第4.5話(幕間): 現実(リアル)への帰還
「それでは、今日はこの辺で。有意義な時間だったわ、神月くん」
「こちらこそ。また君の琴線に触れるような『逸品』を探しておくよ、西園寺さん」
二人は王族の社交場かと見紛うほど完璧な礼法で別れの挨拶を交わし、優雅に背を向けた。
だが、校門を一歩出た瞬間、両者の歩行スピードは物理的限界まで跳ね上がる。
悠人は、一分一秒を惜しんで母の待つ病院へ向かい、その後の深夜バイトに滑り込むため。
麗華は、一円でも安いタイムセールの卵――「お一人様一点限り」の防衛線を突破するため。
一時間後。
再開発という光から見捨てられた下町のボロアパート『あけぼの荘』。
ギィィ、と錆びた階段が、今日も入居者の貧困をあざ笑うかのように悲鳴を上げた。
二〇一号室のドアを開けた悠人は、息を切らしながらネクタイを乱暴に解き、命の次に大事な中古制服を、ミリ単位の狂いもなくハンガーへ掛けた。
このアパートは呪われている。隣のテレビの音、上の階の足音、さらには建物の外を走るバイクの爆音までが等価に響く。もはや特定の『声』を聞き分けることなど不可能であり、住人たちは無意識に『全ての音を雑音として遮断する』という防衛本能を身につけていた
「……ふぅ。西園寺麗華、やっぱりちょろいな。あの百均のビスケットを『素材の力』なんて絶賛するなんて。所詮は世間知らずの箱入り娘、本物の価値なんて何一つ分かっちゃいない。これなら容易く手玉に取れるぜ」
悠人は狭いキッチンに立ち、慣れた手つきで『もやし』を炒め始めた。今日の味付けは、病院の帰りに拾ったクーポンで手に入れた鶏ガラスープの素(一振り)。それが彼にとっての「贅沢」だった。
一方、壁一枚を隔てた二〇二号室。
麗華は冷たい床に座り込み、執念で手に入れたパンの耳に、賞味期限の怪しい砂糖を丁寧にか振りかけていた。
「……神月悠人、意外と単純な人で助かったわ。私の用意した業務スーパーの格安茶葉を『透明感のある香り』だなんて。……フフ、あの男を手に入れさえすれば、西園寺の再興も、この家賃三万円の湿った生活からの脱出もすぐそこよ……!」
シャキッ、ともやしを噛み締める音。
サクッ、とパンの耳を齧る音。
薄い壁を透過してほぼ同時に響いたその咀嚼音を、二人は鼻で笑い飛ばす。
(隣の部屋の貧乏人が、また何か惨めな餌を食べているな)
(お隣さんも、せいぜいその安い食事で命を繋ぐがいいわ)
壁の向こうに、自分の人生を賭けた「獲物」が住んでいるとも知らず。
それどころか、自分たちが全く同じ「安物の音」を奏でていることにも気づかず。
二人は電気が消えかけた暗い部屋で、今日消費したわずかな一円玉の行方を数えながら、明日という名の「戦場」へ向けて、静かに牙を研ぐのだった。
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