第41話 まだ始まったばかり

 サンドウィッチだけでは物足りなくなった三澄は、冷凍の焼きおにぎりを電子レンジで温めて、もぐもぐやっていた。既に三個目に入っている。


「にしても若菜、俺の名前頑なに呼んでくれないよな。あなた――て、今時、夫婦って関係を分かりやすく演出する時くらいにしか使わないぞ」

「う……、じゃあ、何て呼んだら?」

「名前でも何でも、好きなように呼んでくれりゃあいいけど、俺の方は若菜って呼んでるし、名前の方がバランスはいいかなーとか、思ったり思わなかったり?」


 若菜の出方を窺うように、視線を送る。期待の目を向けられた若菜は、間を持たせるように自分のサンドウィッチを一口齧り、咀嚼して飲み込んだ。


「……じゃあ、三澄さんで」


 気恥ずかしさがあるのか、若菜の声は小さい。こちらを向いたかと思えば、次の瞬間には明後日の方向に視線が行っている。挙動不審だ。サンドウィッチを持ったままで、些か小動物みがある。

 それから、溜めた疲労を吐き出すように嘆息して、


「三澄さんって、距離の詰め方すごいですよね」


 ……危うく、焼きおにぎりを喉に詰まらせるところだった。


「マジ? ちょっと気を付けるわ」

「あ、いえ、その、嫌ってわけではないです。私から行くのは無理なので、基本的には助かってますし」

「……基本的には?」

「先週の月曜日のあれは、流石にびっくりしました」

「先週の月曜日?」


 何をしたんだったか。ここ最近、色々なことがあり過ぎて、起きたことと日時が上手く繋がらない。


「知り合ってまだ三日くらいだったのに、あんなほとんどプロポーズみたいな……」


 ばっちり思い出した。


「いやぁ、その件につきましては……、忘れてくれない?」


 あれはもはや黒歴史だ。色々と熱くなりすぎて、脳味噌が溶けていた。


「無理ですよ。会ってすぐ裸を見られたことも含めて、忘れられるわけがありません」

「や、待って、見てないから! 大量のタオル被ってたのは覚えてるだろ? ちゃんとそのあたりの配慮はしてるから。それにほら、あん時まだ脱がしてる途中じゃなかった?」


 当時は確か、ワンピースを脱がそうとしたあたりで、若菜が目を覚ましたはず。若菜の腕を万歳させて……。なるほど半裸は確実である。前科一犯。


「会ってすぐの男性に服を脱がされるっていうのは、むしろ裸を見られる以上にダメなのでは? 直接触られるわけですし」


 捉えようは人それぞれだが、彼女の論も一理ある。水着を考慮すると、他人に半裸を見られることより、他人に半裸にさせられる方が、よっぽどアブノーマルだろう。

 じんわりと汗が滲んできた。おかしい。今日はもう普通に過ごすだけ。消化試合だと思っていたのに。


「どこか、触りましたか?」

「い、いや……」


 怖々と尋ねてくる若菜に、三澄は目を合わせられない。泳ぐ視線が、つい例の部位へと吸い寄せられる。


「――っ」


 さっ、と若菜の頬に赤みが差し、自分の体を守るように抱いた。


「いや違う! 確かにな? 触ったには触ったよ? でも、裸見ないようにってタオルだらけにしてたから、ホントにそれが胸だったかどうかは分かんないっていうか!」

「触れたかどうかも分からないくらい貧相な胸ですみませんでした」

「曲解が酷い!」


 地雷原に手ぶらで一人取り残された心地だ。何をしても、体のどこかが吹き飛びそう。


「あ、でも、そもそも三澄さんは、私の体になんか興味ないんでしたね」

「うんん⁉ 俺、いつそんなこと言った⁉」

「例の月曜日です。あの時は流石に傷つきました」

「いやホントもう、何から何まですみません!」


 ここまでで計三犯くらいだろうか。たった一週間ちょっとで、よくここまで地雷を埋めることが出来たなと逆に感心する。


「若菜さん、今日はもうお疲れっすよね? 良かったら俺、昼飯とか作っときましょうか?」


 平身低頭。共同生活二週間目にして、佐竹家内カーストが決定した瞬間であった。


「冗談ですよ。全部気にしてません」


