第1章 ヤンキー百合 14

 陰性植物。日陰を好む植物若しくは日陰でも枯れず生命維持できる植物。概して呼吸が少なく、代謝が低く、エネルギー効率は良いが競り合いに弱いため日向に出て行くと陽性植物との競争に負け絶命する。強い光の下では生きられず、イケイケの陽性植物に追い散らされて日陰に落ち着く様は人間の生と似ている。陰性植物者は教室の隅っこ、少し影のかかる湿った場所で隠棲すべし。間違っても陽性植物者の専制に叛逆を仕掛けてはいけない。これが陰性植物者、根暗科根暗属に属する者の生存戦略である。

 まだ脂肪という余分を纏わない直線的な脚を開いたり閉じたり蹴り出したり。少女たちは舞台の上で激しく踊り、小さな身体を一回り大きく偽装している。喜びに弾ける笑顔は生活と芸術と求愛を一緒くたに踊りで表現した先祖への回帰だろうか。躍動への欲望。その陽性植物者の群生地に一株混ざった陰性植物者の暗い顔と死んだ表現。

「はいオッケー! じゃグループEは捌けて! グループAの二周目リハ行きます! 定位置について!」

 コーチの号令でグループEが風に吹き飛ばされる落ち葉のように舞台の下手に消え、上手からは楽しくて仕方がないという顔の少女たちが駆けて来る。横で観賞している白洲は白い肌に鬱血の朱を滲ませて組み合わせていた両の手を、災いが去ったかのように脱力して解いた。私は髪を二度掻き上げずにはいられなかった。漏れかけたため息は直前で何とか鼻に流した。これはもう、どう足掻いても失敗する。コーチも見えているけど見えなかったことにしている、白洲妹を勘定に入れていない。その態度に怒りを覚えるのは浅慮だろう、白洲妹の失敗を確実視した時点で私もコーチと同じ視座に立っている、同罪だ。

 妹の失敗を次へのステップに置換する案をいくつも練りながらその中途での空中分解にしかめ面の私に比して、白洲の隣に座る荒木は実に楽しげだ。スポーツが得意な人々は他スポーツも喜び勇んで観戦しメンタル面で大いに触発される例も多いが元来闘争に血沸き肉躍る体質なのかもしれない、運動不得意勢とはもはや遺伝子が違う気がする。

 日曜日午前十一時。白洲の許可を得た私はダンス発表会のリハーサルを参観している。地域の文化会館の小ホールを借りての発表会で、大会や選手権のような本格的な発表というより身内のためのお披露目会の色が強い。開演は午後一時からとチラシ及び文化会館HPに書かれていた。親だけだと緊張感に欠くので地域住民を観客に入れる想定なのだろう。午前中のリハーサルは保護者等招待者だけが同席を許可されている。

 全グループ一周して分かったのが、ダンスの種類が所謂ストリートダンスということで、もっと内省的で繊細微妙な踊りならまだしも相当の身体能力を要し白熱電球にボルトを注ぎ込むように気持ちを外に発散させるストリートダンスに陰性植物者はあまりに相性が悪い、ツキノワグマに徒手空拳、トランプ遊び『大富豪』で十以下のカードのみを手札に戦う酔狂だ、革命を起こして条理を覆さない限り勝利し得ないが十以下のカードではどう工夫しても競り負けて自分で革命を起こすチャンスは一生巡って来ない。勝つチャンスが与えられているようで実は絶望しか待っていない景品表示法違反の夏祭りの屋台のくじ引きの欺瞞だ。白洲の両親はバレエのような楚々とした種目にせず敢えてラジカルなストリートダンスに白洲妹をぶっ込んだのだろうけれど千尋でなく万尋の谷から突き落としたらそりゃあ子獅子も死んでしまうわよと私は脚を組む。白洲の切迫も理解できた。両親は午後から発表を見に来るのだと言う。理念は分かるがやり方が間違っていると一言言ってやりたい。現世年齢でも歳下な上に現状高校一年生の面構えで言えるわけもないが。

