第10話:虚飾のランデブー


 雨がアスファルトを叩き、市街の街灯が頼りなく揺れている。

 悠人と麗華は、お互いに「相手は本物の底辺層」だという確信を持ったまま、最悪の密着状態で歩き出した。

(……くそ。この三つ編み女、至近距離だと安物の天ぷら粉みたいな匂いがしやがる。相当、油物に飢えてる生活なんだな。しかもよく見りゃ、ジャージの袖口にカピカピに乾いたパンくずがついてやがる……。どんな生活してりゃ、ここにパンがつくんだよ)

(……信じられないわ。このキャップ男、腕を組む力が妙に強いのね。肉体労働で培われた野蛮な筋肉だわ。……っていうか、この首に巻いた黄色いタオル、何回洗えばこんなにゴワゴワになるの? 柔軟剤という概念が存在しない世界線の人種ね、間違いなく)

 悠人は背後の白いバンを意識しながら、あえて自分のボロアパート『あけぼの荘』がある裏路地とは真逆、駅前の再開発エリアへと麗華をエスコートした。

「……おい、三つ編み。もっとくっつけ。あいつは二人の『親密度』を測ってる。不自然に距離を開ける方が、むしろ正体を暴こうと食いついてくるぞ」

「な、なによ……! 指先が、その、私のジャージの繊維に触れてるわ。汚れるじゃないの……!」

 麗華の「汚れる」という言葉に、悠人は鼻で笑った。

(……汚れる? お前が着てるのは金持ち御用達のシルクじゃなくて、デパートのワゴンセールで買った九百八十円の化繊だろ。どの口が言ってやがる)

 一方、背後の白いバンの助手席。

 小鳥遊雛は、雨粒が滴るフロントガラス越しに、望遠レンズのピントを狂わんばかりに調整していた。

(……ああ、これよ! これなのよ! 完璧な王子様と氷の女王が、ゴミ溜めのような市街で、安っぽいスウェットとジャージを纏って身を寄せ合っている……。この圧倒的な『背徳感』! )

 雛の指が、興奮で痙攣するようにシャッターを切る。

(神月様が、あんなに乱暴に西園寺様の肩を抱くなんて。学園では絶対に見せない、剥き出しの独占欲……! これはお宝よ。学校新聞どころか、週刊誌に持ち込めるレベルのスキャンダルだわ!)

 雛の脳内では、驚愕の仮説が組み上がっていた。

(……あの二人、実はお互いが 金持ちの暮らしに疲れ果てて、あえてこういう『底辺デート』に快楽を見出しているのね!)

 その時、悠人は前方に見える「ある建物」をゴールに定めた。

 それは、このエリアで唯一の超高級タワーマンション『ロイヤル・ゲート』だ。

(……あそこに住んでいるのは、本物の成金かエリート層だ。あそこのロビーに滑り込めば、ゴシップ屋も『あいつはあそこに住んでいるのか』と勘違いして手を引くはずだ)

 悠人は麗華を引き寄せ、マンションの豪華なエントランスへと堂々と足を踏み入れた。

「……じゃあな、三つ編み。俺はここ(自宅のフリ)で失礼する」

「……え? あ、ええ。私もここで『ティータイム』を楽しんでいくわ」

 二人は、さも住人であるかのような顔をして、オートロックの自動ドアが開いた瞬間(たまたま出てきた住人と入れ違いで)、ロビーの奥へと消えた。

 警備員の視線が突き刺さるが、二人は一歩も引かない。「このボロい格好は、あえての趣味だ」というオーラを全身から放ちながら、エレベーターホールへと突き進む。

 バンの外でそれを見ていた雛は、カメラを構えたまま呆然と立ち尽くした。

「……えっ。あんなボロい格好で。やっぱり、あそこのタワマンに住んでるのね ……そうか、あれが本当の『本物』なのね。変装のクオリティまで底辺を極めて、住まいは超高級……。あの二人の『遊び』、常軌を逸してるわ……!」

 雛は、自分の常識を超えた「金持ちの狂気」に恐怖すら覚え、一旦撤退することを決めた。

 一方、マンションのロビー。

 コンシェルジュに「……何か御用でしょうか?」と不審な目で見られた瞬間、悠人と麗華は弾かれたように離れた。

「……じゃあな。あいつはもう消えたはずだ。これ以上深入りするなよ」

「ええ。……二度と私の前に現れないでちょうだい、キャップ男。あなたのタオルの匂い、今夜の悪夢に出そうだわ」

 二人は冷たく言い捨て、お互いに背を向けた。

 悠人は「エレベーターで上階へ行くフリ」をしてホールへ進み、麗華は「コンシェルジュに用があるフリ」をしてカウンターへ向かう。お互いに、相手がこの超高級マンションの住人(あるいは客)であることを微塵も疑わずに。

 だが、自動ドアの向こうから小鳥遊雛の気配が完全に消えたことを確認した瞬間。

(……今だ!)

 悠人はエレベーターの陰から非常口へ滑り込み、麗華はコンシェルジュが目を離した隙に裏口の通用門へと走った。

 ここからが、プロの貧乏人の真骨頂だ。

 悠人はタワマンの敷地を出るなり、相手が住む「上流階級のエリア」から逃げ出すように、雨の路地裏へと飛び込んだ。

(……あんな女、二度と御免だ。あいつはあの豪華な部屋で、高い肉でも食って寝るんだろうよ。俺は三万円のアパートで、明日の学園費を計算しなきゃならないんだ)

 一方、麗華もまた、泥跳ねを気にせず暗い裏道を猛進していた。

(……不愉快な男。あのような野蛮な男が、このマンションの最上階に住んでいるなんて世も末よ。私は早く帰って、パンの耳を焼かなければならないのに!)

 二人は、「相手がまだあのタワマンにいる」と信じ込んでいるからこそ、 安心して自分の巣へと全速力で帰還した。

 まず悠人が、濡れたジャージを脱ぎ捨てながら201号室へ。

 そのわずか一分後、麗華もまた、息を切らしながら202号室の鍵を回す。

 時間差で階段を駆け上がり、互いに息を殺してドアを閉めた。

 相手がすぐ隣の部屋で、自分と同じように「もやし」や「パンの耳」を手に安堵のため息をついていることなど、知る由もなかった。

(……危なかった。まさかあんなタワマンまで行く羽目になるなんて。でも、あいつ(三つ編み/キャップ男)はあそこに住んでるんだから、俺/私とは住む世界が違うわね)

 偽りの自分を演じ続けるための、孤独な夜が更けていく。

 翌朝。

 学園の廊下ですれ違った二人は、昨日までの「戦友」の欠片も感じさせない、完璧な微笑みを交わす。

「おはよう、西園寺さん。今日も美しい黒髪だね」

「おはよう、神月くん。あなたこそ、爽やかなオーラを纏っているわね」

 だが、その二人の横を、目の下にクマを作った小鳥遊雛が通り過ぎる。

 彼女のポケットには、昨夜の「毛玉ジャージとスウェット」の密着写真が忍ばされていた。

「……ふふ。おはようございます、お二人さん。昨夜は……『素敵な夜』を過ごされたみたいですね?」

 その一言に、悠人と麗華の背中に、同時に冷たい電気が走った。

​雛は二人の間を通り抜けながら、手元の端末で「送信」ボタンをタップした。

​震える手で画面を見た悠人の目に入ったのは、スウェット姿の自分と三つ編み女が腕を組む写真。そして――

『(悠人宛)あんな可愛い庶民の子と一緒のところ、見られたくないですよね? 放課後、16時に図書室へ。一人で来てください。彼女には内緒で』

​同時に、麗華の画面にも別の通知が届く。

『(麗華宛)あんな逞しい労働者の方を隠しているなんて。放課後、17時に図書室へ。お一人でどうぞ。彼には内緒にしておきますから』

​雛は振り返らず、長い廊下の先へと消えていく。

二人はお互いの画面を覗き込む余裕などなく、ただ「自分の正体(貧乏)がバレる」ことへの恐怖で、静かに戦慄した。



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