第3話:隣の芝生はもやしの匂い
学園の門を出た瞬間、悠人は「完璧な特待生」としてのスイッチを無慈悲に切り捨てた。
背筋を縛り付けていた緊張を解き、高級外車が列をなす大通りを避けて、いくつもの薄暗い路地を折れる。豪邸の庭園から漂う花の香りが遠ざかり、たどり着いたのは再開発という時代の波から完全に見捨てられたような下町だった。
築四十年、木造二階建て。
あちこちの塗装が剥げ落ち、湿った木の腐敗臭が漂うボロアパート『あけぼの荘』。ここが悠人の本拠地――「貧乏人の巣穴」である。
「……ふぅ。今日も命を削る仕事(演技)だった」
ギィィ、と断末魔のような音を立てる階段を上がり、二〇一号室の扉を開ける。悠人はすぐさま、命の次に大事な「戦闘服」である中古の制服を脱ぎ捨てた。一ミリのシワ、一点のシミも許されない。彼はそれを、まるで国宝を扱うような手つきで丁寧にハンガーにかけた。
代わりに身に纏うのは、百円ショップのワゴンセールで買った、膝の抜けたジャージだ。
悠人は台所に立ち、冷蔵庫から「本日の戦利品」を取り出した。昨日、閉店間際のスーパーで主婦たちの肘打ちに耐えながら死守した、一袋十九円の『もやし』だ。
(──待ってろよ、西園寺麗華。お前が今頃、三ツ星シェフが跪いて提供する料理を優雅に楽しんでいる間に、俺は知略と節約で牙を研いでやる)
悠人はフライパンを握り、もやしを炒め始める。味付けは塩コショウ、そして「いつか見てろよ」という名のスパイスのみ。だが、今の彼にはこれが最高のリベンジ・フードだった。
その時だった。
──トントントン。
薄い壁の向こう、隣の二〇二号室から、リズムの良い包丁の音が聞こえてきた。
(またか。隣の住人も、この時間に貧乏自炊かよ)
最近越してきたらしい隣人とは、一度も顔を合わせたことがない。悠人も自身の正体を知られたくないため、廊下で足音がすれば息を潜めてやり過ごすのが、このアパートの暗黙のルールだ。
壁の向こうから、女の独り言が微かに漏れてくる。
「……ふふ、今日のパンの耳、揚げ具合が完璧だわ。お砂糖をまぶせば、立派なラスクね……」
鼻歌混じりの、どこか聞き覚えのある高潔な響きを持った声。だが、悠人はそれを鼻で笑って無視した。
(──パンの耳か。憐れなもんだな。だが、お前も俺と同じ、社会の底に沈んだ『持たざる側』なんだろう。せいぜい、惨めに生きてろよ)
悠人は皿に盛ったもやしを、まるで最高級のシャトーブリアンでも切り分けるような優雅な所作で口に運ぶ。意識を学園での「冷徹な王子」に戻し、麗華をどう陥落させるか、そのシミュレーションに没頭した。
一方、壁一枚を隔てた二〇二号室。
西園寺麗華は、首元のヨレたジャージ姿で、揚げたてのパンの耳をハフハフと頬張っていた。
「……ふぅ、今日の収支、プラス三百円。よし! これで今月の電気代の督促状は無視せずに済むわ……」
彼女の翡翠色の瞳には、学園で見せた傲岸不遜な女王の光はない。そこにあるのは、明日の食費と公共料金の支払いに追われる、極限状態の少女の目だ。
「それにしても、あの神月悠人……。あの制服の『匂い』、どこかで嗅いだことがある気がしたけれど。……まさかね。あんな完璧な、金の匂いしかしないような御曹司が、私みたいに特売品の争奪戦に参加してるわけないわ」
麗華は窓の外、遠くに見える、かつての実家があった高級住宅街の灯りを睨みつけた。
「待ってなさい。私が必ず、泥水を啜ってでも名門・西園寺家を再興させてみせる。神月様みたいな『本物の資産家』を捕まえて、その資産を私の再起のために利用してやるんだから……!」
もやしを噛み締める復讐者。
パンの耳をかじる没落令嬢。
互いに、壁のすぐ向こうに「最も忌々しい宿敵」が、そして「最も都合の良いターゲット」が住んでいることなど夢にも思わず。
二人は同じボロアパートの空の下で、互いの喉元にナイフを突き立てるための策略を練り続けるのだった。
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