「はい! グループB! アキちゃん、舞台のどこに自分が立ってるのかきちんと把握してダンスすること! はい集中!」

 コーチに檄を飛ばされ、少し入れ込んでいる様子の子がアキちゃんなのだろう、音楽と共に踊り始めたが、果たして、ターンするうちに位置を見失いやや左にズレて踊る。他の子が完璧な分、間違いが浮き上がって見えてしまう。アドバイス一つで修正されるほどスポーツは甘くない。

「お昼ご飯を一緒に食べて、食べ終えて午後一時になるまで練習、でいいの?」私は白洲に尋ねる。

「ええ」思い詰めた白洲の表情。声が小さいのはダンスを邪魔しないためだけではない。「何ともならないかしら?」その言葉が、既に負けを内包している。

 虚しい励ましをするのも躊躇われた。「アキちゃんって、妹さんと仲良かったりする?」違う話を振った。

「妹は……」切れ長の目が細くなってまるで刃だ。「分からないわ。ただでさえ喋らないのに、あの子、ダンス教室のことは余計に寡黙で」ズレているアキちゃんをじっと見つめている。「いくつか占いを試してみたけれど、そうね、率直に言って、対人関係は上手くいっていないようね。アキちゃんとはただの仲間で、個別に励まし合う仲にはないと思うわ」

 正しさが大手を振って歩いていると、その道を極められず正しさから弾かれた人々が繋がる傾向にあるが、ズレている者同士をくっつけて解決とはいかなさそうだ。「ズレててもアキちゃんみたいに心の底から楽しんで踊れれば」それで本当に何とかなるのだろうか。尻すぼみに終わった居心地の悪さに私は脚を組み変えた。

「ズレてんのアキちゃんだけじゃなくね?」何に対してか分からないが頻りに頷いていた荒木がこちらに振り返る。魚がひょいっと進行方向を変えるように、突然に。全く予期していなかったので「え?」と私は訊き返してしまった。

「だから」察しが悪いなと言いたげな荒木。「アキちゃんってあれだろ? 左にズレてる子。ターンで場所見失ったパターンだな。その右手前の子は、下半身にばっか気が行ってっから腕の動きが全然、伸びてない。あの左端の子も同じ、下半身にばっか意識が行って上半身は流れでやってる。右奥の子は、全体に動きが半拍遅れてる」完璧に踊れてんのは真ん中の子だけじゃね?と、また視線を舞台に戻す。

 私も視線を舞台に戻し、言及された子を観察する。本当だ、言われてみればそうだ。振り返ると白洲と顔が合った。互いに驚きに眼を開いている。私たちでは見過ごしてしまう細部を、荒木の目は捉えている。スポーツ少女の才の片鱗。

「荒木さんって」感嘆に思わず声を掛けずにいられなかった。「脳筋キャラだと思ってたけど、実はできる子だったのね」

「誰が脳筋だよ」荒木に睨まれてしまった。「ふん、花咲はよっぽど勉強ができるみたいだけど、こっちのほうは節穴みたいだな」ついでで侮られてしまった。

「凄いわ荒木さん!」白洲が座席に正しく嵌まっていた上体を荒木に向けて競り出す。「私ではまるで見抜けなかったわ。素晴らしいわ」

「い! いやあ、あはは」荒木は上体を引いて手で防壁を作り、慌てている「のはパーソナルスペースを侵犯されて赤面しているからですわ。俗に言う『近い』というやつね。ふふふ、荒木さんは強気受けで白洲さんが無自覚攻めなのね。そ・れ・と・も、どうして欲しいのか言いなっさい系のドS攻めなのかしら、ヤだわっ!」と喜悦する私に白洲は何の話か全く分からないと言うように振り返り、荒木も後半の意味が分からないというように私を見る。攻め受けの基礎教育を履修していない者が私の言っている意味を解するのは難しいだろう、これは衆人環視の下アイスの蓋の裏を舌で舐めるような百合的公然猥褻だが彼女たちがその意味を知るのはまた後の話。

