第2話
空が白み、小鳥が一日の始まりを告げています。
花の中の少女は、温い朝日に頬を撫でられて、むにゃむにゃと目をこすりました。それを見届けた獣は、気怠い体を起き上がらせると、白花を分けながら木々の並間へ立ち入りました。
シパシパとする瞼を持て余しながら進んでいると、背後から草木を踏む音が追ってきました。軽い足音の正体に、獣は即座に勘付いたものの、四足を止めず、どんどん距離を離していきます。
背面の気配に構わず進行すると、前方の視界が開けて、先に続いているはずの地面がなくなりました。けれども獣は慌てることなく、慣れた仕草で飛び降ります。
前足から地表へ垂直に降下。蝶が葉にとまるかのごとく、ひらりと着地しました。
気配を容易に振り切った獣は、そのまま湿った臭いのする方角を目指します。そして、さらさらと流れる小川へ到着しました。透明度の高い穏やかな水流には、二匹の魚が仲良く泳いでいます。緑の獣は川面へ口をつけて、自身の顔を写す冷水で喉を潤しました。
口の周りを舐めると、これからどうするか思案します。本来ならば眠っている時間帯。眠気を覚えていましたが、腹に何か入れたくなりました。しかし、主食である草食動物は、明るい今では活発に動いているため狩りにくい。睡眠か、食事か。獣は迷いましたが、腹ごしらえをすることにしました。
早速、草食獣の匂いを嗅ぎとりながら練り歩いていたとき、ふいに森が騒々しいことに気付きます。普段、深夜に活動している獣が不穏な動きをしているのです。物珍しさと警戒心で、森の住民が騒ぎ立てているのだと推測しました。
しかし……。そう鑑みても、獣のいる地点ではなく、離れた土地から聞こえてくる。怪訝に思いつつも、想起されたのはあの少女。
ある考えに至った獣は、ぶわりと毛を逆立てて、ざわめく方向へ駆けだしました。自慢の鼻を頼りに、風のごとく走ります。
すると、少女だけでなく、他の生き物の臭いを強く捉えました。得体の知れない焦燥感に後押しされて、大地を力強く蹴っていきます。
臭気がどんどん濃くなるにつれて、眼前には先ほど降りたばかりの崖が迫っていました。
獣は跳躍して断崖絶壁を一気に登ります。そして木立の隙間を疾走すると、臭いの中心に辿り着きました。
赤い果実の生る茂みの傍らで、少女は三匹の狼に包囲されていました。木を背にしてへたり込む幼子へ、猛獣は今まさに襲いかかろうとしています。
獣は、狼へ咆哮しました。それは腹わたまで震え上がらせるほど、激しい怒りのこもったものでした。
何故こんなにも感情が揺れ動いたのか、獣自身分かりません。胸の奥の何かが沸き立ったのは、獣の人生、もとい獣生の中で、初めての経験だったのです。
近場で発せられた突然の吠え声に、狼は瞬時に注目しました。狼は巨獣を瞳に捉えた途端、文字通り尻尾を巻いて逃げました。
残された少女は、うさぎみたいに真ん丸な碧眼をぱちくりさせています。どうやら狼に代り、幻想的な獣が登場したことで、恐怖を通り越し唖然としているようです。そんな無警戒の少女を一瞥した獣は、すっかり興ざめしてしまい、狩りを諦めて踵を返しました。
どことなく垂れ下がった尾を、歩調と共にふらふらさせていると、花畑を去ったときと同様の足音が追ってきました。ちらと後ろを窺うと、金髪の少女がついてくるではありませんか。
獣の前足ほどしかない体躯で、草木に遮られながらも一生懸命に走っています。何故追いかけてくるのか。奇妙に思ったものの、特段気にすることなく、獣は止まりません。
ですが……、少女はしなった枝におでこを弾かれたり、木の根っこにつまずいて倒れたり……。漂ってきた血の香り。獣は次第に、少女を気にかけるはめになりました。仕方なく歩みを遅くして、時々、面倒くさそうに振り返りつつ見守ります。
少女はそんな獣を、宝石のような瞳で真っ直ぐ見つめて、一心不乱に手足を動かしておりました。
そうして、いつもであればとっくのとうに着いていた巣に、ようやく帰ってきました。
緑獣の住処。そこは万物を抱擁せんと、枝葉を空へ巡らせ、太い根を広大な森の隅々まで張らせる巨木。
この木はいつからここにあるのか、長命である獣ですら知りません。ですが、獣よりもずっとずっと前からここに佇んでいる事実だけは認知しています。
獣はその大木の真下まで駆け登ると、いつも休息を取る寝床へどっしりと横たわりました。お行儀よく組んだ前足に顎を乗せて、根元にいる幼子を注視します。
少女は自分よりも、獣よりも大きな木を、あんぐり口を開けて仰いでおりました。そのまま数歩後ずさったと思ったら、背中から倒れてしまいました。けれども獣は、今度こそ動じません。彼女の倒れた場所は、ふかふかと湿った土と、やわい青葉の生える地表。よほど運が悪くなければ、怪我をすることなどないと知っていたからです。
倒れ込んだままでいる少女から興味を失うと、獣は体をカタツムリの殻模様みたいに丸めて、目を閉じました。
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