第5話 茉莉花

 一週間、紫苑から連絡はなかった。こちらから連絡をする勇気もなかった。

 このまま連絡がつかなくなるかもしれないという不安や、どうせそんなものだろうという諦め。ネガティブに感情が腐ってしまう手前、発酵し熟成されるタイミングを見計らったように一週間。

 久しぶりの紫苑からのメールは件の行きたいお店に付き合ってほしいという内容。中央林間、オーセンティックバー、二階。どうやらまた正解のない連想ゲームに付き合うことになりそうだ。


―― 下北沢はテリトリー外だったが、一度だけ、どこかのバーで知り合った年上の女性に案内してもらったことがあった。その時も地下のおしゃれなバーでワインを飲みひどく酔っぱらった記憶がある。

 この頃は他にも数軒、彼女の知っているお店に連れて行ってもらっていた。彼女が案内してくれた中で、中央林間のバーがあったことを思い出した。女性はお酒全般が好きだったが、なかでもワインが好きで、洒落たお店を沢山知っていて、いつも多めに会計を払ってくれる。年上女性の経験と余裕とを存分にみせつけられ、自分もいつか彼女のように若い子をエスコートできるようになりたいと憧れた。

 しかし、彼女とのデートを重ねるうち、一緒に過ごす時間に比例して、憧れる気持ちは焦がれる気持ちへと変化していった。憧れても、焦がれても届かない気持ちが、逢うたびに募る。

 若く経験値の低い恋心は、「女性もまた、誰か年上の男性のエスコートを受けたのだろうか?」という嫉妬心を芽生えさせる。二十代の俺はその女性より早く生まれてこなかったことが歯痒かった――


 もし、二十年ぶりに行くその街で彼女に教えてもらった店がまだ残っていて、

 もし、その店までの道順を体が覚えていたなら。

 これから先、紫苑に近寄る若い男に、若き日の自分と同じような思いを抱かせることができるのだろうか?


 そんなことを考えてはいたのだが、結局体も頭も中央林間の街のことは何も覚えておらず、こんな感じかなと紫苑が納得したお店に落ち着いた。

 ビーフィーターで作られた癖のないジントニックを飲み、ハーパーを数杯ロックで飲む。紫苑はベーシックなカクテルを数杯飲んだ。

 やがてアルコールがもたらしてくれる万能感が不確かな自信を連れてくる。恋をしているわけではないが、言うならば恋の駆け引きのようなもの、そういうやりとりで紫苑にマウントを取られっぱなしだったためか、少々の悪戯心が起こる。経験値は低いままレベルの低いままの自分が、果たして彼女の心に小さな火種を点けることができるだろうか。


 遥か昔に中央林間に来たことがあることを紫苑に話す。年上なのに少女のような表情をする、年齢を感じさせない奇妙な女性、君と同じように花の名前の女性。

「その女性とはどうなったの?」と紫苑に聞かれ、本当のこと、ありのままのことを話す。初めてのデートで当時の自分が極上と思っていたバーに行ったこと、その日のうちに関係を持ったこと。いろんな酒場で色んなお酒を一緒に飲んだこと。その後も幾度となく関係を持ったが、彼女には既に法的に認められた別のパートナーがいて、自分の気持ちは届かなかったこと。

 紫苑の嫉妬心を煽りたいと思って話し始めたことだったが、自分の中に留まり淀んでいた気持ちが排出されただけだった。気分を害してしまったのか、それとも何も気にもとめていない中年の、気持ち悪い昔話に付き合って疲れているのか。紫苑の表情からは何も読み取れない。お互いに何も話さないまま少しの時間が流れる。


 静かに、抑揚のない声で「その花の名前は一生私の前で口にしないで」

 二人の間に薄く張られた沈黙のガラス板を紫苑が叩き割る。その日は朝までずっと紫苑に女性上位で攻められた。


 紫苑の中に火は点けられたのだろうか?

 自分の中の紫苑に点けられた火は、今どのくらいの大きさなんだろうか?炎にならないまま、自然に鎮火して欲しい、でなければ消火しなければならない。実らない恋の結末は既に知っている。

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