ep.8
朝が来た。外に出て、大きく背伸びをする。
ひんやりとした、純な空気が鼻の奥を通り抜ける。雲の隙間から差し込む柔らかい陽光に包まれて、みずみずしい早朝の景色に思わず目を細めた。
どこかで朝の知らせを伝える鳥の鳴き声や、朝露が葉の表面で弾かれ滑り落ちる音、自然の色を鮮やかに色濃く照らす朝日も、すべてが新しい一日を迎える祝福のようだった。
漂う澄み切った空気を身体中に染み渡らせるように思い切り吸い込んで、ノアは濡れた草が一面生い茂る地面を鳴らしていった。
家の前にある手押しポンプから水を汲み上げ、木製の桶に溜めていく。勢い余る水圧で板に叩き付けられた水が弾き、水飛沫を上げた。粒状に飛び散る水が日光に照らされて、うっすらとした光彩を放っている。
日常になっていたこの作業も、今日からしばしの間解放されるのかと思うと、開放感と同時に寂しさに似た感情が湧き上がる。
水の入った桶の数が、空の桶を追い越したのをぼうっと見つめながら、ノアは淡々と作業をこなしていった。
ひと月前までは、この作業を日に幾度となく繰り返していた。それは、庭があったから。でも今はそれがない。
日課の水やりが身体に染み付き過ぎていたのか、ひと月経った今でもどこか変な感じがする。頭でちゃんと理解しているのに、何かをずっと忘れているような心地がまとわりつく。与えられた役割の存在というのは自分の中で勝手に肥大化して、いつの間にか自分を形作るひとつになっていく。そう村の誰かが雑談の一場面で言っていたのをぼんやり思い出しながら、水の溜まった桶を家の中へと運んで行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
家の諸々の作業が片付き、あとはもう出発するだけになった。ひとりで長い間家を離れるというのはよくよく考えてみれば初めての事で、なんだか落ち着かない。
例え長引いても冬が始まる前までには帰らねば、などと考えていると、何やら遠くの方から騒がしい声が聞こえてきた。目を凝らせば、小さな影が輪郭を帯び始めてくる。
「ノアーーー!!!!!あそぼ!あそぼ!!」
「ノアのおうちでかくれんぼしたい!!!」
「だっこ!!!!ノア!!!だっこ!!」
「…………おいコラ!服が破けるだろうが……!!」
怒涛の声圧に加え、なんの躊躇いもなく全速力で飛びつかれ、ノアはよろけそうになるのを決死の思いで踏ん張った。四方八方に引っ張られるノアの服が、限界を告げている。
「あーもう、いつもごめんなさいね。
こらっ!人の服を引っ張るなっていつも言ってるでしょ」
服を引きちぎるかの如く握りしめるちいさな手を、女性がパチンと軽くはたく。
「この子たち、ノアの見送りに行くって聞かなくて。」
そう困ったように女性が眉を下げる。彼女は現在村人たちの溜まり場になっている、赤い屋根の家の婦人だ。エリゼと気が合うのだろう、以前はしょっちゅうここに顔を見せては、二人でよく談笑していた。
「ノアもう行っちゃうのーー???」
「えーーーー」
「のあ!!だっこ!!!」
「うるせえなあ。お前らもう、引っ張るな!」
遠慮というものを何一つ知らない子供たちが、力いっぱい腕や服を引っ張ったり、飛びかかったりしている。その度ノアは何度も転倒しそうになる。
「ほんと、何しに来たんだよ!」
「のあ、だっこ!」
ノアの足元では、少女が手を高く上げながら何度も飛び跳ねて、ひたむきにアピールしている。願い事は絶対聞いてもらえるんだという、強いまなざし。ノアは観念して、少女を抱き抱えた。
ヨダレで頬に張り付いた横髪が、口に入って濡れている。ノアがそれに気づきよけてやると、小さな手で頬の肉を抓られた。こら、つねるな、と小さい腕を掴んで言い聞かせるが、声に覇気がないせいで言う事を聞く兆しが全く見えない。
足元では2人の少年がノアの周りをぐるぐると駆け回っていた。
「ここの所、ノアに会うといつもこうねえ」
「もうほんと、どうにかして下さいよ。さすがの俺でも疲れますよ!」
少女に頭を掻き回されているノアは、あちこち跳ねた髪で答える。
「あははは。まあ最近は大人ども、ずっとピリピリしてるからね。空気を察してかノアの近くに居たがるんでしょう。ほら貴方あまり本気で怒ったりしないし。
…ああそうだ、ノアのためにクッキーを焼いてきたのよ。ずいぶん遠いところまでお遣い頼まれたんだって?頑張ってね。」
ほら、とノアの手にクッキーの入った包みが渡される。布越しに焼きたてを思わせる温かさが伝わってきた。
「こんな時だけど、このくらいの贅沢は許されるでしょう。
それにしても本当に大丈夫?歩いて行くなんて大変なんじゃないの。」
