罪深く、許しがたきは(1)
醜い神様コミックス5巻発売記念番外編です。
過去編および本編5章あたりの時間軸の、闇の女神にまつわる話。
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闇の女神ソワレは、恐ろしく罪深い存在だ。
気まぐれ、奔放、わがままな男好き。節操がなく誰に対しても手を出して、弄んでは捨てていく。
この神殿の神官は、誰もが一度はソワレに魅了されている。そのくせ、彼女自身は結局誰の手も取らない。人の心を転がすだけの、罪作りな悪い女が、ソワレという神なのだ――。
と。
面白おかしく伝えられていた噂も、あながち間違いではなかったらしい、と少年は思う。
まだ十二歳。家族のもとを離れ、見習いとして住み込みで神殿に入ってから半年。
押し付けられる理不尽と、ぶつけられる鬱憤と、神殿の腐敗と、蔑ろにされる神々と、それに追従しなければならない自分と、無意味な抵抗とその罰と、平民の立場の弱さと、諦め、擦り切れ、麻痺していく自分自身に耐えられなくなったとき。
与えられた仕事を投げ出して、誰もいない神殿の片隅で涙も出ないまま一人でうずくまっているところに現れる女神なんて、どうあっても罪深い存在でしかなかった。
「あーあ、無理しちゃって、少年」
日も暮れかけの、神殿の裏手。神官たちが詰める建物からは遠く離れた雑木林の奥で、少年は声をかけられた。
声は高く、女性のものであるとはすぐにわかった。だが、笑みを含んだようないたずらっぽい声に心当たりはない。聖女たちの声とは異なるし、彼女らが雑用を言いつける以外で見習いに過ぎない少年に声をかけることもない。
そもそも、聖女がこんな場所にいるはずがなかった。神殿には聖女の世話をするメイドや、少ないながら女神官も存在するが、彼女らだってもうじき夜という時間に薄暗い雑木林には入らない。
いったい誰が、と重たい頭を持ち上げて振り返り、少年はそのまま凍り付いた。
咄嗟に平伏することもできず、彼は唖然と目の前の存在に目を見開く。
「そんなに穢れを溜めちゃって。いい子だねえ。でも駄目だよ」
目に映るのは、木々の影に溶けるような黒い髪だった。
それから、対照的なほどに白い肌。闇に浮かぶような輪郭に、大きな瞳が浮いている。
夜の色に瞬く瞳に、少年は動けなかった。神々は美しいものだと聞いているが、少年が実際に目にしたのは初めてだ。
あまりにも衝撃的だった。一目で、それが人間ではなく神だと理解した。美しい、という言葉だけでは言い表せないほど鮮烈に、女神の姿が目に焼き付く。
それが『ソワレ』という名の神であることを思い出したのは、少しの間のあとだった。
「ソワレ……様……?」
「うん、そう」
震える声に、女神ソワレが目を細める。
神を相手に礼もできない少年に、気を悪くした風もない。どこか余裕めいた態度で、彼女は少年に歩み寄る。
「手、出して」
おもむろに告げられた言葉に、少年は「え」と声を漏らした。
すぐ目の前で、女神が自分に手のひらを向けている。その手はやっぱり夜闇に浮かぶほどに白くて、細かった。
「いいから、早く」
急かされるように言われて、少年は慌てて自分の手を持ち上げる。
女神はその手を迷わず取った。滑らかでやわらかな素肌が触れて、握りしめられる。
思いがけず強くて、だけど優しい力だった。
こんな風に握られたのはいつ以来だろう。神殿に来る前、母や姉がつないでくれた手と、よく似ている。
女神はつないだ指先を見つめ、少しだけ悲しげに目を伏せた。
「…………苦しいね。苦しいこと、いっぱいあるよね、ここは」
指先はひやりとして、それなのにじわりと温かい。
声は静かで、独り言めいていて、だけど耳に染み込んでいく。
神殿に来てから、優しい言葉をかけられたことは何度あっただろう。
指導役の神官は自分の鬱憤を晴らすように少年に当たり、清廉なはずの聖女たちは少年を存在ごと無視し、神々は姿さえ見せてくれず、同期の見習いたちはそんな環境に馴染めない少年を愚か者だと見下した。
要領がよくなければ、この神殿ではやっていけない。慣れなければやっていけない。心を殺し、信仰を捨て、顔色を窺って、神ではなく上役の神官たちの望む行動を取らなくてはならない。
それが当たり前なのだ。そこに苦しむ自分の方がおかしいのだ。
そう思わなくては、この神殿ではやっていけなかった。
でも。
「でも、よく頑張った。頑張っているね、少年」
でも、そう。そう言ってもらいたかった。
慣れてしまいたくなかった。誰かに認めてもらいたかった。
おかしくない。苦しんでも仕方がない。こんな場所、こんな環境、当たり前じゃない。
当たり前なんかじゃないんだ、と。
「だから特別だよ。今回だけ。みんなには内緒だからね」
その言葉とともに、指先がほんのりと熱を持つ。
戸惑うような感覚は苦痛ではなく、どこか温かさがあった。
同時に、少しだけ心が軽くなる。
誰に吐き出すこともできず、自分の中に溜め込み、抱え続けていたどろりとした暗闇が薄れていく。
まるで、暗闇に抱き留められるかのようだった。
あるいは目を閉じて、誰かの優しい腕に抱き留められるような心地がした。
「……………………あ」
気が付けば、喉の奥から嗚咽が漏れていた。
もう出もしなかった涙が、あとからあとからあふれてくる。
耐え切れなかった感情が涙になって、いくつもこぼれ落ちていく。
濡れた目を、少年は拭わなかった。
女神に手を握られたまま、ただ「もう少し」とだけ思っていた。
もう少し。
あと、もう少しだけ頑張ろう。もう少しだけ、やってみよう。
そう思わせる女神は、なんて罪深いのだろうか。
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