第2話 紫苑
「こんばんは。おじさま、すごく自然にお酒を飲むんですね」
女性は紫苑と名乗った。花の名前。いい響きの名前だと思ったが、彼女の中で自分のポジションを上げる必要はない。
「あまり強くないからいつも飲まれてばかりだよ」と返す。
「もし宜しければ一緒にお話ししませんか?」と紫苑。
「じゃあ、そちらの彼も一緒に」と言う。マスターの気遣いを汲んで、一番この場がうまく収まりそうな会話の流れを作る。若いオスの自尊心を傷つけずに、紳士的な部分を満たすような持ち上げ方をしてやれば、この場を良い顔のまま立ち去り、自分から女の子と公に飲める店などに向かうだろう。若者の酒の頼み方を見るに、彼より先にこちらが酔いつぶれることはないだろう。
「こちらの彼とは初対面だし、それに私年上の方が好みなんです」と。紫苑はこちらの配慮など全く無視した。
若いオスは一瞬沸いた怒りの感情を表情に伺わせたが「ちょうど、俺もLINE入ったから行くわ。マスターお会計」と言って自分の飲んだ分だけを払い慌ただしく店を出て行った。彼は別の店にアルコール水を飲みに行くことになると思っていたが、この分では風にあたりに行くことになるだろう。
「お待たせしました」と会計処理が終ったマスターが、ボイラーメーカーを二つカウンターに並べた。
紫苑は少しだけ悪びれた顔で肩をすくめた後、ショットグラスを持ち上げ、マスターに「助け舟ありがとう」と言った後、こちらにグラスを向けて小声で「乾杯しよ、」と言った。静かに無言で、グラスが触れる程度に乾杯した。
「利用させてもらって御免なさい、でも嘘はついてませんよ」と言う紫苑に「聞いてて気持ちいい会話でもなかったからこちらも助かったよ。君が予想以上に自分の意思を出せる子だったから少し驚いたけど」と返す。マスターも「助け舟の必要はなかったでしたかね」と静かに言った。バーでのこういう会話は久しぶりでクスリときた。
普段はワインが多いという紫苑は、ボイラーメーカー以降もこちらと同じオーダーを同じペースで繰り返す。四杯目辺りまでは覚えていたが、店を出る頃には何杯飲んだか気に留めるのがバカらしくなっていた。
さすがに飲みすぎたと思うが気持ちは飲み足りない。しかしそろそろ潮時だろう。比較的良いお酒が飲めたと思う。マスターにチェックを告げ、会計を済まして店を出た。駅に向かってふらふらと歩いていると駆けてくる足音が聞こえたと思ったら、酔っぱらった紫苑が左腕にしがみついてきた。
「おじさん、奢るよ! もう一軒行こ」と言う。流石に娘ほどに年の離れているだろう女性に奢ってもらうわけにはいかない。「割り勘なら」と言って一緒に二軒目に向かった。紫苑がここにしようと言って向かったのは意外と普通の居酒屋チェーンだった。小さな個室に案内され、つまみとホッピーをそれぞれ頼んだ。それにしても若い女性もこういういかにもな居酒屋に行くものなのかと思っていると、余程顔に出ていたのか、紫苑が「基本的にお酒好きなんですよ」と説明してホッピーを飲み干した。
ホッピーを飲み干して熱燗の日本酒に切り替えて二~三号呑んだ辺りから、隣にきた紫苑のボディータッチが過剰になってきた。近くで嗅がされるこの若い花の匂いに理性が揺らぐ。わずかに残った酒精に侵されていない心が囁く「このままでは自分が先ほどの若いオスとなんら変わりがないではないか」と。こんな風に酒に酔うのは久しぶりだ。自分の状態が滑稽に思えて「そろそろお開きにしよう」と紫苑に告げる。
店を出てタクシー乗り場まで紫苑を送る。後ろを歩く紫苑が手を握ってついてくる。一度、優しく自然に離したが、次は指を絡める恋人握りで握ってきた。紫苑の瑞々しい手が自分の乾いた手のひらを潤していく。振りほどくことが出来ずにそのままタクシーの車内まで引っ張られる。「川沿いのラブホテルまで」と紫苑が運転手に伝え、取り消そうと開いた口を酒臭い唇と舌で塞いできた。
タクシーがラブホテルに到着するまでの間、紫苑のとろけるようなキスがずっと続いた。支払いも紫苑が済ませ、そのままホテルに入る。残っていたまともな理性も口移しの紫苑の呼気でアルコール漬けにされてしまった。
女性と身体を重ねたのはいつ以来だろう。紫苑と一つになった瞬間の快感は初めて精通を迎えた十代の、いいやそれ以上の。長い人生の中で感じたことない程のものだった。
今日初めて会った女性と、朝まで幾度となく交わった。
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