第20話 ドラマツルギー


 あの夜以来、少年は自分の“生きている感覚”を失っていたのだと気づいた。


 思えば、少女と出会った日からずいぶんと遠いところまで気がした。


 少女、花向カレンは嗤う。──それは優しさではなかった。

 少年に希望を見せておいて、その上で“壊す”ための眼差しだった。

 カレンの嗤いは“絶望の肯定”だった。

 彼女の絶望を、亜櫻ユウは受け入れた。


 それはつまり、世界への期待を棄てることだった。

 人にも、愛にも、何にも、もう頼らないと決めることだった。 

 代わりに、少年ははじめ演じることを選んだ。

 ホストという職業。

 接客としてのキス、会話としてのセックス。

 “作品”としての女たちを描くように抱き、身体を使って感情を模倣することで、生きている“ふりをした。


 けれど──

 異性に抱かれ、異性を抱き、ついには同性に抱かれたとき。

 意識が揺らぐ寸前で、少年はついに生を実感した。

 窒息の感覚。意識がすうと透けていくような間際、そんなことをしなければ気づかないくらい。


 少年の輪郭たがは外れていた。

 そんなものは矢墨レンが死んだあの日から、とっくの昔に腐っていたのだ。

 自身の輪郭を失った彼に花向は線を描き、少年はそれをもとに形を整えていった。

 花向が線を描いたことによって完成した形が、今のユウだった。

 夜の街は相変わらず賑やかだ。

 ネオンの色、人の話し声、どこかで鳴く猫の声。

 酒の臭いと脂の香りが混ざり合う。


 ──スカートを履く、という選択に、ユウは一片の迷いもなかった。


 最初に男に抱かれた夜、一人残されたホテルの鏡に映る自分の姿を見て、まだ足りない、と思った。

 身体は痣だらけ。

 喉には赤いあとが残っていた。

 ひどく醜い自分の姿を見て、もっと、売れるはずだ、と思った。

 もっと“求められる商品”になれる。

 ──スカートを履いた夜、ユウは、はじめて“商品の形”を整えた。

 その服はカレンの部屋にあった。

 クローゼットの奥、埃を被ったハンガーに吊るされていた。

 黒いブレザーに、赤いチェックのスカート。

 ルーズソックスと、シンプルなブラウス。


 明らかに、カレンが“自分のために選んだものではない”制服。


 「どうせ着ないから」と言われた記憶もない。

 けれど、あの女のことだ。

 嗤うために買った、、、、、、、と考えるのが自然だった。


 ユウはそれを、借りた。

 黙って。何の許可も得ず。

 クローゼットを開ける指先に、ためらいはなかった。


 袖を通す。

 ボタンをひとつずつ留め、スカートの裾を軽く整える。

 ソックスを引き伸ばして、足元にたるみをつけた。


 鏡の前に立つ。

 目に映るのは──制服を着た、誰かのふりをしている少年。


 だが、それでよかった。


 この身体は、売るための肉体でしかない。

 その価値を最大限に引き出す記号として、制服は優秀だった。


 「パパ活女子高生」という商品。

  そのテンプレートに、ユウは自ら“変換”しただけだった。


 次の客は、銀縁メガネの冴えない男だった。

 駅前の喫茶店でコーヒーを奢られ、ホテル代を出してもらい、

 部屋に入ると、男は開口一番こう言った。


 「……君、ほんとに高校生なの?」


 「うん。二年生」


 「嘘つけ」


 「バレてるなら、もうどうでもいいでしょ?」


 ユウはブレザーを脱ぎ、ソックスを自分の手でゆっくり下げた。

 演技は、もはや接客と同じだった。


 喉が焼けるような夜だった。

 シャワーの水が皮膚を打つたび、

 首筋に残った指の痕がじりじりと疼いた。


 胸の奥がざわついていた。

 痛いわけじゃない。

 熱いわけでもない。

 セックスは機械的だった。

 快感はなかった。

 けれど、「役を演じ切った」という達成感が、どこかにあった。

 ただ、「まだ生きてる」という実感だけが、妙にくっきりとあった。


 終わったあと、男は封筒を渡した。

 4枚だけだったが、金額は気にならなかった。

 獣の求めているものは全くべつのものだからだ。


 「また会いたいな。君のこと、好きになっちゃいそう」


 「それは困るな」


 ユウは笑った。冗談めかした声。

 でも目は、まったく笑っていなかった。


 帰り道、制服のまま歩く渋谷の雑踏。

 誰も彼を“少年”とは思わない。

 誰も彼を“絵描き”として見ない。


 それが心地よかった。


 誰の目にも映らず、すべての期待を裏切っていく。

 それこそが、今の亜櫻ユウにとっての“存在の証明”だった。


 ベッドに戻ると、脱ぎ捨てたスカートが床に落ちていた。

 その横に、カレンのタバコの匂いが漂っている。

 花向カレンが一度も着なかった制服。

 ユウはそれを、“彼女よりもうまく”着こなしていた。 

 制服のスカートは、湿った洗濯カゴの上に置きっぱなしだった。

 カレンの家の浴室。

