ep.9

 


 影が最も短くなる時間。日差しは眩いほどの強さを放ち、冷ややかな大気が肌を撫でていく。


 ノアは森の斜面をうねるように続く道に腰掛け、川のせせらぎを見下ろしていた。

 目先には澄んだ水の浅瀬が流れており、辺り一帯にせせらぎの音を響かせている。柔らかく波打つ水は透明な岩肌のよう。無音ではない静けさは、人の心に安寧をもたらす。


 村を出てからのこの二日間、ひたすら道なき道を歩いていた。そのためか、ようやく道と呼べる拓けた場所に辿り着き、安心感から疲れがどっと押し寄せる。


 ノアは透き通った水の流れをぼうっと見つめると、地面に手をつけ、張りつめていた身体の力を緩ませた。このところ村で忙しなく動いていたからか、心労も相まり、思っていた以上に疲労が溜まっていたらしい。

 このひと月、常に何かに追われていた。終わらぬ修復作業、村の人々の手当て、パートーナーを失った住人宅への見回り、エリゼの分までこなす家事。全てを置いて、一人になった。


 こうして自然の中にいることを意識するのはいつぶりだろう。自然の流れに反して散っていった庭の花々が脳裏にちらつく。失って初めて、人生の中で当たり前のように存在していた鮮やかな色彩が、心を彩り、そして日々の活力になっていたのだと気づく。

 また一から始めるには、村の復旧でそれどころではないのに加え、あまりにも多くの気力と体力が必要になるだろう。ノアは半ば無理矢理手伝わされていただけの立場ではあったが、長年築き上げてきたものが一瞬にして崩れ去るというのは、一向に受け入れ難い寂寥感があった。


 久しぶりの心からの休息に、ノアのまぶたは段々と重くなっていく。睡眠不足が続いていたことも手伝い、意識が遠のきかける。意識を手放したい、手放せない、その駆け引きをしながら、うつらうつらとしている時だった。




 ガガガガガッッ



 突然の鼓膜を突き刺すような激しい音に、ノアの肩がビクつく。少し遅れて振り返ったその光景に、目を疑った。



 目前に、馬車の荷台が頭上に襲いかかって来ていた。


 何かの拍子に外れたらしいその大きな荷台は、この急な坂道で助走をつけ、けたたましい音とともにノアの方へと迫って来る。段差で荷台がひっくり返ったのと同時に、いくつも乗っていた重量のある輸送缶もすさまじい勢いで飛び掛かってくる。

 逃げる隙すら与えない出来事にノアの身体は硬直し、反射的に右腕で額を覆っていた。


 そんな時だった。


 来たる衝撃に身構えていたノアのその瞳に、影が映った。



 どこからともなく現れたその影は尋常ならざる速さで道を駆け、ノアの身体を爪が食い込むように力強く掴むと、勢いそのままにノアと共に激しく地面に転がっていった。突進でもされたかのような衝撃。目先の世界が激しく上下する。ほんの僅かな距離で、耳を突き刺すような衝突音が鳴っている。

 ノアは頭で考える隙もなく、半ばパニック状態のまま、影の人物にしがみついていた。



 ハッと我に返ると、あのけたたましい音が止んでいた。ふたりはなんとか難を逃れていたようだった。あまりの当然の事態に、ノアは何が起きているのかさっぱり理解不能であった。思考停止していた頭を動かそうと額を叩いてみるが、頭がクラクラとして視線も定まらない。


 だんだんとはっきりしてきた視界に、うっそりと焦点を合わせる。ノアに覆いかぶさるように顔を覗き込んでいるその人物の姿を、逆光でうまく捉えることができない。


「だ、大丈夫!?!」


 唐突に、頭上から焦りを滲ませた声が耳に届いた。


 ぼうっとした頭のままゆっくりと瞬きを繰り返すと、徐々に視界が鮮明になっていった。ノアの目前に、少女が目をまん丸くさせて顔を覗き込んでいた。

 まだあまり働かぬ頭のまま、ノアは絞り出すようなかすれた声が出る。


「な・・なにが・・・」


「うわ、頭打っちゃったかも。大丈夫そう?」


 少女がもっと顔を近づけるので、あまりの近さで視界が少女の顔でいっぱいだった。


「ち、近い・・・」


「ああ、ごめん、起き上がれる?」


 地べたにべったりと付いた背中を剝がすように、細く白い腕に力強く引き上げられる。


 座り込んで、膝をついた少女と目線が合う。

 降り注ぐ暖かい光が、その姿を鮮明にしていく。


 ノアを映し出すその少女の瞳は、まるで純度の高い蜂蜜を垂らしたような、綺麗な山吹色に染まっていた。ぱっと咲く虹彩は今にも吸い込まれそうな輝きを持っている。

 ミルクを多めに溶かしたようなホワイトアッシュの細い髪が、さらさらとそよ風になびく。毛先がくるんと内側を向いた艶やかでふんわりとしたミディアムロングの髪が、空から降り注ぐ光を吸収して柔らかく透き通っていた。


 存在感を放つ端麗な容姿で屈託なく笑うその少女はまさに、太陽が味方している。そんな表現が似合う少女だった。


「とんだ災難だったね。怪我してないみたいで良かった!」


 少女が歯を見せて、二カッと笑って見せた。


 冷えた体温が、少し上がった気がした。



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