第6話 フィールドワーク

―― 当時付き合っていた彼女はいたのだが、何となく疎遠になっていた。その日会うのも一か月以上振り。先日、初めて行ったバーで知り合った年上の女性とは毎週のように会い、そのたびに繋がっていると言うのに。

 正直、これから自分の彼女と会うのが面倒臭い。昨日も会ったばかりの年上の女性に今日も会いたい。彼女との用事を手短に終わらせて、この後会えないかと誘いたい。早めに着いてしまった待ち合わせ場所でそんなことを考えていると携帯が鳴った。まさにその年上女性からの着信。気持ちが一気に跳ね上がるが、俺より経験豊富な女性に見透かされないように自然を振舞いながら電話に出る。

「どうしたの、茉莉花。電話かけてくるなんてめずらしい」胸の高鳴りはバレていないだろうか?

「昨日ね、あなたが今日の夕方に彼女さんと会うって言ってたでしょ? だから、今あなたが浮気してる相手の私から急に電話がきたら焦るだろうと思って、いじわるしたの。あなたの彼女に焼餅やいているのよ私」茉莉花の声が俺の心を撫でまわす。

「会いたい、この後すぐ。二時間後に待ち合わせできる?」彼女と喫茶店で一時間くらい話したあと、今いる横浜をすぐに移動して、一時間以内には茉莉花のもとに行けるだろう。

「彼女さんはいいの?」

「茉莉花に会いたい」

「阿佐ヶ谷駅で待ち合わせしましょ、行きたいお店があるの」


 彼女と適当にお互いの近況報告をしたあと、食事をどうしようかという話になったが、彼女の方が予定があるというので、こちらからは何も言わずに一時間も経たずに解散した。一か月後、心の中が茉莉花で一杯になった俺から切り出した別れ話は電話で済ませたので、彼女と顔を合わせたのはこの日が最後になった。


 一度、品川に出て、山の手線で新宿まで行き、阿佐ヶ谷に着いた。


 最初のデートは俺が行きつけのバーに誘った。いい店を知っていると自慢したかった。その時初めて茉莉花が年上だと知った。それ以降のデートはいつも基本的には茉莉花が行きたいお店や行きつけのお店に俺がついていき、食事をしてお酒を飲んでホテルに行く。翌朝まで何度も何度も茉莉花の中に若い精を放つ。裸のまま眠りゆっくりと支度をしたあと、カフェでブランチを食べて解散。これがいつもの流れだ。

 昨日から今日にかけてもそうだった。だが、今日は食事だけで解散だろう。明日はお互いに仕事がある。身体を交えなくても全く構わない。生まれて間もない茉莉花の美しい自我に触れていたい、生きていくだけで汚れてしまうそんな世界を二十年以上生きてきた、薄汚い俺の自我を、真っ白な茉莉花に触れて欲しい。


 ホームを出て改札で待っていると、すれ違う男の全ての視線を浴びながら茉莉花が歩いてきた。俺の目の前で立ち止まり、妖艶な笑顔を浮かべる。

 茉莉花は常に全身から色香が漂っているような女性だった。ただ、俺が惹かれたのは茉莉花のピュアな表情、魂。そして、どこかに隠している、常にうっすらと流れている彼女の心の涙、美しく悲しい涙。

 いつもよりカジュアルな服装の茉莉花の一言目は「焼き鳥は苦手じゃない?」だった。


 茉莉花が行きたいと言っていたお店に入ったら、「へ、らっしゅい!」と言った店主が、さらにもう一言声をかける。

「村瀬さんじゃん、久しぶり! 高校以来? 来てくれたんだ?」と言ってカウンターに案内された。俺をチラリと一瞥し、無遠慮に「若い男の子連れちゃって! 彼氏?」と続ける。

 ごく自然な仕草で、結婚指輪が店主に見えるように髪をかき上げながら「ううん、お友達よ」と答える茉莉花の声は少し不安に震えている。


 茉莉花は記憶喪失。今の俺の年齢以前の記憶はない。高校生の村瀬茉莉花はこの場にいない。今日も茉莉花の自分探しの旅に付き合う――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る