、あのひとったら、太り過ぎてお腹回りのボタンが止まらないのよ。だから、あれほど事前に着てみるように言ったのに」

 マリー夫人はメイド達と出て行き、サンドラはフランと二人きりになった。

「サンドラ様、どうぞお掛けください。長時間でも御髪が崩れぬよう、もう少し整えておきますね」

 サンドラは、再び三面鏡に向かって座る。

 そして、しばらくたった頃だ。

 鏡に映った自分が、サンドラを凝視していることに気付いた。サンドラがまばたきしても、鏡に映った自分はまばたきしないのだ。

 サンドラはギョッとする。

「フラン! 鏡の中の私が見ている!」

「それは見ますよ、鏡ですもの。サンドラ様が見れば、鏡も見ます」

「いや、私は見ているだけなのに、鏡は注目して見ているのだ!」

「はいはい。緊張なさっているのはわかりますが、落ち着きましょう。さあ、深呼吸して」

 言われた通りに深呼吸していると、今度は鏡の中の自分が右手を伸ばしてきた。もちろん、サンドラはそんな行動を取っていない。

「ひぃ!」

「息を止めてはいけません。大きく吸って、大きく吐いて」

「でも、フラン! 鏡の私が……」

 フランが鏡をのぞき込む。鏡越しにサンドラと目が合った。

 サンドラを落ち着かせようと、ニッコリほほ笑む。

「御髪は完璧でございますよ。時間までおくつろぎください。お茶をお持ちしますか?」

「あ……ああ、お願いする」

 フランが出て行くと、サンドラは改めて鏡の前でいろいろと試すが、もう先ほどの不思議な現象は起きなかった。


 しばらくすると、エメラーダ公爵がやって来た。

「おお、サンドラ。何と美しい。母さんに似てくれてありがとう。私に似ていたら、今回の婚約は絶対なかったよ。ワッハッハッ」

 腹回りのボタンが何とか閉まり、公爵は上機嫌だ。胸の勲章がジャラジャラと重たい音を立てる。

 そしてサンドラは、鏡の中の自分が愛おしげに公爵を見ているのに気付いたが、もう何も言わなかった。

「お父さま、鏡の中の私に向かって、もう一度言って頂けませんか」

「鏡に? 妙なやつだな。もちろん何度でも言ってやるよ。今日のサンドラは、最高に綺麗だ」

 公爵はサンドラの後に立ち、鏡の中のサンドラに向かって言った。

 すると、鏡の中のサンドラが、ポロリと涙をこぼした。

「おいおい、こんな時に泣くんじゃない。ワシまで泣いちゃうじゃないか……あれっ?」

 公爵はサンドラの顔をのぞき込んで驚いた。涙が流れていない。

「ありがとうございます、お父さま。間もなくお迎えが来る頃です。参りましょう」

 サンドラは立ち上がると、ドレスを揺らしながら部屋を出て行く。

 公爵は、妙な錯覚を見たものだと思いながら後に続いた。


 誰もいなくなった部屋の中では、鏡が涙を流し続ける優しい笑顔のサンドラを映し続けていた。

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