われの世界とは違う別の世界での生活だ。もう何十年も昔、知哉ともやはとても楽し気に海に来ていた。その魂は赤く燃え上がり、揺らめいてとても美しかった。跳ねる笑い声にわれ知哉ともやに『楽しいか』と聞いた。当然だが知哉ともやは楽しいと言った。そしてわれの呼びかけ等には見向きもせず己の陸の呼びかけに応えた。われには分からなかった」

「そんな奴等は今まで幾人も見てきただろう。貴様はその者が欲しているものを手にして現れ人を惑わす。大抵はその欲に我慢できずに誘われてしまうが、そうではない人間も勿論いる。どうして知哉ともやだったんだ」

「わからない。しかし、それからわれは陸という憧れをもつことになり、二度目に知哉ともやを見た時、知哉ともやとなることを望んだ」

「トモカヅキが知哉ともやに誘われたと。……ありえないことではない。あれの母親はまるで何もなかったが、祖母は違うからな。お前の存在を確信していたということは、恐らく自身もそうであったのだろう。どうやら知哉ともやは隔世遺伝的に様々なものを誘う力をもらってしまっているようだ。それで、変わってみて満足できたのか」

 みことの問いかけにトモカヅキは真っ直ぐみことを見つめていた視線を下の方へと移した。

「海にない楽しさは確かに陸にあったが、陸には楽しさを感じないこともあった。日々を過ごすうちに自分は何を求めていたのかわからなくなった。自分がどうしたいのかどうすればいいのかわからないまま日々は過ぎ、われは自分が何者であるのかを忘れていった」

「当然の結果だな。己の世界の中にない物がよりよく見えるのはどんな場合でも同じだ。だが存在理由は違う、己が何故そこに存在しているのか、自分が存在しているその意義を自ら見出さねば、ただただ己の世界以外の全てが素晴らしく感じ欲する気持ちだけが膨らんでいく。貴様は自らの存在から逃げ、さらに奪い取った知哉ともやという者の中でも存在から逃げた。故に自らが何であるか分からなくなったんだ。だが、どこかで貴様の存在は残っていて安定せぬ自分の思いを何とか安定させ、さらにはそれが何であるか気付いてもらおうと乳香を選んだ。まぁ、時期的にはぎりぎりでちょうどよかったかもしれん。あのままであれば己が誰であるか説明しようとも完全に理解などできない状況に陥っていただろうからな」

 みことは少々安心したような息を吐き、突き立てている人差し指で眉間を弾くように指を放した。

 額に走った痛みによって金縛りが解かれるように、中身がトモカヅキの知哉ともやの体はだらりとその場に倒れ込む。

 身体が痺れた様に思い通りに動かず、呆然としているトモカヅキを部屋に残しみことは店の方に行って練香を選んで持ってきた。

 先ほどまでの青磁の香炉を少し横によけ、新たに持ってきた青銅製の香炉に香炉灰を入れて香炭に火を入れる。

 炭の火によって温められた灰の上に乗せて熱することで、あたりにはバニラのような甘い香りが漂ってきた。体の中にその香りが入っていくほどに体の痺れる様な緊張は解けていき、トモカヅキはゆっくりと瞳をみことに向ける。

「どうだ、少しは楽になったか」

「はい、随分に。ありがとうございます」

「安息香が効いたようでよかった。大丈夫だとは思うが苦しくなったら言え、部屋から香を出す」

 自分を気遣うように言われ、トモカヅキは少々戸惑いながらみことに聞き返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る