第5話 絶えず咆哮する海

 白砂の海岸が彼方へと消えると、景色は一変した。どこまでも続く水平線は荒々しい波に覆われ、空は厚い雲に閉ざされている。風は強く吹き荒れ、波音は轟轟ごうごうと響く。まるで世界が怒り狂っているかのようだ。


「うわぁ……すごい」

「リーヴ、落ちるんじゃないぞ」


 リーヴは船縁ふなべりに手をかけ、身を乗り出して周囲を見渡した。そしてそれを心配そうに見守るバルドル。


「はあ。なんとなくそんな気はしてたけど……バルドル。あんたのドラウプニルが指してるのは、残念だけどオーディンでもフレイアでもなさそうだよ」


 アルビダは舵を取りながら言った。船は荒れ狂う波をものともせずに進んでゆく。周囲には明らかに現実的ではない高波が生じているが、それらはまるでアルビダたちに道を譲るかのように分かれてゆく。


「どういうことだ?」

「ライバルが居なくなったからって、ドラウプニルをかき集めてるやつが居るってことさ。あんたもよぉく知ってる黄金バカだよ」


 バルドルは少しの沈黙の後、思い至った。


「――まさか、彼も生きていたのか? だが、確かにこの、巨人族ヨトゥンの血潮のように沸き立つ海は……」

「ここまで来ちまったらしょうがない、あいつも叩き起こして手伝わせるか。あいつなら何か知ってそうだしね」


 やがて空はさらに暗くなり、波はますます荒くなった。船は激しく揺れ、リーヴは立っているのがやっとだ。


「リーヴ、しっかり掴まるんだ!」


 雷鳴がとどろく中、バルドルの声が聞こえた。リーヴは慌てて船縁にしがみついた。


「きゃああ!」


 リーヴは悲鳴を上げた。次の瞬間、船が宙に浮き上がる。どん。落下の衝撃で、リーヴが尻餅をつく。


「大丈夫か、リーヴ!」


 バルドルが心配そうに声をかけた。


「うん、平気!」


 リーヴは立ち上がり、再び周囲を見渡す。空は相変わらず暗く、波も荒い。だが、景色は少しずつ変化している。遠くの方に、巨大な渦潮が見えてきた。


「ねえアルビダ! 本当にこっちで合ってるの?」

「ああ、もうすぐ到着だよ、踏ん張りな!」


 船はゆっくりと、しかし着実に、渦潮の中心へと近づいてゆく。波は渦潮の外側よりは落ち着いているらしい。先ほどより船の揺れが小さい。


「よし、そろそろだな」


 バルドルが人差し指を立て、くるくると回す。するとその軌跡から一本のロープが生まれた。彼は左手首から黄金の腕輪――ドラウプニルを外し、ロープに結び付ける。


「それっ」


 バルドルがロープに結び付けたドラウプニルを渦潮に向かって空高く投げた。ひゅん。ドラウプニルが最高点に達した時、ロープが上空の何か、視えないものに引っかかった。彼の魔法によるものだ。ドラウプニルは渦潮の中心、その上空で釣り下げられたように動きを止める。


「アルビダ、こうでいいんだよな?」

「ああ、あいつは絶対に釣られる。その後はあたしに任せな」

「あいつって、誰だっけ……」


 リーヴは一人、少し離れた位置で二人を見守りながら、『あいつ』と呼ばれている人物のことを考えていた。釣り下げられたドラウプニルは、海底に眠るそれを誘うように、黄金の輝きを放つ。その時。


「アルビダ、来るぞ!」

「任せな!」


 アルビダはルーン文字の刻まれた短刀――サクスを構える。渦潮の中心が不気味なほど静かになり、海底から何か巨大な影が近づいてくる。リーヴはその影を見て、思い至った。


「あっ、そっか! あいつって――」


 ざざっ。岩をも砕きそうな巨大な波しぶきと共に、一同の乗る船に匹敵するほどの大男が飛び出してくる。


「かかったね、黄金バカが!」


 ぱん。サクスの先から青い閃光が放たれる。かつて巨大な怪鳥に向けて放ったものと同じ、裁きのような雷撃が大男に直撃する。


「あいたっ!」


 声と共に、大男の体は波しぶきとなって消えた。どん。少し遅れて、船の上に誰かが落ちてくる。波を思わせる黄金のサークレットで額を輝かせている、逞しい体つきの壮年の男。


「やっぱり、エーギルだ!」


 気だるそうに首を回し、真っ白な髭を撫でている、この半裸の男こそがエーギルである。巨人族の身長にはかなりの個人差があることが知られているが、それを考慮しても、彼は巨人族の『本体』にしては小柄だ。


「ああ……何が起きた?」

「まだ寝ぼけてるみたいだねえ。もう一発食らうかい?」


 アルビダがサクスの先を向けて言う。


「その声は、ラーン! 愛しい我が妻よ、無事だったか!」

「なぁにが『愛しい我が妻』だ。あたしのことなんか知らんぷりで、ラグナロクの最中にまで黄金集めに勤しんでたバカが」


 ぱん。アルビダはもう一発、雷撃を放った。


「あいたっ! まあそう言わないでくれよ。黄金集めは俺の一生の趣味なんだからさ」

「ははっ、まさか君も生きていたとはな、エーギル」

「ん? ああ、バルドルか! そうか、もうそんな時期だったな」


 エーギルは思ったより驚かなかった。一部の巨人族は予言の力を持っている。エーギルもそのうちの一人で、バルドルの復活のことは知っていたらしい。


「それと……お前がリーヴだな。オーディンを探しに行くんだろ? 居場所を教えてやろうか」


 エーギルはそう言って口角を上げた。

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