 と頭の中でナレーションしてぺろりと舌を口内に仕舞い、「それで」と、早くも口調が重苦しくなっている。でも、遅かれ早かれ明らかにしなければならない。「よっぽどスポーツのできる天才少女荒木さんから見て、妹さんの演舞はどうだったの?」

 白洲が荒木に顔を振り向け、コンマ一秒遅れで美しい黒髪が翻る。荒木はうーんと正負どちらにも傾かない声を出し、「いくつか、修正すべき点は見えてるよ。踊りは良くなると思う」と言う。後頭部しか見えないが白洲は今、希望を見た。が、荒木は「ただ」と負の前置きを白洲と私に示す。「根本的な問題として、妹さんの、色って言うのかな、楽しいです、とか、解放感とか、そういう感情が見えなくて。ただ言われたことをこなしてるだけっていうか、なんとかこなそうと頑張ってるだけっていうか」

「型をなぞるだけで魂が籠ってない、ってこと?」ざっくりまとめると、そうだな、それかな、と荒木は頷き、「型は教えられる。でもそこに気持ちが込められないと、それはただ指示通り動いてるだけで表現じゃない」と、強く言い切ったのはスポーツを嗜む人間の厳しさだ、その壁を越えられない限りそのダンスは評価されない。ダンス未満。

 白洲の落胆が俯きに表れる。「因みに」と私は間髪入れず訊く。「午後一時までに仕上がりそう?」

「あたしが躍るわけじゃないから、それは何とも言えない」顔を顰めて荒木は、安心のための虚言より現実的回答を選び取った。

「因みに」私は西部劇の有能ガンマンのように早撃ちする。「他に気持ちの乗ってない子っている?」

「乗り切れてない子もいるけど」荒木は渋面。「ダンスは相対評価じゃないだろ? その質問に意味はあんのかよ?」

 誤射。私は荒木に聞こえるように舌打ちして「荒木の癖に正論言いやがって」と毒づいた。当然荒木は「あぁ?」と食いつき、「落ち着いて、二人共」と挟まれた白洲が場を納めに出て来ざるを得ない。彼女は妹について評論せざるを得ない。

「妹の表現下手は筋金入りで、両親にさえ、私にさえ自分の気持ちを表すことが上手くできないでいるのよ。普段からできていないものが、より未熟なダンスで表せるとは、到底思えないわ。できないという精一杯の発信が、あの辛そうな踊りなのではなくて?」

 とにかく苦しい。白洲妹の踊りから唯一伝わるメッセージ。やはり、だめなのよ、と白洲が呟いた。

 最優先課題は失敗に妹が落ち込んで勇気を失くさないことだが、事の根本には白洲妹が自己表現できるように変えなければならないという問題がある。事前の予測通りだ。予測通りだが、ではダンスを通して、若しくはダンスの失敗を通してどう蛹を蝶へと羽ばたかせるのかがまるで見えない。初まりと終わりだけ提示された公式みたいで、門外漢には中間式が展開できない。何がどうなったらbeforeがafterにたどり着くのかてんで分からない。荒木も、何とも言えないと答えたからには妙案は持ち合わせていないだろう。

 コーチが号令をかけ、舞台からグループBが去り、グループCが働き蜂の忙しさで配置に着く。

「白洲さん」グループEの出番前に既にストレスから無意識に手指を弄る白洲に声を掛ける。「因みに、妹さんのダンス発表会が成功するか否かはもう占ったの?」

「いいえ」即答する。「そうね、昼に占ってみましょうか」手指が強く組み合わさって、白い指が再び朱に染まった。荒木はそれに気づけているだろうか。

 私は組んだ脚を意識して解き、無意識に組み直さないよう意識して舞台を見つめるふりをしつつ計算をしながら事が動く昼を待った。


 午後十二時少し前にコーチがリハーサルの手応えに頷き、発表時間の十五分前には戻るよう告げて解散を宣言した。統制の手綱を放された子供たちががやがやと楽しげに笑いさざめく中舞台付設の階段を降りた白洲妹が姉の元に歩いてきて、止まった。「ミミ、来なさい」と姉が声を掛けるが固まったままだ。

