第二章
第8話:疑惑のスナイパー
生徒会室の重厚な扉が閉まった瞬間、神月悠人の背中を冷たい汗が伝った。
大鳳雨が突きつけた「一千万円の寄付」という名の宣告。それは、悠人にとって死刑宣告に等しい。
(……一千万だと? 冗談じゃねえ。こっちは今月の水道代を払うか、それとも明日からのもやしを二袋に増やすかで命懸けの議論を自分自身と繰り広げているっていうのに……!)
悠人は「完璧な王子様」の微笑みを崩さないまま、優雅な足取りで廊下を歩く。だが、その内面は、荒れ狂う嵐のようだった。
一方、並んで歩く西園寺麗華も、その白磁のような横顔の下で絶望の淵に立たされていた。
(一千万……。一千万あれば、あのボロアパートの壁を金塊で塗り替えてもお釣りがくるわ。そんな大金、どこをどう叩けば出てくるっていうの……!?)
二人は互いに、相手が「それくらいの端金、当然のように用意できる側の人種」だと信じ込んでいる。だからこそ、弱音を吐くことは死を意味した。
「……前途多難だね、西園寺さん。大鳳会長も、なかなか手厳しい歓迎をしてくれる」
「へー、そうかしら? 私たちへの『期待』の表れだと考えれば、妥当な数字ではないかしら。……そう、妥当だよ。はした金に動揺するほど、西園寺の血は安くないもの」
二人は鏡合わせのような嘘をつき、階段の踊り場で別れた。
悠人は誰もいなくなった廊下で、一度だけ深く溜息をつき、ポケットに手を突っ込んだ。
(……落ち着け。まずは冷静に、残高を確認して戦略を……)
その時、悠人の指先が「あるはずのもの」に触れなかった。
(……あ?)
ポケットの中にあるはずの、昨日の戦い(マツバヤのタイムセール)の記録。
『牛すじコロッケ 50円(半額)』と印字された、あの忌々しくも愛おしいレシートが、消えていた。
「……っ!」
悠人の血の気が引いた。もし、あんなものが誰かに拾われたら。
全教科満点の特待生、神月悠人の私生活が「半額コロッケ」で構成されているとバレれば、大鳳雨に首を撥ねられる前に、この学園での地位も、母を救うための野望も、全てが霧散する。
悠人は慌てて、今来た道――生徒会室へと引き返した。
――その様子を、物陰からじっと見つめる瞳があった。
「……見ーつけた」
低く、粘りつくような声。
新聞部員、小鳥遊雛(たかなし ひな)は、指先に挟んだ一枚の感熱紙を、愛おしそうに眺めていた。
それは、悠人が生徒会室を出る際に、動揺でポケットから滑り落ちた一枚のレシート。
「神月悠人様。学園の王子様。特待生様。……あなたが、放課後に『マツバヤ』なんていう、地元の主婦でも敬遠する激安店で、半額の揚げ物を買っている……。これは、ノーベル賞級のスクープだわ」
雛の大きな眼鏡が、廊下の照明を反射して不気味に光る。
彼女には、生まれつきの「特殊能力」があった。
それは、人の纏う「金銭の匂い」を嗅ぎ分ける嗅覚。
真の金持ちは、銀や薔薇の匂いがする。だが、神月悠人からは、微かにだが確実に、安物の洗剤と、古い揚げ油の匂いが漂っていた。
「さあ、追い詰めさせてもらうわよ。あなたのその『メッキ』が剥がれる瞬間、私のカメラが世界で一番近くでシャッターを切るんだから」
悠人が這いつくばるようにして廊下の隅々を探している横を、雛は足音を立てずにすれ違う。
彼女の手には、一眼レフカメラ。
レンズの先には、今にも崩れそうな「偽物の城」に住む、一人の少年の背中があった。
一方、反対側の校門へと急ぐ西園寺麗華も、異変を感じていた。
誰かに、見られている。
背筋を駆け上がるような、執拗な視線。
「……気のせいかしら」
麗華は足を速めた。彼女もまた、今日は何としても一分一秒を惜しまなければならない。
一千万という絶望を前に、彼女が真っ先に向かったのは、学園から三駅離れた場所にある、古びた質屋だった。
だが、その背後には、二つの影が忍び寄っていた。
一つは、悠人の正体を疑う小鳥遊雛。
そしてもう一つは、雛の気配にすら気づかせないほど「完璧な隠密」で動く、生徒会長・大鳳雨の影――。
偽物たちの戦場は、もはや学園の中だけでは収まらなくなっていた。
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