片手で抱き抱えていた少女が騒がしく足をばたつかせるので、地面へと降ろしてやった。少女がすぐさま庭の方へ駆けていく。少し遠くで、少年2人が駆け回っている。気まぐれで、目先の欲に忠実で、なんの疑念も持たず人に寄りかかる。そんな子達を少し羨ましく思いながら、ノアは口を開く。
「冬までには帰れると思うんで、大丈夫ですよ。
上手く行きゃあ、あの道の亀裂も何とかなるかも知れないし。」
「まああまり無理せず、ね。」
「はい。じゃ、ちょっと荷物取ってきます!」
家の方へと、ノアが小走りで向かっていく。小さくなっていく背中を見守りながら、彼女はほんのりと微笑んでいた。
ずっと張り詰めていただろうし、気分転換にでもなれれば良いんだけど。と、そっと心の中で呟いていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ノアが窓越しに、エリゼの元へと駆け寄る。
「今日はずいぶん賑やかね。」
エリゼは口に手を当て、愉しそうに笑っている。
「いやもう、うるさいくらいですよ。
…じゃあ俺、もう行くんで。なんか体調とか色々、気を付けて下さいよ…!」
「…ああちょっと待って、髪が。」
背を向けようとした途端、そう言ってエリゼが窓から手を伸ばすので、ノアは窓に近づいてエリゼの顔を見上げた。
エリゼのふくよかな指が、ノアの跳ねた髪を通していく。花に接していた時のような、柔らかく丁寧な仕草だった。
「はい、少しはマシになった。気を付けて行ってくるのよ。」
花が咲いたみたいに、エリゼが顔を綻ばせる。ノアは自分の髪を触りながら、つられて顔を緩めた。
「はは、俺そんなん気にしねえのに。じゃ、行ってきます!」
そう手を振って、門の方へと向かっていく。
背後で「はい、行ってらっしゃい」という声が、優しく響いた。
ひどくひらけた景色を見渡しながら歩く。
ノアは、いつも庭の方を淋しい目で見つめていたエリゼの姿を思い出していた。何十年という途方もない月日を費やし、人生の生き甲斐のように育ててきたものが突如として奪われるとき、どれほどの喪失感を抱くのだろう。
向こうで何か喜びそうなものでも売ってればな、と考えあぐねながら門へ向かっていると、少し進んで、見慣れた顔が視界の端にうつった。ウィリアムが、森を背景に腕を組んでこちらを睨んでいる。ただ目線をよこしているだけなのに、顔つきのせいでよく誤解されるのをノアはよく知っていた。
「おじさんも、俺が居なくてもちゃんと仕事しろよ…!じゃあな!」
手を大きく振り上げて、叫ぶように伝える。
「ああ」と、無気力な声が返ってくる。
人付き合いが苦手なウィリアムは、自分が不在な中ちゃんとやっていけるのだろうか。そんな不安を抱きつつ、「頑張れよ!」と声を送ると、「お前がな」と返ってきた。
ノアは少し笑ってからウィリアムの方へ手を振って、歩き出した。
門のそばで、3人の子供たちがわいわいと集まっている。
ノアとしては行って帰ってくるだけで、特に重要事とは捉えてなかったが、賑やかな見送りに少し心が浮き立つ。
ノアに気付くと、子供たちがすぐさま駆け寄ってくる。それぞれ足元にしがみついたり、足に歯を立てようとしている。
「お前らも朝早くからありがとなー、じゃ、行ってくるよ。」
子どもたちの背を軽く叩きながら婦人に目を合わせると、「気をつけてね」と微笑まれた。
「のあー、いつ帰ってくるの?」
「ヤダー!!!あそぼ!!!」
「ノアおんぶしてー!!!」
「お前らなあ……すぐ帰ってくるから。
帰ってきたら沢山あそんでやるよ。だから俺が居ない間も、ちゃんと言う事聞くんだぞー?」
騒がしくしていた少年の頬を両手で包み込んで、顔をちかづける。少年は何も分かってないようなハツラツとした表情で、「はーい!!」と元気いっぱいに返事をした。
少女が、屈んだノアの腰目掛けて飛び付こうとしていたので、婦人がすぐさま抱き抱える。少女はそこから脱しようとふんぞり返って、必死に暴れている。
「ノア、ほら、もう行きなさい。この子たち、あんまり構うと着いて行っちゃうわよ。」
「あはは、それはやだなぁ。うん、じゃ、またな!
少しの間だけど、元気でなー」
「ばいばーい!」「明日帰ってくるー?」
ノアは後ろ向きで歩きながら、笑って両手を振り返す。見慣れた家が、いつもの風景が、遠ざかっていく。
早朝より強まった陽射しが、道に濃い影を落としていた。
少女の泣き叫ぶ、迫力のある声援を背に、家をあとにするのだった。
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