 朝集合した時点で白洲妹は舞台に上がっていた、だからこれが私と荒木との初顔合わせになる。リハーサル中に客席を見れば姉の横に二人余分な他人が座っていると気づくはずだがダンスに必死すぎてその余裕はなかったと見える。小学三年生の時見上げた高校生は大人と同じだった記憶があるので無理もないかと思う反面、初対面とはいえ小学三年生にしては人見知りしすぎだと断じてしまいたくなる面もある。「ミミちゃん」私が声を掛けると、じっと私を見つめる。「私は花咲百合子、お姉さんのお友達だよ。で、この人は荒木月さん、月って書いて『るな』って読むんだよー、面白いでしょー」和む方向に話を振ったがくすりともしないで穴が開くほどにこちらを見つめている。「花咲」と小声で咎めた荒木は本来ならば私を拳で一撃しているだろうが白洲妹の前での示威行動は控えた。白洲妹が怯えるし第一印象は大切にしたいからだろう。「ああ、ミミちゃん。ミミさん。えー、ミミちゃん」荒木の中で義妹候補との関係性が畏まらない仲に定まった。「あたしのことは月お姉ちゃんって呼んでいいよぉ」猫撫で声で売り込みを掛けている。私はだめで白洲妹はOKなのかよ、と、今まで築き上げた人間関係に一ミリほどの小さく大きな亀裂が入る音がした。距離を置いて私たちを見つめる妹に焦れた白洲は「一緒に外でお昼を食べましょう」と微笑みかけてその小さな手を取る。初めて妹が安心した顔を見せた。私と荒木は距離を取って後を追った。振り返ると舞台ではまだ少女たちが語らい合い、昼食に移る気配がなかった。

 文化会館の外に芝生の広場があり、白洲は私たちゲストの分も含めた四人分の豪華弁当を芝上に広げた極彩色ビニールシートの上に展開する。中身から父の製薬会社がどのくらいの資本規模なのかが凡そ読み取れる。伊勢海老の頭入りなのは見栄の面が強い、両親の対外的姿勢の象徴のように思われる。そのおもてなし弁当のデザートに当たる高級カットりんごに、妹がいただきますの後真っ先に箸を伸ばした。しょりしょり食べているが特段嬉しそうでもない。「りんご、美味しい?」と訊くとこちらに顔を向け、三秒ほど見つめるとまた顔を下げてしまった。「ミミは果物全般が好きなのよね?」白洲が声を掛けるが返事をせず俯いている。「ミミは果物全般が好きなのよ」と白洲は言い直した。「白洲さんは何のフルーツが好き?」と荒木が問い、話が主題から逸れていく。

 白洲は背負い込みすぎている、と思った。両親は為せば成るの強硬論、一方の妹は殻に閉じこもって出てこようとしない。結果、白洲が妹の手を引っ張り、代弁者と引率者をこなすことで本来妹が処理すべき課題を肩代わりし、家庭を上手く回している。極自然に見える家族の調和も白洲という調整弁を取り除いてしまうと、妹になぜできないの叱責が集中し、まずは妹の心が挫け、そこから一向に自立歩行を始めない次女の精神性を育んだのは誰か、という、犯人捜しが始まる。その先には父と母の見るに堪えない言い争いが待っているだろう、伊勢海老が死んだ眼球でそう語っている。白洲は白洲家のバランサーとして自身が意識しているより酷な綱渡りを任されている。

 その苦役から脱出するには。妹が性格改造されるか、両親が根性主義を改めるか。その抜本的解決への足がかりを、私たちは今日提供すべきだ。しなければならない。白洲を苦に留めるのか楽へ導くのかは全て私たちの双肩にかかっている。

「ミミちゃんは、魚が好き? それとも肉のほうが好きぃ?」荒木が鳥肌の立つような媚びた声で尋ね、白洲妹は予想通り言葉を発さず、白洲が「ミミはどちらも好きだけれど、鶏肉の皮は苦手よ」と代わりに答える。

 自分が相手の何を好きになったのか。魅力を整理することで、相手に何を期待しているのか、自分が相手にどう接したいかが見えてくるわ。恋なんて、いつから好きになったか明示できないことのほうが多いけれど、何かしら好意に結び付く印象的なエピソードがあるはずよ。

 お姉さまが語った正攻法その三。荒木が白洲を好きな理由。相手のどこに惹かれたのか。ずっと聞きそびれていた話を金曜の内に荒木に訊いた。

 荒木は三年の春に行われた調理実習のエピソードを語った。白洲の班はご飯を炊くのに失敗、水加減を担当したリーダー格の海老原が責任転嫁で白洲をやり玉に上げ、逆らえないので班員も彼女を非難した。白洲は申し開きに意味がないと悟るとカチカチに炊き上がったご飯をリゾットに調理し直し、へそを曲げた海老原の無言の圧力で他班員が調理を手伝わない中一人てきぱき動いて全品ほぼ独力で作り上げてしまった。「他の班は料理を終えて食べてる段階で、あたしも上手に炊けたご飯を摘まみながら、それを遠巻きに見るともなく見てたわけだけどさ」荒木は暗い顔で語った。「あたしは、海老原かっこ悪って笑ってた。そっちに意識が行ってたんだ。でも、夏の部内選考で非難があたしに集中した時に、そしてヤンキーの世評が坂を転がるボールみたいに止まらなくなった時に、集団から一人切り離される辛さを身をもって知って初めて、白洲さんの孤独と強さが分かったんだよ。あたしは、挫折したっつーの? 背を向けることを選んだ。でも、白洲さんは向き合って、全部受け止めた上でこなしてみせたんだって理解した時、なんかすげえなって。その時、何を思ってたんだろう、助けてって言いたくならなかったのかなって。あと、なんであたしは助けに入ってあげなかったんだろうって、今更だってのに後悔したよ。海老原かっこ悪、じゃねえだろあたし、白洲さんのせいにしてんじゃねえ、だろ、って。そういうことを考えてるうちに、なんか、白洲さんを意識するようになっちゃって」

 荒木が見た白洲の強さは、脆さと裏腹だ。白洲は他人を頼らない。誰かが助けに入るのを待たない。たぶん、全部自分で何とかしなくてはいけないと思っている。その潔癖さは崇高だがいつか自重に潰れる。妹問題に関してもそうだった、そして事が切迫する中立ち現れた荒木というカードに、ついに縋った。個人技ではどうにもできないどん詰まりに陥ったところで、ようやく荒木の袖を掴んだ。ここで私たちが期待に応えられれば、白洲は他人を頼ることを覚える。それは人間的成長に繋がり、彼女の人生をより豊かにし、より生きやすくする。打算を言えば成功の暁には間違いなく白洲のデレが待っている。荒木は白洲の孤独と強さに惚れ、でもあの時庇護できなかった自分を悔やんだ。なら、助けを求められた今こそ、見過ごした好きの原点をやり直すチャンスだ。

 勝つ以外にない。でも、ダンス自体は絶対に失敗する。

「花咲」荒木の茶化すような声が春に蝶々がひらりと視界に映り込むように意識を横切る。「お前さっきから全然食ってねえじゃん。腹痛えのか」けらけら。

「……荒木さん」花見にでも来たようなはしゃぎっぷりに、私は一度目を閉じて不満憤懣を抑え込み、寝技で締め落としてからもう一度口を開く。「荒木さんは、もうどうにかなる未来が見えてるの?」詰問。まだ怒りが残っていた。