 花柄のタオル。使いかけの歯ブラシ。

 無言の共同生活。

 同じ空間で生きているのに、もう互いに干渉も期待もない、残り香みたいな関係性。

 少年が少女の服を間借りすることも、少女が夜に帰ってきて風呂場で血を洗ってることも。

 ──嗤った女は、もう何も語らない。


 ──ただ、それだけ。


 ユウは何も言わないし、カレンも何も聞かない。

 互いに干渉しないことで、成り立っている“関係の残骸”。


 街に出れば、男はすぐに見つかる。


 渋谷、歌舞伎町、池袋──

 どこにでも、“獣のフリをした人間”がうようよしていた。


 スーツの男、眼鏡の青年、若いフリーター、

 やさしそうに笑って、

 やさしそうに手を引いて、

 乱暴に、ユウを抱いた。


 意識が飛ぶ直前の瞬間──

 酸素が足りなくて、

 呼吸が喉の途中で詰まって、

 視界がしんしんと沈んでいく。


 その中で、少年は恍惚と感じた。

 ああ、まだボクは壊れてない。

 ちゃんと“傷つけられる”場所が残ってる。

 叫びも、喘ぎも、涙も、

 全部、「自分がまだ人間である」ことの証拠だった。

 描けなくなったあの夜から、感情を捨ててから、快楽で埋めた空白の先に、ようやく見つけた“実感”。


 男の背中が離れていく。

 ベッドに一人残されたユウは、

 濡れた肌を拭きもせず、天井をじっと見つめる。


 これは、残響だ。描くことを止めたあとに残った“生”の音。


 残唱──


 蝉の亡骸みたいに。

 声だけを残して、世界の底で鳴き続ける。


 その夜、封筒に入っていたのは一万円札が12枚。今日の相手は羽振りが良かった。

 財布にしまう途中、ユウはふと思った。

 彼女の、花向カレンの嗤いは絶望の肯定だった。

 それを受け入れた時点で、自分の“死に場所”を手に入れた代わりに、生の実感を捨ててしまった。

 つまり彼はもう、“生きてるフリ”を演じてるだけ。

 描くことも、笑うことも、抱くことも、すべてが感情を失った身体の反射。

 絵が描けないから、生きられない。でも快楽では死ねないから、生き続けるしかない。

 そういった矛盾の中で、ユウは獣として呼吸してた。

 だからこそ──男に抱かれたときの“死ぬかもしれない”という感覚は、彼にとって唯一、「生きてる」って実感を取り戻した瞬間だったんだ。

 これは快楽じゃない。だけど、“存在の証明”だ。

 痛みと境界の崩壊の中にこそ、自分の輪郭が浮かび上がる。

 ああ、なんて。

 なんて————つまらない。

 滑稽だ。

 気づけば涙が流れていた。いや嗤っていたのかもしれない。

 あるいは、叫んでいたのかも。

 わからない。

 でも、ただ一つわかるのは、この心はとうの昔に死んでいるっていうこと。

 少年は思う。「こんな人生、もうやめてしまいたい」と。

 なのに終わらせることができない。だから今夜もスカートを履く。

 もう絵は描かない。笑いもしない。誰にも愛されない。

 だから———男を誘う。

 抱かれたあとの喪失感。それに溺れるのは気持ちがいい。だからまた繰り返す。

 死んでしまえと思うたびに、世界の端っこで生きてる証が響く。

 絶望に染まった少年は嗤う。

 嗤いながら、「ああ、まだ生きているな」という確信を得る。

 蝉の亡骸みたいに。声だけを残して、世界の底で鳴き続ける。

 ああ。だからきっと、彼は———矢墨レンは。

 死んでしまったのだな。

 あの『残唱』は、彼の証明だったのだ。

 それを受け取ってしまった時点で、自分ももう同じ。

 だから泣いているんだろう。だから笑っているんだろう。

 嗤っているんだ。

 死にたい。だけどまだ生きたい。

 死ぬのが怖い。

 死ぬのが怖くて、死にたくない。

 でも死ねないんだから、ずっと生き続けるしかない。

 永遠に。どこまでも。

 世界の果てまで。

 嗤うしかなかった。

 夜の世界で溺れていくのはきっと気持ちが良いからだ。

 だからこの身体はまだ動く。

 だからまだ息をする。

 だからまだ声が出せる。

 だからまだ涙が枯れない。

 だからまだ生きてる。

 だからまだ死ねない。

 だからまだ終わらない。

 だからまだ生きている。

 まだ死ねていないからだ。

 まだ死なないからだ。

 まだ終わっていないからだ。

 まだ生きているからだ。

 まだ生き続けるしか無いからだ。

 嗤う。

 泣く。

 笑う。死ぬ。

 生きる。生かされる。

 そして、その全身傷だらけのまま、ユウは再びカレンの部屋のドアを開ける。


 カレンは何も言わない。

 煙草をふかしながら、ただ彼の足音を聞いているだけ。

 ふたりとも、もう“言葉の必要のない世界”に住んでいた。

 きっとこの先、少年と少女が交わることなど、もうないだろう。

 それを互いに理解している。


 そうして、康介あいつに出会った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る