第18話『輪郭をなぞる』

 あんよあんよの逃避行。ないものねだりはいざ知らず。

 少年はただ、ぬるい夜のベッドのうえで瞳を伏せていた。

 蛍光灯のジジ、と鳴る小さな音。切れかけの電球が瞬いて、部屋の天井に淡い明滅を刻む。

 床に散らばった衣服。さきほどまで交わっていた温度の名残りだけが、空間に漂っている。

 隣に横たわるカレンが、小さくうーんと唸るように寝返りを打った。

 その額にそっと唇を落とす。

 意味はなかった。ただの反射だ。

 こうしてユウは、“少女”というものを知っていった。

 それは恋でも情でもなく、観察だった。

 スケッチの下書きを重ねるように、

 彼女の呼吸、反応、表情、仕草、すべてをなぞるように記憶していく。

 どんな声をかければ気を許し、どんな目線を向ければ緊張し、どのタイミングで触れれば、身体が自然にほぐれるのか。

 それはまるで、素材の研究だった。

 ユウにとって、花向カレンは教材だった。

 奇をてらった不思議ちゃんで、毒も花も持つ、偏りすぎた“女”。

 だが、よくよく観察すれば、彼女はただの少女だった。

 気まぐれに喜び、予測不能に拗ねて、でも寂しさにはすこぶる弱い。

 その脆さのパターンを見つけたとき、ユウはうっすらと笑った。

 案外、御し易いと。

 触れ合うたび、ユウは“女”という生き物の輪郭を掴み始めた。

 カレンは特別ではなかった。

 ただのひとつの型にすぎない。この型を流用すれば、他の女にも通じる。

 そう思うと、少年の胸にあったのは愛情ではなく、興味だった。

 まるで絵の具を混ぜるように。

 配合を変えれば、違う色になる──その単純な発見に、彼はわずかに心を弾ませていた。

 その後、ユウは自然に“女を抱く”ようになった。

 Bleuでの仕事。

 客席での会話、グラス越しの視線、意図的な沈黙。

 そのすべてが、接客の技術として機能し始めていた。


 「ユウくんって、あたしのこと、どう思ってるの?」


 何度も聞かれた。

 そのたびにユウは、同じように微笑む。


 「ボクは、君のこと好きだよ。……ちゃんと、“特別”に」


 その“特別”に真実味などなかった。

 でも、客の女たちは笑って、泣いて、酔って、唇を寄せてきた。

 ユウは、女の身体を覚えた。どこをどう触れれば、どんな音が漏れるのか。

 どうキスすれば、どこまで溺れるのか。

 それは、表現だった。筆の代わりに指を使い、画布の代わりに肌を使う。

 そして、描き終わるたびに訪れる虚しさ。

 それは、絵を一枚仕上げたときと同じだった。

 満足ではなく、ただの空洞。

 ある夜、ユウは客のひとりの首筋にそっと指を這わせた。

 女は目を細め、息を漏らす。反応はわかりきっている。

 すでにその女は、自分に懐いている。掌の上で転がすだけだ。

 それはじゃれあい。けれど一方的なものだった。

 ユウの目はずっと冷静だった。

 熱はない。感情もない。

 ただ、“どう動けば喜ぶか”を計算している。獣が獲物の筋肉を解すように、ただ淡々と、喰らい方を学んでいた。

 そのうち、花向との関係は希薄になった。

 女としての“旨味”は、すでに全て食べ尽くしていた。

 愛らしいとは思わなかった。

 だが、教材としては最適だった。

 もうこの女の可食部は、ない。

 そう確信したユウは、自然と次の獲物を探し始めた。夜の部屋。花向カレンの寝息が、間延びする蛍光灯の音に重なる。花向カレンは特別ではない。だが便利だった。

反応の癖も、見せる顔も、すでにパターンとして掌握している。

 濡れた髪の匂いとタバコの香り。女の反応。喜怒哀楽。肌の温度。それを体系的に、誤差なく身体で学ぶ。

 ホストという職のため。演技のため。ただの“資料”として。数を重ねるたび、女の反応は似通ってきた。

 泣く、笑う、縋る、許す──

 ユウの仕草ひとつで、どのパターンにも落とし込めた。

 ひとつひとつが最初は新鮮だった。

 手口、声の揺れ、まつげの濡れ方──

 “知る”ことに快感はあった。

 けれど、いつしかそれは飽和へと転じた。


「ユウくん……また来てくれるよね?」


 制服姿の女の子が、ベッドの上でそう囁く。

 ユウは枕に頬を寄せたまま、窓の外を見ていた。

