妖精の話をしよう(3)
あの妖精の名前は、マリオンというらしい。
クラディール伯爵家の長女で、今は社交のため一家で王都に滞在中。母親であるクラディール伯爵夫人が亡くなっているため、特に婦人向けの社交の場には彼女が顔を出しているという。
言われてみれば、いくつかの夜会で顔を見たことがあったように思う。父親の傍で、形式ばった挨拶を交わす彼女には、たいした印象は残っていなかったが。
年齢は十六歳。一つ上の兄と、三つ下の妹がいる。昨年、六つ上の貴族の令息と婚約を交わしたばかりである――――。
――だから、どうしたということもないが……。
日も暮れかけ、帰路につく馬車の中。窓の外を眺めながら、私は言い訳めいた考えとともに、誰にともなく首を振る。
今日もまた、義務のような社交の帰り。若い令嬢も多く参加する会合だったが、彼女の姿は見当たらなかった。
もとより、クラディール家とは家格が違う。互いに付き合いのある家々も違う。
大規模な夜会や舞踏祭ならまだしも、知人を集めたような小規模なサロンや茶会では、どうやっても顔を合わせることはない。
それに、顔を合わせたところでなんだというのだろう。
相手はただ一度、暗がりの中で出くわしただけ。実際には妖精でもなんでもない、ごく平凡な令嬢だ。別に、興味を引くような相手では――。
――いや、興味はあるな。すごくある。
なにせ平凡な令嬢が、婚約者を投げ飛ばしていたのである。
十も年下の相手を好きになったから婚約を解消してほしいという、修羅場に出くわしたのである。
これで興味を持つなというのが無理なもの。関わりたいかと言えばあまり関わりたくはないが、正直なにが起きたのかはかなり気になる。気になって、思わず相手の家名や名前を調べてしまったりもする。
ただ、これはあくまで純粋な好奇心だ。
物珍しさに目を奪われるようなもの。話しかけて見たいとか、親しく付き合いたいとかいうものではない。
遠目から改めて眺めて、本当に実在したのかと感心して、世の中にはああも力強い令嬢がいるのだと納得できればそれでいい。
言い訳めいた『だから、どうしたということもないが』は、だから言い訳でもなく本心だ。いるならいるで見てみたいが、いないならいないでも仕方がない。
クラディール家が王都に滞在するのも、社交シーズンである春の間だけ。夏になれば去って行くし、来年になればこの好奇心も薄れているだろう。
このときの私にとっては、その程度のものだった。
ついつい、目で探してしまうという程度。珍しい蝶を見たあとに、もう一度見つけられないかとしばらく周囲を気にする程度。
だが、この好奇心ゆえの関心が、私に彼女を見つけさせたのだ。
馬車越しの窓の向こう。大通りを駆け、通り過ぎていく一瞬の景色の中。
もうじき夜に変わろうという薄暗がりを、供も連れず一人で駆けていく細い影を。
「――――止まれ!」
その姿を見た瞬間、咄嗟に御者に命じていた。
侍従が戸惑い、なにかあったかと外の護衛たちが訝しむのをよそに、私は馬車から一人飛び出す。
引き留める護衛たちの声は聞こえていたが、私の意識は通り過ぎた影だけに向いていた。
珍しい蝶を、捕まえてやろうという気はなかった。遠目から眺めるだけで十分だった。
たぶんこのとき目にしたのが、あの力強い妖精のままであったらなら、きっとわざわざ馬車を止めてまで追いかけようとは思わなかったはずだ。
だが、私は別のものを見た。
外行きではないが、明らかに貴族とわかる服装。室内履きのような飾りの少ない靴。
社交シーズンも終わりに近づき、初夏に差し掛かっているとはいえ、夜はまだ肌寒い。それなのに上着もなく、供もなく、明かりも持たずに暗闇へ消えていく。
暮れかけの長い日に照らされた彼女の、一瞬で消えていったその横顔が――――。
私には、泣いているように見えたのだ。
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