パパ活の女

笹岡悠起

第1話 途中下車

 普段は降りない駅、あと一つでいつもの駅というところだ。

 出発してほんの数メートルほど動いた電車が急停車してしまった。


 ひとときの沈黙の後、車内がざわつき始める。友人と会話をしながらも携帯をいじっている学生グループが「人身かな?」と言いながらTwitterで検索を始めているようだ。わざわざ周りに聞こえるような声を発するまでもないだろうと思うが、こういった感情がすでに自分が失くしてしまっている若さへの嫉妬からくるものなのかと理解し始める年齢になってしまった。


 程なくして、いくつか先の駅で人身事故が起きたとアナウンスが流れた。こんな時、すぐに愚痴を漏らす人間ばかりなのが悲しい。

 駅を出てすぐだったこともあり、電車は数メートルバックしてホームに戻り車両のドアが開けられた。

 何年も通勤に利用しているが、一つ前の駅に降り立つのはずいぶん久しい。

 夕食はまだだったが、金曜日と言うこともあり一人でゆっくりとお酒の飲める場所を探す事にした。


 しかし改札を出てロータリー広場に降り立って面食らった。この街でお酒を飲んだのは一体何年前の事だったのだろうか。

 随分と開発が進み、小さなバーなどが点在していたと記憶している辺りには知っている道路みちすらなくなっている。食事もできるおしゃれなイタリアンバールやフランス料理店等の洒落た看板ばかりがひときわ目立つビルディングがいくつも建っていた。

 毎日毎日何年も仕事帰りに車窓から工事の様子を眺めていたが、実際に目の当たりにすると想像以上の変わりっぷりだった。


 ここは生活圏。地元ではあるが、仕事帰りにお酒を飲むときはいつも都内で事足りてしまうため、逆お上りさんのような状態で、なかなか安住の地が決まらない。近くに大学がいくつか点在しているため学生の姿が目立つ。

 若者たちの活気から逃げるように少し奥まった場所にあるビルの、更に地下フロアへと吸い込まれていった。


 看板に『Blue Ocean』と書かれたバーの前で立ち止まる。

 歳を取っていても良いバーを探し当てる臭覚に関しては衰えていないようだ。入口にあるボードにはチョークで〝No Table Charge〟の文字がある。少なくとも都内に溢れている様なぼったくり店ではないだろう。

 静かにドアを開け、店内に入る。カウンターに四席、四人掛けテーブル席が三つ、二人掛けのテーブルが入口付近に一つ。

 一人しかいないマスター兼バーテンダーにカウンター席を案内される。

「当店へのご来店は初めてですか?」と聞かれ、初めてだと伝えると「失礼いたしました。お恥ずかしい話ですが駅から少し離れた場所にある所為か、初めてのお客様は中々見えられないもので」と続いた。特にこれ以上の会話は求められていないだろう。何も言葉を返さず無言でいるとオーダーを聞かれた。


 初めて来るバーに期待することは何もない。まずは無難にジントニックを頼んだ。オーダーが出来上がるまでの間、酒棚に置かれているボトルをチェックする。数種類の蒸留酒をそれぞれ揃えてあり、カクテル用にも数種類のリキュールが置いてある。冷蔵庫は足元に置けるサイズのものがおそらく二つ。レモンやライムはあるだろうがそれ以上はコンクしかないだろう。二杯目からは無難にボトルの酒を頼むことに決めた。


「お待たせいたしました」とジントニックが目前に置かれた。軽く、しかし敬意をこめて会釈をし、一口頂く。ゆっくりと飲みながら軽く店内を見渡す。四人掛けと二人掛けのテーブルにお客。

「お口に合われますか」と聞かれ、普通ビーフィーターが多いものだけど、タンカレージンを使うのは珍しい、自分は好きな銘柄だ、と伝える。「どなたかのご紹介ですか」と聞かれ、人身事故のことを伝えた。「なるほど、珍しいことが続くのはそういうことでしたか」と「お隣のお客様も初めてのご来店のようでして」と続けた。その会話から隣の男女がこちらを向く。目が合い、軽く会釈をする。


 この会話はプロのバーテンダーとしては失格だろう。

 カウンターにいた先客は見たところ二十歳そこらの男女。都内の飲み屋街ならいざ知らず、薄暗いバーでアラフィフの中年男性との会話を求めてはいない筈だ。

 そして男女云々それ以前に、今日が一見であるなどのプライベートな領域にバーテンダーの判断で別の客を踏み込ませてはいけない。


 ジントニックを飲み干し、数本並ぶバーボンの中から無難にワイルドターキーのロックをダブルでオーダーした。

 一駅は歩けない距離ではなかったが歩くつもりはなかった。復旧まで早くて小一時間、混雑を避けるなら二時間はアルコールを摂取しなければならない。先ほどのやり取りからこのバーの印象は中の下。悪くもなく良くもなくだ。もちろん、自分が何様な訳でもないのはわかっている。単に水が合うか合わないか程度の話。

 それもここで出されるアルコール入りの水が、だ。


 静かなバーではある。音楽は無難で有名なジャズだろうか? 音楽に素養がない、いや、興味が薄いので詳しくはわからないが、耳に障るような音楽ではない。心地よくも悪くもないので、こういうものはいいものなのだろう。聴こえるか聴こえないかに調整されたボリュームも心地よい。

 なので、くだんの隣の男女の会話は耳に障った。


 バーではありがちなことだが、一人で来ている女性を口説くためにオスが話すのは、始終自分がいかにすぐれたこたいであるかという、内容の薄い話。女性あいてのことで気になるのは、今日メスにその気があるかどうかだけだ。

 なので自分の売り込みだけで相手の話は聞いているようで聞いていない。

 横で聞いていて、酒の肴にもならない。なるほど、先ほどマスターが出したのは女性への助け舟だったのだろう。「お隣の方」とは言っていたが「お隣の方々」とは言っていなかった。

 バーで飲んでいて、気分を害した時に取るべき行動は二つある。今すぐチェックするか、害した気分をアルコールで洗い流すかだ。金曜日なら後者だろう。幸い、一見で入った店は中の上だった。


 一人でバーに飲みに来るような女を助けようなどとは思わない。既に出された助け舟は店主が出したもので、こちらが浮き輪を投げるかどうかを判断するほどの情報はない。ひとつわかる確かなことは、この女性は一人でバーに飲みに来ているということ。

 若い心にはお酒だけでは満たされないグラスがある。

 彼女が無類の酒好きでもない限り彼女の隙間を満たすのは自分のような老兵予備軍ではないだろう。空になったロックグラスを軽く掲げ、マスターに目配せする。一杯目のジントニックを待っている間に一番気になっていたバーボンを頼むことにした。輸入が止まって久しいがそれでも出会えるのが片田舎の喜び。


「ブッカーズをショットで、チェイサーにビールを」とオーダーする。

「ボイラーメーカーですね」とマスター。

 知った被ってかっこいいと思って、色んなお酒を30年近く飲んできた。この30年があって初めて、かっこをつけていない今があると感じる。


「マスター、私にもおじさまと同じものを」

 隣の女性がマスターに声をかけた。

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