声なし少女と神獣奇譚

稲餅瓜

第1話

 ふわりと甘ったるい春風に混じり、微かに香った異質な臭い。やわらかな風が木々を撫でつつ広める異香を、鋭敏な鼻が嗅ぎ取りました。


 うららかな新緑の木漏れ日を注ぐ森。ゆったりと瞼を開いて、重量のある二本の角ごと頭を上げます。


 前脚を突っぱねて、大猫のごとくしなやかな体躯を、限界までうんと伸ばしました。大口開けて欠伸を一つ。狼に似た精悍な顔立ちが、間の抜けた表情へと一瞬変じます。脚をお行儀よく揃えて腰を落ち着けると、後ろ足で顎をぼりぼり掻きました。


 琥珀色の瞳を細めた下方。胸の周りにたっぷり蓄えた、クリーム色の飾り毛がふわふわと揺れています。心ゆくまで掻きむしったあと、尻を上げて、四足をのそのそ動かしました。


 虎杖いたどりの葉のような、黄みを含む濃い緑色の獣毛には、黒い縞模様が全身に刻まれています。木々の合間から射し込む日光が、胴の側面に渦巻く特徴的な柄までさらけだしました。それは一国の王の如く、堂々たる巨躯を周りに知らしめているかのようです。


 湿った土に足跡を残す獣は、地面に張り巡らされた根を越え、時に踏みつけながら迷い無く進んでいきます。やがて、開けた空間の手前までやって来ると、草葉の陰へ身を屈めました。


 厳しい冬を乗り越えて、待ちに待った季節に喜びながらも恥ずかしげに俯き、けれど大きく白い花びらを広げたカタクリの花たち。薄暗い森の中で唯一、ぽっかり天を覗かせる花畑の中心に、蠢く影。


 それは花と同じ、白色のワンピースを着た人間の女の子です。絹糸のように艷やかな金髪を背へ流す幼子は、大粒の涙を次から次へとこぼして、真っ赤な顔を両手で擦っていました。


 小娘を注視する獣は、鼻面にシワを寄せると、口を軽く開いて牙を見え隠れさせます。


 大口を開けて泣く動作から、自身を察知して威嚇をしているのではと勘ぐったのです。しかし、少女は一向に獣を見ようとしません。


 いったい何をしているのだ。だんだん見張っているのが馬鹿らしくなってきた獣は、ようやくあることに気付きます。


 涙をぼろぼろ流しているのは確かなのに、小さな女の子は全く声を上げていなかったのです。木の上に住む毛むくじゃらの猿と等しく、神経を逆撫でするほど耳障りな発声をするのに、前方の幼子は口を湾曲させるのみ。


 それにくわえ、獣にとって奇々怪々の巣を根城にする人間は、いつも凝り固まっている生活しているはず。なのに、何故一人でいるのだと疑問を抱きます。


 考えに耽っていると、女の子は周囲の花を真似るように俯いて、顔を隠してしまいました。


 少女の様子から、大した脅威を感じなかった獣は、音を立てぬよう身を起こします。そして、自身の残した足跡を時折踏み締めながら、来た道を戻ることにしました。


 その道中、角に小鳥が止まりました。空を仰いで、活発に生きる囁きへ耳を傾けつつ、獣は寝床へと帰ってきました。そうして定位置に腰を据えると、再び眠りにつきました。


 夜も更けた時分。獣はパチリと目を開きました。目線を周辺へ巡らせながら、獲物を求めて森を探索します。獣は夜型でしたので、昼間とは違い真っ暗闇でも、問題なく進めるのです。


 姿は確認できませんが、梟のこもった鳴き声が反響しています。人にとっては不気味な囀りも、獣にとってみればいつもと変わらぬ隣人、もとい隣鳥の会話です。梟たちの談笑を聞きつつ、長い髭とともに鼻をひくひく動かします。美味そうな草食動物や、狩りに挑む生物に紛れて、また、あの臭いが掠めました。


 暗くなると自らの巣へ帰る人間が大半。ましてや、あんな幼子がまだ深々とした森にいるなんて。獣は少しだけ驚きました。


 一度気になってしまうと、どうにもこうにも落ち着きません。せっかく獲物を見つけても、こちらの気配を敏感に気取られ、すぐさま逃げられてしまいます。


 苛立ちを隠しきれなくなり、とうとう花の咲く地へ向かいました。憤慨しながらも、森の王者らしい余裕を繕って。


 カタクリの花の群生地へ舞い戻るも、獣の視界は風でさざめく白波を写すばかりで、少女は見当たりません。


 ですが、獣の鼻は終始、人特有の臭気を捉えていました。臭いの出処へ、慎重に近づいていきます。花を分ける度、地表から空へ芳香が上りました。


 そして、獣は女の子を見つけました。


 小さな身体を芋虫のように丸めて、白花に埋もれています。規則正しく腹を動す仕草から、どうやら眠っているようです。


 睥睨しながらも、頭の先から爪先までくまなく見つめる獣は、無警戒に熟睡する小娘へ鼻を寄せました。至近距離で嗅いでも、鼻息が当たっても、少女は起きません。納得のいくまで情報収集すると、もう一度、女の子をじっくり眺めました。


 ここへ来る前の苛立ちは、幼気な寝顔を見ている間に失せていき、今ではすっかり消えていたのです。心情の変化に獣自身も困惑していましたが、表情や態度には一切出ていません。プライドが許さなかったのです。


 その代わり、ただ仁王立ちになって少女を隅々まで熟視するばかり。束の間、獣は石像にでもなったかのように立ち尽くしていると、草の揺れる音を耳にしました。


 ようやく硬直を解くと、気配のする方向へ目線を這わせます。茂みの僅かな隙間から、月明かりで反射する眼を視認しました。どうやら腹を空かせた肉食動物が潜んでいるようです。


 獣は足下に目を落とします。無防備な様相から、危険が迫っていることに気付いていないみたいです。逡巡した獣は、少女からほんの少し、肌の触れない場所に腰を下ろすと、辺りを警戒しました。


 幾ばくもかからず、狐が様子を窺いながら、草葉から忍び足で出て来ます。それを目にして、獣は低く唸ります。明らかな敵意に、狐は脱兎のごとく草むらへ隠れました。けれども狐は、未練たらしく隙を覗っているようです。狐はかなりの時間粘っていました。


 しかし、獣は離れる気がないのだとみるや、諦めがついたらしく、間もなく姿を消しました。その後も入れ代わり立ち代わりで、肉を好む者はやってきます。その都度、獣は牙を剥き出し、時に立ち上がってあしらいながら、朝が来るのを待ちました。

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