第5話

 濃霧の立ち込める朝方。地平線から黄金のように輝き始めて、少女は眠りから覚めました。くしゃみを二度すると、上半身を起こして背伸びをしました。目をこすりながら、死骸のある足元へ青い目を落とします。


 起き抜けのせいか、少女の反応は薄いものでしたが、程なく牝鹿を認識したようです。ハエがたかり、内臓をひけらかすそれに心底驚いたらしく、声なき悲鳴を上げて逃げました。少女の背よりも高い根に慌てて隠れると、金の髪を揺らしながら、陰からそっと顔を覗かせてきます。


 黒い鹿の傍らに伏せていた獣は、少女の予想外の行動に、ポカンとした様子で見据えていました。それも束の間。今度は憮然としながら、骸を乱暴に咥えて運びだしました。傾斜を下っていき、森に入る手前で鹿を放します。


 そのまま比較的平地である、大木の外周を進んでいきます。重そうに歩く獣の全身には、霧による細かな粒子が張り付いており、毛がしっとりと濡れていました。不快感を覚えつつ泉までやってくると、獣は湧き水へ鼻を近づけました。


 すると、ずっと後をつけていたのでしょう。少女は獣を覗き込むように、横からひょこりと白い顔を出しました。


 獣は彼女を無視して、舌で冷水をすくいます。しばらく獣の動作を熟視していた少女は、何を思ったのか泉へ直接口づけました。水面を舐めるように、たどたどしく水を含んでいます。あまりにも不自然で、ぎこちない仕草に、今度は獣が不思議そうに眺めました。


 ぷはっと息を吐き出した少女は、獣へニッと笑いかけると、とことこ何処かへ歩いていこうとします。興味をそそられた獣は、少女に続きました。向かった先。そこは、あの赤い実の生る茂みです。少女はまたしても、実を夢中になって食べだしました。


 そんなちっぽけな物よりも、自分の狩った獲物のほうが、よほど腹は満たされるのに。獣は不満を抱くも、手足の長い猿を思い浮かべていました。


 彼らはたまに肉を食らいますが、主だった食事を想察するに、木の実や葉を好んでいるようでした。獣は生物によって食べ物が違うことを知っていました。ですから、少女は果実を好むのか、と少しだけ残念な気持ちになった反面、腑に落ちました。


 赤い実を口へ運ぶ少女を、鼻先で突っつきます。軽くつついたつもりが、少女はよろめきました。食べる手を止めて、獣をじっと見つめています。少女を一瞥して、くるりと尻を向けました。ついてくるよう示したのです。少女は獣の意図を察したのか、素直についていきました。


 獣はこの森に詳しかったので、彼女に果物のある場所を数カ所案内しました。実を碧眼に写す度、少女は全身を使って喜びを表現しました。獣はその姿を目にして、ようやく満足しました。


 そうして、奇妙な生活が始まりました。


 少女と過ごして分かったこと。石につまずくわ、木に止まる鳥を眺めて引っくり返るわ、蝶を追って崖から滑落しかけるわ……。なんて愚鈍な生物だこと! おかげでちっとも、少女から目を離せません。


 何が珍しいのか、巨木の周りを四方八方にはしゃぎまわる少女を叱りつけた事もあります。前足で白い身体を押さえつけたら簡単に倒れて、あわや潰しそうになりました。こんなにも貧弱で、繊細で、華奢だとは思わず、獣はおろおろしました。


 けれども少女は、パッと地面から身体を起こすと、獣へ花のような笑みを向けて、胸元に蓄えた飾り毛へと飛びついていきます。


 獣の心配などどこへやらです。謝罪の意味を込めて、少女を舐めました。


 今までの暮しでは皆無だった充足感。まるで、春の陽気に歓喜する花々のごとく、あたたかなものが獣の内に芽生えていました。


 ある風の強い日のこと。獣は少女と森の端までやってきました。縄張りから外れてしまうものの、それでもここまで赴いた理由は、彼女にとって必要なのではと考えていたからです。


 森を抜けると、平原に出ました。緩やかな上り斜面の先に、明らかに自然のものではない建築物がうかがえました。


 そこは、人間の住まう農村。獣は真横に立つ少女を、ちらと見ます。彼女は食い入るように村を凝視していました。獣は音を立てぬよう数歩、後ずさります。そして、春風でなびく金の髪をつぶさに観察しました。


 暫し、少女はその場で固まっていましたが、小さな足を踏み出しました。薄汚れたワンピースを翻して、一目散に獣の胸へ飛び込んできたのです。


 獣はおずおずと、幼子を迎えました。少女たち人間は、群れをなす生き物であることを承知しております。あのまま同胞を求めて村へ行ってしまっても、無理のないことだ。獣はどう転じてもいいように、自身に何度も言い聞かせていました。


 なのに、少女は今も側にいます。彼女は自分を選んでくれたのだと、複雑な気持ちを抱えつつ、嬉しく想うのでした。


 獣はその時、この生活は永遠に続くのだと。盲目なまでに信じておりました。


 そんな獣の想いとは裏腹に。少女は日が経つにつれやせ細り、衰弱していきました。

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