第十六夜 凪

 晴矢にはヒナが何か隠していると思われたが、どうにも聞き出す事が躊躇われた。

 うまく説明はできないが、追求すると藪から蛇が出るような、そんな感覚があったからだ。


(ヒナは、目的があってこの街に戻ってきた。そしてその目的はこの俺…… イヤイヤイヤ。妄想も過ぎるとイタいな)


 そう思われるとはいえ、ヒナの返答には何か引っかかるものがあって釈然としない。


 晴矢は袋小路に嵌ったように思えたので、試験勉強に手を付けることにした。


 晴矢の部屋は、弟の洸哉と同部屋だ。正直、そろそろ別の部屋にして欲しいと思っているが、増築か建て替えをしないと物理的に無理である。


 雄二も双葉も自分の部屋があるので本当に羨ましく思っている。


 晴矢が勉強してれば洸哉がNintendo Switchで友達とチャットしながらネトゲに講じていることが多く、本当に煩くて集中出来ないこともあるからいつも喧嘩になる。

 洸哉は洸哉で晴矢がいると鬱陶しいらしく、二人でこの部屋を共有するのはお互いにとって困難だ。


 ベッドも今時二段ベッドだ。洸哉が上の段で寝るまでが騒々しくて敵わない。


 親父には何度か兄弟二人で部屋を分けてくれ、ってお願いした事もあったが、


「どこにそんな金があると思ってるんだ?」

 で終了。取りつく島もなかった。


 なんでウチには部屋が三つしかないんだと、呪詛を吐いたこともある。


 一つは晴矢と洸哉の相部屋。

 もう一つは晴矢たちの父と母の部屋。


 最後の一つは完全に物置になっている。それぞれの部屋には大きな押入れとかクローゼットが無いからだ。


 その部屋を片付けて部屋を作れ、と父から提案もあったけが、実際相当な断捨離をしない限りは無理だ。


 一度断捨離にトライしてみた事がある。


 もうすっかり納戸の肥やしになっている端午の節句に飾る兜やら、母の怪しいダイエット本とか捨てられないものばかりで直ぐに挫折した。


 親父の研究関連の書籍をバッサリ捨てようとした時は流石に父は、


「頼むから止めてくれ」

 と、半泣きになって晴矢と洸哉を止めた。人には言いたいことを言うが自分には甘いのだ。


 実は晴矢たちの父は、ここ武蔵山市にある公立大の教授なのである。

「比較言語学」という分野で教鞭を執っている。


 晴矢は父から少しだけそれについて説明を受けた事がある。確か、五年生に上がったころだったか。


「お前が話している日本語は今のところ、どの言語の系統にも属しているっていう特徴がなくてな」

 晴矢の父の話は身内贔屓かもしれないが結構面白い。


「例えばイタリア語を理解している人は、スペイン語を覚えるのはそれほど難しくないそうだ。『ラテン語族』という同じ言語分類で括られている、親戚のような言葉同士だからなんだよ。」

 などと興味を引くような話をするのが本当にうまい。


「まあ、日本語だけじゃなく、お隣の韓国で使っている朝鮮語も分類するには難しいらしい。で、日本語にもいくつかの系統があるのは知ってるか?」

「沖縄とか、アイヌの人たちの言葉が違うって言うのは先生に聞いた事があるよ」

「うん、そうだな。でも、東京都の中で明らかに標準的な日本語とは一線を画する言語を使っている人達がいるのを知ってるか?」

「え、東京でしょ? 地方から上京して来た人とか?」

「残念。そうじゃない。まあ、晴矢はきっとそこが東京都とも思っていないかもな」

「えー、どこだよ。教えて!」


「少し考えてからにしろよ。(笑)考える癖を付けないと大人になって苦労するぞ」

「いいからいいから」

 結局親父から答えを引き出す前にその話は終わった。


 その後も特に中学生になってからはサッカーや勉強で忙しくなって父とじっくり話す機会がずいぶん減ってしまった。

 納戸と化した部屋の中には父が学生の頃から親しんできた沢山の言語学の本があったが、晴矢たち兄弟は自分の部屋欲しさにそれを捨てようとしていたわけだ。


 大学の教授なんて聞くと給料も良さそう思えるのか、友達に俺には自分の部屋がないなんて言うと信じてはもらえない。


 父は大学を卒業して院生になり博士課程の後、ポスドクになって貧乏路線を走り、父は金で苦労したらしい。

 それは公立大の教授になったからといって劇的に改善されるようなものでもないのだ。


「なんでもっと稼ぎのいい男と結婚しなかったんだ?」って聞いたことまであった。


 晴矢は我が家の家計に絶望し母にそう訴えかけたこともあったが、母はただ笑いながら、


「そしたらお前も洸哉も生まれてないべさ」

 と出身地の北海道弁でそう答えて取り合わない。

 

 洸哉は珍しく居間でネトゲをやってる。晴矢は昨晩の事やさっきのひなの事が自然に思い出されて始めてみた試験勉強もなかなか手に付かなかった。


 そして、無意識に手を伸ばして手に取ったのは、小学校以前の晴矢のフォトブックだった。デジタル時代にもかかわらず、わざわざ晴矢の母は晴矢や洸哉のアルバムを作ってくれていた。


(そうだ! ひなと、確かあの男の子の写真があったかも知れないぞ)

 晴矢はそう呟いてアルバムをめくり始めた。

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