「花咲ぃ」笑顔で荒木が言う。「んなしかめ面して食ってたら飯が不味くなるだろ。ほら伊勢海老食えよ、マジうめえから」

「別に、伊勢海老一つで欣喜雀躍する野良猫みたいな夢のない生活送ってきたわけじゃないんだけどね」言いながら摘まんだ身は存外美味しくて、おお、という感激が口から洩れてしまった。私が社会人時代に接待で食べたのは伊勢海老を尊称する偽海老でしかなかったということなのか。

「花咲お姉ちゃんも美味しいってさ。ミミちゃんも食べてみなよ」荒木が気色の悪い猫撫で声で伊勢海老のゴツゴツした頭を突っつく。白洲妹は荒木に目を向け、続いて私を見た。その瞬間に荒木から鋭い視線が飛んで来て怯んでしまったが意味は了解した。怖い顔すると怖がるだろと言っているのだ。「美味しいよぉ」と私は老爺老婆が浮かべる恵比須顔で言った。もう一度荒木に振り返り、白洲妹はようやく伊勢海老を箸で突いた。「食べやすいように私が身を取ろうかしら?」と助け舟を出す姉を無視して身を拾い上げて口に運ぶ。全員が注視する中白洲妹は伊勢海老を咀嚼して呑み下して、ほんの微かに微笑んだ、ようにも見えた。「美味しかったようね」と白洲が通訳した。私と荒木は笑みを交換した。

 荒木は自身も妹だからか歳下が歳上に求める理想的振る舞いを心得ている様子で、白洲妹が食指を伸ばさないであろう煮物等地味な料理も言葉巧みに食べさせた。餌付けとはよく言ったもので白洲妹と荒木の心の距離が少しずつ詰まっていく。目を向ける回数から妹の中で荒木がまるで他人から少しは気の許せる人に昇格したことが窺えた。

「はあ、美味しかった」荒木が箸を置いてから両腕を伸ばす。腕を下げて、「ごちそうさまでした」と言う。白洲妹を除いて皆がごちそうさまを言う。「あー」と荒木。「も、もしかして」視線を右上に作為的に上げて、頬を指で掻き、「えー」と自分で作った間の処理に困りながら、「これって、その、白洲さんが作ったのかな?」ときょどきょどしながら訊いた。「いいえ、家の料理人が作ってくれたのよ」と白洲が答えると目に見えて落胆。手作りを期待したのだろう。より正確には自分のために朝早く起床して丹精込めてこさえてくれたのではあるまいかと幻想したのだろう。齢十五の一女子高生がこの豪華弁当を作れるか想像すれば答えは自ずと分かるはずだがやはり期待してしまうわよねうふふと上品に笑っていると白洲が「ミミ」と呼びかけ振り向いた顔の口元をハンカチで拭う。ただ拭かれるままの、妹の無垢な視線。愛おしげに見つめ返す姉。「ぎゃっ!」叫んで私は急いで視線を外した。芝と道の境に花が植えられ、その上を蝶々が優雅に舞って放送事故を起こしたテレビが流すと聞く「しばらくお待ちください」によく似た景が見える。百合神様の作り上げた百合の園は全方位網羅しているからどこかで出会うとは思っていたけれど、まさか、満腹に緩んだ隙におねロリなんて。取り乱してはだめよ百合子、姉と妹として見るのよ、おねロリ目線で見てはだめ! 嗚呼、でも、姉の包容力とロリの純真。美しい。セピア調でないラブ&ピースの生きた標本が、ここにあるのよ……。

 お花畑から視線を戻すと「お前、何言ってんだ?」と荒木に訊かれる。脳内述懐が口から漏れていると知っていた私は「美味しかったねってこと!」とダブルミーニングで返し、手首を返して腕時計を確認し、「時間もないし、そろそろ始めましょう」と告げる。頷いて、白洲は展開した弁当の重箱を片付け、荒木は立ち上がった。当事者の妹だけが、何が始まるのか分からず姉と荒木を交互に見ている。大袈裟に言えば四人の一蓮托生、伸るか反るかの大博打だ。私は口を真一文字に引き締めた。

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