一瞬酸っぱいレモンのような香りを発しながらも何処か森林の木の香りを思わせる香りに知哉ともやは瞳を閉じる。

 体の中にある自分という物が身体とは分離して浮いていくようで、それが不安でありながらも望んでいるような、一体自分はこの香りの中でどうしたいのか良く分からなくなってくる。

「お前は一体どうしたいのだ」

 突然頭を押さえつける様に重みがのしかかり、低いみことの声が聞こえて知哉ともやは瞳を開けようとするが全く開くことが出来ず、少々驚いて困ったようなうなり声を出す。

 戸惑う知哉ともやを気にすることなくみことは頭に乗せた手をゆっくり前方に滑らせて知哉ともやの眉間に人差し指を突き立てた。

「乳香は己の精神を安定させ、不安等という負の感情を緩和する鎮静作用がある。沈香や伽羅、白檀と言った香を選ばず、また洋のフレグランスには関心を持たず、これを選んだことこそお前の心が揺れ動いていることを示している。一体お前はどうしたいんだ」

 みことの言葉に一体何のことを言っているのかと、眉間に押し付けられている人差し指から逃れようとするが体は動かず、少しの後ずさりさえ出来ない。

「トモカヅキ、この体は知哉ともやの物でありお前の物ではない。何故この体に留まろうとする。一度目に逃した命だ、二度目という幸いに恵まれたならさっさと命を持っていけばいい。それこそが海に住まう貴様の仕事だろう。我等は無暗に化けものだからという理由で払ったりはしない。確かにただ力を持っているだけで、其れの神意と真意を見つめず勝手に数を減らしてしまう馬鹿も多いが、それがそこに存在するには存在に意味が生まれている。存在があるにもかかわらず存在する意味のない生物などありえない。自らの生の意味を全うするのであれば我等は手出しはしない。だが、今のお前はその理から外れすぎている。一体お前は何がしたいのだ」

 みことが言ったトモカヅキという言葉に反応したのか、知哉ともやの眉がぴくりと動く。

「あまりに長い時間肉体と共にあって忘れたか? 思い出せお前はトモカヅキ、海に入ってきたものを喰らうのが仕事のアヤカシだ」

「僕は、トモカヅキ……」

「あぁそうだ。思い出したのならばさっさと知哉ともやの魂を持って行け。といっても今ここに知哉ともやの魂はないがな」

 嘲笑を浮かべて言い放つみことに、知哉ともやは動かぬ瞼を必死で開き、瞳孔が収縮した瞳をみことに向けた。

われ知哉ともやの魂を欲した訳では無い」

 知哉ともやの体を中心に波紋を描いて、まるで部屋の空気を揺らすように、唇を動かすことなく、知哉ともやの声ではない少し濁った低い声が響きわたる。

 言葉が小さな部屋の壁で跳ね返り、みことは一瞬にして水の中に居るような感覚に襲われた。

 しかし、それに動じることなくみことは真っ直ぐ自分を見つめる知哉ともやの瞳を見つめ返す。

「では、知哉ともや自身をその体から放り出してまで何を欲したと言うのだ」

 みことの問いかけに、部屋全体が波紋のように揺れ動き、苦しむような悲しむような困惑するような……、入り混じった感情が辺りを支配した。

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