 そんなわけねー、とは口が裂けても言えない。


「あ、あと、あの時、いい名前だって言ってくれたこと、嬉しかったです」

「ホントか? このタイミングの優しさはむしろ追い打ちよ? ここで一発フォロー入れときゃ大丈夫っしょ、とか思ってるなら大間違いよ?」

「嘘じゃないですって。……ちょっとクサいなとは思いましたけど」

「……」


 三澄、轟沈。テーブルがひんやりキモチィー。


「あ、あー、三澄って名前も、いいですよね。なんかこう……綺麗そうで」

「めっちゃテキトーですね。絶対今思いついたのをパッと言っただけのヤツじゃん」


 テーブルに突っ伏したまま、三澄は上目で不満を示す。


「初めて聞いた時からそう思ってましたよ。ちょっと中性的な名前だなーって」

「……中性的、か」


 昔のことをふと思い出した。懐かしい記憶。


「三澄さんは、もっと男らしい方が良かった感じですか?」

「や、今は別にそういうんじゃないんだけどさ」

「今は?」

「うん……。小学一、二年くらいの頃だったかな。俺、すみこちゃんとか言われて、男子連中にイジられてたんだよな」

「ええ……すみこちゃん、て。三澄って、そこまでされるほどの名前ですかね?」

「同じクラスにすみって付く女の子が二人いてさ。明日美、佳純、三澄つって、一緒くたにされたんだろうな」


 当時、全く交流のなかったガキ大将風クラスメイトと、授業でたまたま話す機会があり、名乗ったら、「え、じゃあ、すみこちゃんじゃん」とか訳分からないことを言われ、それが周囲にも伝わり、クラスの男子大半と女子の一部から、すみこちゃんと呼ばれるようになった。


「それに俺、昔はちょっとなよっとした性格だったから」

「そうなんですね。ちょっと意外……でもない?」

「まだ片鱗ある?」

「あ……はい、ちょっとだけ。でも、大雑把過ぎるのもどうかと思いますし、ちょうどいいくらいだと思います。特に女性には」

「あ、そう?」

「私がこの家に来て、初めて連れてきたのが女性二人、ていうのも納得です」

「嫌な納得のされ方だな……」


 男友達も、いるにはいるのだ。一緒に遊びに行くような関係ではないけども。……あれ、これだと友達っていうより、ただのクラスメイト?


「ま、でも、そこら辺は、ウチの両親の教えも効いてるのかもしれん」

「え、女性の扱いを習ったんですか?」

「や、ちげーわ、性格の方! 女性の扱いを教える親ってどんな親だよ!」


 非常に前衛的な親である。そんな親がいたら、是非、教えてもらいたい、とは口にしないでおこう。

 若菜のボケなのか素なのか不明な反応に呆れた風を装いながら、三澄はかつて口癖のように言われてきた言葉を反芻する。


「物を見る目を濁らせるな、研ぎ澄ませろ――てさ。俺の名前の由来も、大体そんな感じらしい。先入観とか偏見とか、そういうのに惑わされず、自分だけの答えを出すためにあらゆる努力をしろって」


 三澄の両親は、常識や普通といった言葉が嫌いだった。「あんなもん、当人次第でいくらでも捻じ曲がる。一ミリも当てになんねー」と。


「なんか、カッコいいですね。だから……」


 感嘆の声を上げていた若菜が、そこでなぜか口籠った。


「ん?」

「あ、いえ、何でもないです。警察官だし、すごい人たちだったんですね、三澄さんのご両親って」

「んー、まあ、実際はそうでもないけどな。二人とも、結構いい加減な性格してたし。確か俺の名前、澄の方は色々練られた字っぽかったけど、三の方は、語感がいいからとかなんかテキトーだった気がする」

「そうなんですか?」

「うん……、多分。あんま覚えてないけど」


 それからも、若菜との他愛もない会話は続いた。

 終始、いつになく若菜が楽しそうだったのが印象的だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

同棲始めたら修羅場も始まった 緑樫 @Midori-kasi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