第十九夜 厄介者
「ねえ。ちょっと麻里奈?」
自分の部屋で ――と言っても、カーテンで仕切られただけの簡易な部屋だったが ——期末試験のための勉強をしていたら、母 祐子から仕切りのカーテンを捲り上げられ、怠そうな声で話しかけられた。
祐子は台風が収まってから朝方帰ってきたようだった。まだ酒が抜けきっていないのか、仄かではあるが酒の臭気が漂っていた。
「お母さん何? 勉強してるんだけど」
「何? じゃないわよ。あんたなんで今日は家にいるのよ? 邪魔くさい」
淡いブルーのキャミソールにフリースを羽織り、ホットパンツのような部屋着を履いた祐子は煙草を吸いながら麻里奈を睥睨して言った。
「悪いけど、家、空けてくんない?」
まただ。
麻里奈は細ささやかに抵抗を試みてみる。
「あたし、台風だったから休校で自宅待機って言われてるんだけど」
「休校だか何だか知らないけど、邪魔なのよ。ほら、これあげる」
祐子は気怠そうに右手の人差し指と中指の間に挟んで千円札を差し出した。
「聞いてなかったの?『自宅待機』なんだけど」
祐子はふーっと煙草の煙を吐き出して、
「自宅待機とか何とか、アタシ知らないわ。5時まで帰ってこないでね」
そう言うと、祐子は千円札をハラりと落とし、スヌーピー柄カーテンを閉めた。
カーテンの上で、麻里奈の大好きなスヌーピーが前脚を口元にあてて笑っている。
仕方なく麻里奈はその千円札を拾って、勉強道具を一式カバンに詰めて玄関に行った。
「あんたが物分かり良くて助かるわぁ。麻里奈ちゃん」
いつの間にか麻里奈の後ろに立っていた祐子はそう言うと、踵を返して台所のほうへ消えていった。
そして誰かに電話をかけている。
消えた方向を睨みながら、麻里奈は、
「クソ女!」
と呪詛を吐いた。
麻里奈は玄関のドアを開け、満里奈の家がある集合住宅の階段を降り、十二月とは思えない暖かさの戸外に出た。
晴れ渡る台風一過の空とは反対に、満里奈の心の中にはドロドロとした負の感情があふれんばかりに湧いてくるのだった。
麻里奈にはかつて二人の父がいた。
一人は実の父で、満里奈が小学校に上がると、突然蒸発してしまった。
祐子が買い物に行っている間、洗濯物を干しておくように祐子に言われてベランダに干していたのだが、途中で手を止めて、
「麻里奈、お父さん、ちょっと買い物があるから」
と言って出て行ったきり戻らなくなった。
荷物を持って行った形跡はないし、ほとんど衝動的に姿を消してしまったようだ。
ベランダには、父が吸っていた煙草が灰皿の上でまだ燻っていた。
買い物から戻った祐子は、電話を麻里奈の父に何度も何度もかけたが、電源を切られていたらしくつながることは二度となかった。
祐子はパートに加えて夜の仕事も始めるようになった。
麻里奈が家に帰ると、麻里奈のための夕食が作ってあり、独りでそれを食べるのが日課となった。
「お父さん、ちょっと買い物に行ってくるって言ってたから、またきっと帰ってくるよね」
と自分に言い聞かせるように寂しさに耐え、独りで寝支度と戸締りをして寝た。
父や祐子と楽しく遊んだ頃のことを思い浮かべて。
残念なことに、麻里奈の願いは届かなかった。
麻里奈が小学三年生になると、新しい「父親」が家にやってきたからだ。
実際には内縁の夫と言われる立場の男だったが、男はほぼ毎日家にいて、祐子から金を無心するとどこかに消え、またしばらくすると帰ってくる。
ある日、金をいつものように無心されると祐子が断ったため、男は祐子に暴力を振るった。
麻里奈は祐子を体を張って庇ったが平手打ちをされて引きはがされた。自分の無力さに涙を流した。
その後も祐子は度々暴力を働かれたため、ある日祐子は包丁を振りかざして男を追い払った。
すんなりと男は出て行ったが、その後麻里奈の家には三十人前のピザが配達されたり、男の嫌がらせが続いたため祐子は警察に相談の上、麻里奈とともに今いる集合住宅に移り住んだ。
その後祐子は夜の仕事だけになり、昼夜が逆転する生活をつづけた。
そしていつの頃からか、昼間にいつも違う見知らぬ男が家に出入りするようになっていた。
「アタシは、こんな家早く出てやる」
それが麻里奈の口癖になった。
五年生になると、クラス替えがあって奈央や香織と仲が良くなった。
その二人には自分の抱えている家庭の事情は話すことは出来なかったが、「あの事件」以来、双葉には何でも話すようになった。
双葉には淡い恋心を抱いていた麻里奈だったが、
「アタシのような薄汚い女、双葉には不釣り合いだよね」
と、いつも自分を殺す毎日になった。
それでも双葉と一緒に帰るのがうれしくて仕方なかった。
そして、双葉に近づいてきた雛子に少なからず警戒心と、敵意を持つのだった。
麻里奈は、いつも母から厄介払いされると時間をつぶすムッシュドーナッツ富士坂三丁目店に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます