第9話:死のステルス・ミッション
放課後の喧騒が残る駅。神月悠人は、駅構内の多目的トイレに滑り込んでいた。
鏡に映る自分は、非の打ち所がない特待生の制服姿だ。だが、彼は迷うことなくカバンから「使い古されたグレーのスウェット」を取り出した。
(……一千万を稼ぐための治験会場に、この制服で行くわけにはいかねえ。まずは『神月悠人』をここで殺す)
悠人は手際よく着替えを済ませ、制服をカバンの奥底へ押し込んだ。深く被った黒いキャップと白いマスク、首にはゴワゴワの黄色いタオル。トイレを出る時には、誰も彼を「学園の王子」だとは気づかない、どこにでもいるバイト帰りの青年へと変貌を遂げていた。
一方、西園寺麗華もまた、学園裏の児童公園にある公衆トイレで、必死にジャージの袖に腕を通していた。
(……屈辱だわ。こんな、袖口に毛玉がびっしりついた安物に着替えるなんて。でも、リサイクルショップで『家宝の材料』を漁る姿を西園寺の制服で晒すわけにはいかないもの……!)
三つ編みをニット帽の中に押し込み、顔の半分を覆う伊達メガネを装着する。完璧な変装。二人はお互いに「誰にも見られずにジョブチェンジを完了した」はずだった。
だが、二人は知らなかった。新聞部の小鳥遊雛が、過去数日間の行動観察から、二人が放課後に必ず立ち寄る「着替えポイント」をすでに見抜いていたことを。
「……出てきたわね、ターゲットA。さあ、あなたの『本当の行き先』を教えてちょうだい」
雛は悠人が駅を出るのを確認すると、新聞部の備品である白いバンを運転手に走らせた。
十分後。駅から三駅離れた、再開発の波から見捨てられた旧市街。
悠人は目的地の雑居ビルを前にして、不意に足を止めた。
(……待て。気配がする)
通りに停まっている一台の、何の変哲もない白いバン。そのサイドミラーが、不自然に悠人の動きを追っている。
(車だと? 誰だ……借金取りか? いや、あの車内に感じるのはもっと粘着質な、レンズ越しの視線だ)
ここで治験会場に入れば、自分の正体どころか「生活圏」まで突き止められる。悠人は顔を伏せ、人混みが激しく裏口が多数存在する巨大店舗「ドンキモト」へと滑り込んだ。
一方、建物の反対側から、麗華もまた心臓の動悸を抑えながら店内へ逃げ込んでいた。
(……なんなの、あの車! 駅から何度もルートを変えたのに、どうして先回りされているの!?)
麗華には、あの車を運転しているのが誰か分かっていた。新聞部の「小鳥遊雛」だ。もし彼女に捕まれば、ゴミを漁っている姿を撮られるどころか、家(ボロアパート)まで特定されてしまう。
店内、二階の衣料品コーナー。
悠人は人相を完全に隠すためのパーカーを掴み、そして、反対側からそれを掴む「見覚えのある毛玉ジャージ姿の女」と再会する。
「……またお前か、マツバヤの三つ編み」
「……なっ。何よ、キャップ男。まさかあなた、私をストーキングしてるの?」
二人が一着の安物を巡って火花を散らした、その時。店の大きな窓から、駐車場に滑り込んでくる「白いバン」が視界に入った。
「……っ、おい三つ編み。外を見ろ。あの車、さっきから不自然に動いてる」
麗華は心臓を掴まれたような衝撃を受け、慌てて口を塞いだ。
(危なかったわ……! 『新聞部の車よ』なんて言えば、私が聖鳳学園の生徒だってバレてしまう!)
麗華は瞬時に「嘘のデータベース」を検索し、震える声で返した。
「……知ってるわ。あの車、この界隈で有名な、質の悪い『ゴシップ屋』よ。一度目をつけたターゲットを家まで追い詰め、プライバシーを根こそぎ売るっていう、最低のハイエナよ」
「ゴシップ屋だと……?」
悠人の眉間に深い皺が寄った。彼にとって、最も警戒すべき人種だ。
「……ああ、納得だ。俺も、少しばかり『訳あり』の仕事をしてるんでね。あんな奴に根城(アパート)を突き止められたら、文字通り人生が詰む」
「私もよ……。私の、その、静かな暮らしをあんな下俗なレンズに汚されたくないわ」
二人は、お互いの正体を知らぬまま、同じ「絶望」を共有した。
「……おい、三つ編み。一時休戦だ。あいつは一人で動いている獲物を狙う。なら、俺たちが『親密な関係』に見えれば、あいつは決定的な『密会写真』を撮るために深追いせず泳がせるはずだ。その隙に、あいつを撒くぞ」
「……何よ。私に、あなたみたいなキャップ男と親しくしろって言うの?」
「背に腹は変えられねえだろ。……ほら、腕を貸せ」
「ちょっ……!?」
悠人は、無理やり麗華の細い腕を自分の腕に絡めた。麗華は驚きで硬直したが、バンのスライドドアがわずかに開き、黒いレンズがこちらを向いたのを見て、覚悟を決めた。
(……ええい、こうなったらヤケよ! どこの馬の骨かもわからない男と腕を組むなんて屈辱だけど、ボロアパートの前でフラッシュを浴びるよりは一万倍マシよ!)
悠人は「安物スウェット姿の労働者」として。
麗華は「毛玉ジャージの三つ編み女」として。
二人は、お互いが学園で見せている完璧な姿とは真逆の、「最低に惨めな偽装カップル」を演じながら、雨の降り始めた夜の街へと踏み出した。
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