第7話 清廉潔白な女
――近所、と言っても一駅は離れた駅。
二十代も後半に差し掛かったころ、俺はバーの新規開拓の為、アパートのある駅の一つ前の駅で途中下車をした。
駅近くの飲み屋が並んでいる小路。期待はできそうにないが、失敗もしなさそうな小さなバーを見つけた。
入店し、カウンターに案内される。カウンターのひとつ隣の席には一人で飲んでいる若い女性がいた。初見、高校生かと思うような幼い見た目だったが、バーにいる以上少なくとも二十歳は超えているだろう。身体全体からフェロモンが出ているのだろう。店主含め、バーにいるすべての男性が彼女に卑猥な欲望を剥き出しにしている。掛けられるすべての言葉・視線が、彼女とセックスしたいがためだけに張り巡らせている。本などではよく聞く話だが、実際にこんな女の子がいるんだなと実感する。
幼さを感じさせるその表情は、純粋な美しさを携えていた。この店で彼女に絶えず掛け続けられる言葉の精液では彼女を汚せない。
「はじめましてよね?」「私はお家がすぐそこだからよく来るわよ」「お酒、詳しいのね」「よくワインを飲むわ」
何でもない会話の中で、彼女から発せられる声のトーン、丁寧な言葉のリズムや発音に俺は夢中になった。話していくと年上だと言うことがわかり、フランクに話しかけていた事を失敗したと思った。彼女は年下でも年上でも変わらない接し方で誰とでも話す。もっと上質な空間で、もっと上質なお酒を、一緒に共有したい。彼女を独占して過ごしたい。
「もし良かったら、俺が良くいくお店で一緒に飲まない?」
「いいわよ、連絡先教えて」と言って自分の番号を教えてくれた。
携帯を出して番号をプッシュする。数回コールすると、彼女が震えている自分の携帯を開き、すぐに通話を終了させた。
「あ、登録は……」と聞くと「まりかよ、花の名前」と答える。
「漢字はジャスミン茶のジャスミンと同じ。男の子ってお花の名前とか知らないでしょ?」と補足した。
一週間後の初めてのデート。盛り上がったかどうかわからないが、俺は一週間前から既に盛り上がっていた。
ワインが好きだと言っていたが、俺が彼女を誘った場所はオーセンティックなカクテルバー。ワインバーで飲んだ経験はなかった。
若さゆえ、自分の土俵でしか女性を口説けない。ここのバーテンダーに教えてもらった中国製のワインの話をした。それを使う楊貴妃という名のカクテルの話も。
「年に一度、どこからともなくこのお酒の匂いがして、無性に飲みたくなる時があるんだよ」と話す俺を「うふふ」と純粋な笑顔で見つめる。馬鹿にするわけじゃなく「そんなことも知らないのね、かわいいあなた」といった表情で、笑顔で包んでくれる。自分が知っていても相手が知らないことがあるのは当たり前だ。だけど、自分が知っていることは相手も知っていると決めつけて、こちらが知らないと卑下してくる人間が多い。
茉莉花は年下の俺を見下すことを決してしなかった。だから俺はどんなことでも茉莉花に話せた。会話が楽しい。楽しくて仕方がない。
「それは金木犀って花の香りよ。今の季節に咲くの。私たちが出会った季節よ。覚えてて」
茉莉花に恋をしたのはこの瞬間に違いなかった。
「楽しい、すごく。年上だって思わなかったから最初驚いたけど。また会ってほしい」と言った俺に茉莉花は「約束はできないわ」と即答し、しばらく黙ってしまった。俺はただ彼女が言葉を発するのを待つしか出来なかった。
「私ね、過去の記憶を失くしているの。記憶喪失。ある朝、起きたら自分が誰か、何処にいるのかわからない。隣には知らない男の人が寝ている。しっかりしろと正気になれと散々頬を叩かれたわ」何て返せばいいかわからずに黙っている俺に茉莉花は続けた。
「鉄の味がする口の中をうがいしたくて洗面所に連れて行ってもらって、鏡に映っている自分の顔を見て、このおばさんは誰? って思ったわ」
「だから約束できない。あなたと一緒にいる今だっていつか急に忘れちゃうんじゃないかって不安になる、約束なんてできない!」
胸が締め付けられた、茉莉花の涙を今すぐに拭いたい。
うつむいて腕で顔を隠している茉莉花の艶やかな黒髪をそっと撫でる。ピアノのように深く真っすぐな黒。愛おしい。
「……男の人に、こんな風にされると、嫌な気持ちになるんだろうってずっと思ってた。案外、心地良いのね」こんなタイミングでこんなことを言う茉莉花の感性に驚く。
「面白い表情をするのね」顔を上げた茉莉花の目からシャドウが流れて頬に一筋の黒い線を描く。白い肌に美しいヒビが入る。
「あなたの言葉が面白かったから」
「純粋にそう感じたから言ったのよ、私にはあなたの反応の方が面白かったわ。今日の日記に書かないと」
「日記? つけてるの?」
「メモ程度の拙いものよ、また忘れたくないから。今の私が忘れちゃっても、次の私があなたにちゃんと辿り着けるように残しとくの」
確認しないといけないことがあった。したくはないけどしないといけない。
「茉莉花、さっき記憶を無くした日に、知らない男性がって……」
「結婚していたみたいなの。私、あなたのこと好きよ。だけど旦那とどっちが好きかは決められない。何もわからない私とずっと一緒にいて支えてくれている人。あなたのことは好きよ。だから私にどっちが好きかとか聞かないでね。あの人にひどい仕打ちをしたくないの、あなたとも終わりにしたくない」
その日終電を逃した俺たちは茉莉花に絶対に手を出さないと約束してラブホテルに泊まった。
深夜、茉莉花に手を出さないように耐えている俺に全裸になった茉莉花が覆いかぶさってきた。それまで経験したことない、女性に攻められる経験。上から激しく打ち付けてくる茉莉花。上体を起こし対面に座っても、茉莉花は俺の背中にその爪を食い込ませて引っ掻き、しがみついてくる。
背中に感じる痛みと、ぶつかる歯、絡みつく茉莉花の舌。
何時に寝たのか覚えていないが、チェックアウトを知らせるフロントからの電話に起こされて、延長を伝えてゆっくりと支度をした。
支度をしながら「あなたのセックスすごく激しいからおなか空いちゃった。一緒にお昼ご飯食べよ」と茉莉花が言った。
この時、三十歳の茉莉花の人格は生まれてから四年しか経っていない――
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