 夕方の曖昧な光が、女の肌に陰影を落とす。

 だがその光景も、何度見たことか。

 すでに彼の中では、ただの“反復”だった。


 「また、気が向いたら」


  適当に返す。嘘でも本気でもない。女の表情が曇る。だが、それすら予想通りだった。

 食欲には限界がある。

 どれほど好物でも、毎日食べれば胃がもたれる。

 ユウにとって、女という存在はもう“味がなくなっていた”。

 反応は読める。心も開かせられる。身体も奪える。

 なのに、そのすべてが“快楽”には繋がらない。

 快楽の次に来るのは、“虚無”だった。

 何度も、何度も、それを繰り返した。

 寝顔、吐息、温もり──すべては残像になった。


 「最近、来ないじゃん。あの子たち」


 カレンが言った夜があった。

 手持ち無沙汰にタバコを吸いながら、ソファで足を揺らす。


 「飽きた?」


 「うん」


 「そっか」


 それだけだった。

 カレンは何も問わない。咎めない。

 もう自分に興味がないことを、ちゃんと理解していた。

 ユウは気にしなかった。カレンは何も言わない。

煙草をふかしながら、ただ彼の足音を聞いているだけ。

ふたりとも、もう“言葉の必要のない世界”に住んでいた 別に、金ならなんとかなる。

 女を抱くことで得た情報とスキルは、売れる。

 けれど、売り物にならない“新しい刺激”が欲しかった。




   ◇ ◇ ◇



「その顔なら男でもイケるんじゃない?」


 ある夜、歌舞伎町の雑踏の中で、女が笑いながら言った。

 ある日のこと、そんなことを口にする女がいた。

 女に振り返る。ちぢらせた黒髪をかきあげて、女が首を傾ける。


 驚いた。そんな思考はなかったから。

 一度考えるように顎に手を寄せて思案する。


「男というのもありかもしれない」


 確かに、ある程度女は食ったな、その自覚はある。

 窓枠にもたれかかりながら、瓶をあおるユウに女はわらう。


「マジかよ。君、やばいね」


 その目は好奇というよりも、奇異の目が混じっていた。


「そう? ボクはべつに」


「ユウくんって変だよね。遊んでるくせにしては暇だし、好きぴつくるわけでもない……セフレだっていないでしょ? つくろうと思ってもない。そのくせ自暴自棄になってるわけでもないんだから、ほんとどうしてグレちゃったの、て感じ」


 おねーさんにはそう見えるんだ。ベッドに戻り、タバコに火をかけた女の横に寝転ぶ。

 煙がヤニ焦げた天井を満たす。なんとなく、それが苛立った。


「ボクはただ曝け出したいだけだよ」


「曝け出したい?」


 女が聞き返す。仕方なく応えた。


「ひとってのはどいつもこいつも心の弁にしばられてやりたいことさえまともにできない。女も男もそれは変わらない。それを促しているのは社会だし、だからこそどうしようもないけど、ぼくはそんな世界が大嫌いだ」


 だからそんなしょうもない枷ってやつ外したいんだよ、ぼくは。

 最後までは告げずに身体ごと顔を背けた。バカみたいな喧騒が窓の外には溢れている。


「ふーん、つまんないね」


「あ?」


 そんな彼の独白を女はどう受けとったのか。そっけない返事をもらすと、おもむろにタバコの火を消した。

 女が鼻で笑う。口から巻き上げた煙が宙を舞う。


 タバコの煙が女とユウの間をむんむんと立ちこめている。


 女を睨みつける。どういう意味だ、と問い詰める目だ。


「つまんないや、君。せっかく綺麗な顔してんのに」


 そういった女の顔。貶すようなそれでいて怒るような目。


 ああ、そうだった。女というものは気分屋で、ひどく冷めやすい。

 あれだけ激しく哭いた女の瞳は、ひどくさめていた。


 女の言っていることはよくわからなかったが、ただはっきりと不快だった。


 それだけいって、女はシャワーを浴びにいく。

 ユウはただ女の背中を睨み続けた。


 嫌いな煙草の煙だけが纏うようにあいつの香りを残している。


 結局彼女とはそれきりだった。べつに僕としてはどうでもいい。

 むしろ清々した。









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