今一つ不安が拭い去れていないのか、曇ったままの顔でじっと猿の鍵を持った男の背中を眺める、狼の部屋の鍵を持った男にみことが言う。

「まぁ、騙されたは余計なひと言ですが、試してみるのもいいのではないですか? 折角いらしたのですから」

「そう、だろうか。しかし、ただ部屋に行けと言われるだけでは……」

「此処は宿でございますからね。当然お部屋に行ってもらわねば話になりません。もし私の態度やこの宿がお気に召さないとお帰りになられるのであれば其れで構いません。お引止めは致しませんし、気に入らないと帰ったのであれば料金は頂きませんからそちらさんにとっては問題ないでしょう。ただ、先ほどの方もおっしゃられていた通り、貴方にとって恐らく此処は最後の砦となるでしょうね。貴方の知人という方も状況を察したからこそ此処を紹介したのでしょうし。『何もしない』より『試してみる』ほうがずっといいと思いませんか? とはいえ、強制はしませんのでどうぞご自由に」

 みことは怪しげな笑みを浮かべ、カウンターの中に置いてあるパイプ椅子に腰かけた。

 男は、一体部屋はどのようになっていてこの宿は一体何なのかを聞こうとしたが、言いたいことは終わったと言わんばかりにみことが男の方を見ることは無い。

 散々迷った挙句、男は鍵を握りしめ一度は行くのをためらった客室の方へと歩き出した。

 男の影が自分から左の方へ動き出したのを感じ、丸まって歩くのもやっという背中を見せながら客室の方へ向かう男にみことは視線をうつす。

 若く、それなりの身なりをしているが、よく見れば寄れて皺があるその辺のスーパーでの安売り品だろうと思われるような服。

 整えているようであって自分では見えない部分に寝癖を作っている男の姿は大きな背格好に似合わずとにかく頼りない。

「まぁ、ある意味、あれも特技になるだろうが。知哉ともや同様、自分で自覚していないのが厄介だな」

 パイプ椅子に腰掛けたまま、腕組をしてゆっくり瞳を閉じて深呼吸を一回。

 辺りにあるのは静寂だったが、尊はニヤリと微笑んだ。

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