第3話 パパ活

 昨日は自分には場違いな気がして、一生入ることはないだろうと思っていたイタリアンバール。今日はそこで紫苑と一緒にブランチを食べている。

 自分の体から微かに匂ってくる紫苑の香水が昨晩の出来事が夢や妄想でないと実感させる。


 紫苑がサラダを食べながら、今日の夜は空いていますかと聞いてきた。予定的には空いているが、自分がこの子を満足させることができるとは思えない。紫苑はバーに一人で来て何に満たされたいのか。自分は誰かのグラスに何かを満たせるのか。「君は……」と話そうすると「し・お・ん」と被せてくる。

「予定は空いているけど、中年のオヤジは、君…紫苑が退屈してしまうんじゃないかと考えて尻込むよ」と正直に話す。


「行ってみたいお店がいくつかあるの、詳しくは今度話すから、良かったら……ぜひ付き合って」

 自分は紫苑のような若い子と時間を過ごすのは楽しい、だが紫苑はどうだろう。目の前に若くて美しい女性がいる。その子とは一夜限りの偶然の重なりが起っただけ。交わった線はそのまま今まで通り別方向に進んでいき、二度と交わることはない、初対面で肉体関係をもってしまった男女の間など、所詮そんなものではないか。彼女の真意が読めない。何て答えるべきか。沈黙していると紫苑がさらに続けた。

「私、パパを探しているの」紫苑は曇りのない瞳でこちらを見つめてきた。


 唐突な紫苑の言葉を聞いても、気持ちは何も動かなかった。嫌な感情が沸いてくることもない。もしかしたら、昨夜の偶然の出会いから今のこの瞬間まで、自分は何かを期待していたのかもしれない。心が動かなすぎて自分の気持ちを疑ってしまう。自分の正直な気持ちを自分が傷つかないように自ら言い聞かせる、そんな生き方を20年も三十年も続けてきたのだ。もう本当の気持ちは自分にも誰にもわからない。


 残念だが自分はお金持ちでも何でもない。しがないサラリーマンに紫苑の期待に応えることはできない。そんなことを含めて、上手くは伝えられなかったと思うが、今日会うのは止めようと伝える。と、紫苑はうつむき押し黙ってしまった。

 紫苑の肩が小刻みに震えはじめた。紫苑はうつむいたまま右の手をテーブルの上に置いた。肩の震えが二の腕から肘、細く白い手首、手の甲から指先へ伝わったままだ。ゆっくりと手首を持ち上げ、手の平を起こして、震える指先でよろよろと二足歩行の人型を模してテーブルの端をこちらに歩かせた。指先がこちらの指先まで辿り着いたところで、紫苑が一度腰を浮かせ、対面の席から隣に移動してきた。

 顔をがばっと起こすのと右手がこちらの腕を掴むのと、紫苑が吹き出すのが全て同時。「ぷーっ、くっ!」


 呆気にとられた顔をしていると、笑いすぎて目尻に少し浮かんだ涙を拭きながら、ごめん紛らわしかったよね、と謝ってきた。

「パパ……と言うか、言い換えるね。私、本当の父親を探してるの。ちょっと複雑だから説明は今度。でも、おじさんには手伝って欲しいな」

「昨日、おじさんと飲んだお酒は美味しかったよ。今日の夜は私のお酒を一緒に飲んで。割り勘ならオッケイしてくれる?」笑いがおさまった後の紫苑の提案にはどこか引っ掛かる所があり、即答できない。どこかが矛盾している気がする。


 上半身が理知的に断る理由を考えている。下半身が少しの期待を想像して思考を止めさせようとしてくる。

 別に家庭がある訳でもなく、趣味という趣味がある訳でもない。むしろここまで話してくれた紫苑に頑なに断わる方がおかしい。


「何時に待ち合わせる?」そう答えた声は、我ながら上擦っていたと思う。見透かされたような上目遣いを見つめ返せない。


 恋の駆け引きなど、とうに忘れてしまっていた。

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