第19話『導火線』
そこから男と関係を持ち出すのに、そう時間はかからなかった。
女の発言があってかあらずか、後になってはわからない。
需要というものは何にでもあるようで、相手はすぐに見つかった。
すれ違いアプリで知り合ったその男は30代ほどの商社マンで、仕事終わりといったばかりのスーツ姿で現れた。
「君がyouくんだね、はじめまして」
均一に整えられた微笑みは、嫌に作り込んでみえる。男の一瞥に僕は応えないまま、「じゃ、いこうか」という男の声でホテルへ向かった。 言葉はなかった。
ただ、導かれるようにホテルへ入る。
部屋に入ってすぐ、男がシャワーの準備を始めた。
空気は奇妙なほど静かで、どこか淡白だった。
ベッドに腰をかけたユウは、部屋の装飾を眺めていた。
壁紙。間接照明。乾いたシーツ。
特別なことなど何もなかった。
ただ、“ここが一線を越える場所”だということだけが、明確だった。
抵抗らしきものはなかったのかって?
はっきり言うと、ホテルへついた後からの記憶はない。
ない、というよりは思い出せないといった方が正しい。
曖昧に記憶しているのは、自分のものとは思えないほどの嬌声と体が内側から作り替えられていく感覚。
開ききった両眼に映る天井。それがだんだんと麻痺していき、息が喉を通らない極限状態。
暗闇でかすかに男の鈍い眼光が歪に笑いかけてくる。
「優しくするから」といった男の言葉は前置きに過ぎなかった。
男は吠えるように、絶えずユウに言葉を投げていたが、彼のなかまでは届かない。
抱かれる側になって気づいたのは、苦しみというものはとても俗物だということ。
だってそうだろう。
死んでしまう、そう思った次の瞬間に、男は果てて首の緊張もとれる。
意識が飛びかけるその直後に襲われる、どうしようもないまでの
脱力しきった四肢の抜け殻みたいな、けれども確かに意識のある視界は、強烈な「生きてる」という実感を湧き立たせる。
死を直前にして生を知る。なんて皮肉めいた実感が全身を満たす。
少年の思考はすでに停止している。
なのに、とても冴え渡っていた。
それは限りなく、危うさを孕んだ眼。不気味なほどうつくしく、リアルだった。
男からは10枚ほどお金をもらった。悪くない。
男は一言いったおり、部屋を出て行った。ユウは返事をしなかった。
ただ、ベッドの上で天井を見つめ続けた。
その夜、ユウははじめて“自分の生”を確認した。
血のような唇の端。
汗に濡れた鎖骨。
内腿に残る違和感。
ボクはまだ、生きてる。
抱かれたあとに残ったのは、
壊された記憶と、無防備なままの身体。
そして、確かに感じた“実感”。
帰りの電車、ユウは窓の外を見ながら思った。
次は、もう少し“うまく”やれるかもしれない。
自分はどうやら、こちらのほうが性に合っていたらしい。女との行為では得られなかった刺激に、獣は満足する。
渋谷に新宿歌舞伎町、池袋のその先々。男たちと肌を重ねるたび徐々に弛緩する思考。
正直、楽しかった。首が絞まる、殴られる。時にはそのまま放置されて脱水症状に陥ることもあった。
呼吸ができなくなってじたばたとベッドを揺らし、寸で相手の腰が早まり、意識が真っ白になって死に狂う。
まるで
果てた脳裏に浮かぶのは、晩夏に落ちゆくセミの死骸。
仲間が死んだその先でなおも愛を求めるセミたちは、自分の命にとことん関心がない。
いったいそれはなんのため。売れ残りにはそれすらわからない。
いや、だからこそだろう。
もう誰もいないからこそ、狂気をもって叫ぶんだ。
自分はここにいるのだと。世界に刻むために。
まるで僕らだ。彼らが虫ケラなら、僕らはきっと獣。
ああ、獣だ。そんなやつらは獣だ。
だけど滑稽なのは、誰もその事実に気づかない。薄々は気づいていながらそれを見せないように何千もの防衛戦を張り巡らせている。
だからつまらない。
そんな世界はこっちから願い下げだ。いっそ人間なんて死に絶えろ。ボクも含めて。
そうして少年は一つの答えを得た。だからといって彼の人生が好転することはない。亜櫻ユウは彼自身の決断で、そういう生き方を選んだのだ。
ひとは堕落する。亜櫻ユウも彼の慕った少年も、それは避けられなかった。
だがそれが間違いだと、いったい誰が言えるのか。
神など死んだ。それはニーチェが200年も前に言っている。
この世は金と男女の
つまらない人間さ。つまらない人生さ。
けれど獣は知恵がない。だからこのままのらりくらりと生きていく。
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