第1章 ヤンキー百合 9

 部屋に戻ると先に帰っていた千恵が「ちょっと百合子!」怒髪天を衝く鬼の形相で出迎えた。私は「ちょっと待って」と手をかざして待機させ自分の机まで歩き鞄を丁寧に机に置いてから悠揚迫らぬ態度で応対するのは彼女の怒りの在り処が既知だから。

「はい、何かな?」

「何かな、じゃないわよ! 百合子あなたよくこんな惨い仕打ちができるわね! 悪魔ですらそんな所業しないわよ!」目を剥いて頭突きしてきそうな勢いだ。

「こんな仕打ちでそんな所業ってどんな内容?」私は既に説諭モードに入っている。

「あなた、私が荒木月をヤンキーって呼んでること、お姉さまに告げ口したでしょ!」

 昨日、お姉さまとの面談の、結論が出た後のおまけとして荒木月をレジェンドヤンキー呼ばわりしているレジェンド平民を御指導くださいと依頼した件が、朝は文句を言わなかったので私が部活を終えて帰るまでに履行されたのだろう。

「うん、言った」私は正面から応える。「荒木さんはヤンキーじゃないし、たとえヤンキーだったとしてもちーちゃんの態度は良くないと思ったから」

「それは!」千恵は言葉に詰まった。が、敵意はまだ挫けていない。「そんなこと言ったら、キボジョの生徒全員を指導しなきゃいけないんじゃないの?!」

「……うん」思わぬ返しに私も渋面になってしまう。「まあ、それは全くもってその通りで、正論で、抗弁しようもないけれど」ふんぞり返る千恵を説得する言葉を探し、違う、理解して欲しいのだと思い直す。「ちーちゃんだって、平民としてこの学校で苦労した、有体に言えば差別された経験を持ってるでしょう? それを思えば、どう荒木さんと接するべきか、分かるでしょう?」

 千恵も渋面を見せる。私に説教されなくても十分に承知している、というように。

「怒ってるのは、指導の内容じゃないんだよね」私は千恵を代弁する。「ちーちゃんは反省してる。自分が良くなかったって、分かってる。けど、よりにもよってお姉さまに指導させたのが承服しかねる。そう思うのは分かってた」

 千恵の渋面が消沈へ移ろう。怒りが雨だれのように流れ落ちて彼女は濾過されていく。

「私がお姉さまを好きなの、百合子は知ってるのに、なんでお姉さまに指導させるかな。私の嫌な面、知られたくなかった」クリアになった先に、少しだけのべそ。

「うん。貴代子様から言ってもらおうかとも思ったんだけど」監督生だから。好きな人だからこそ。それらしい理由はいくらでも引っ張って来れるが。「でも、どうあってもお姉さまから言ってもらわなきゃならないと思ったから、依頼した」何気ない学びじゃなく、生きた体験にするために、と言えばいいのかな。

 私の説明に千恵はふいっと背を向けてしまい、「分かるけど、まだ納得できない」と言う。夕食の時間までもうそんなに時間がない。あまり意味はないが、「一人になりたい?」と訊く。千恵はベッドに寝転がり、少しいじける、と背中越しに言った。「分かった」と応え、私は部屋を出てロビーで時間を潰した。

 夕食時、千恵の前にお姉さまが着席して適度に話しかけていた。千恵の行動を注意したのであって千恵自身を否定したわけではないという意味を、千恵も読み取っただろう。トラブル?と向かいに座る貴代子様に訊かれて、私は、ええ、まあ、と曖昧に答える。そっか、と貴代子様は視線を下げて掴んだパンを千切る。口に入れ、咀嚼して喉に落とし込んでからその動作と同じくらいに自然な流れで、事は順調に運んでいるのかな?と訊く。うーん、ぼちぼちですかね、と答えると、そっか、と言う。「事」への貴代子様の態度、お姉さまに相談する度に部屋から追い出してしまう申し訳なさ、私を見る目、訊きたいことは山ほどあるが素っ気ない返しに会話が続かない。そもそもこの場でその話は切り込めない。少なくとも妨害する気はないのだから、と自分に言い聞かせるものの落ち着かず私は特別欲してもいない水を何度か喉に流し込んだ。貴代子様と私の間にできた微妙な間合いを近くに座ったささめがちらちらと盗み見ていた。

 食事後、お風呂入る、と言って千恵は部屋を出た。誘われなかったので私は部屋に残った。千恵が部屋に戻って来てから共同浴場へ向かうのが正しい選択だがあの様子だと入浴後他の部屋に流れて気分転換する可能性もある、ある程度経っても部屋に戻らないならば適当なタイミングで私も入浴に向かおう、でなければ入りそびれてしまう。

 さてはて、と呟いて、私はスマホを取り出す。用件を済ましておこう。荒木に掛けると数コールで出た。

「おい花咲ぃ!」怒っているような、慌てふためいているような声。「お前なんであたし置いて帰っちゃうんだよ! 滅茶苦茶気まずかっただろが!」

「電話を受けたんならまずは挨拶しなよ」

「んあぁぁ?!」盛大にがなる。二度破綻しているのにまだヤンキーキャラを貫く所存のようだ。「お前、あたしがあの後どんだけ大変だったか想像してみろやコラ! し、白洲さんと、白洲さんと同じ部屋に二人っきりなんて……あぁぁぁぁぁぁ」悶絶し始めた。

「ちゃんと会話できた? ずっとだんまりだったわけじゃないでしょ?」学習机に座って両肘をつく。

「あぁぁぁ、それは、あぁぁぁ」何をどうしているのか、硬い物に硬い物がぶつかるような音が聞こえてくる。

 私は彼女が落ち着くまで待ち、聞きに徹して話を引き出した。五分を超えた長い沈黙、やらなくていいと止められたのに勝手に始めた清掃と備品の配置換え、その共同作業を通り越してようやく訪れた打ち解けの一歩目。一緒に下校しながら白洲が饒舌に語った霊魂の電気的位相の話。

「なんか、プラズマでラムダがどうので、あたしの頭じゃ全然分かんなかったんだけど、いるにはいるらしくって、霊は。地縛霊とか背後霊とか。あ、あたしの背後霊も花咲の背後霊も見たけど悪いヴァイブレーションを放ってたわけじゃないって。私たちが悪意を持って近づいたわけじゃないって判断した理由の一つだってさ」いやあ、背後霊さまさまだな。

 私は頭からまるで砂時計の砂が滑り落ちていくように血の気が降りていくのを感じた。荒木を助手として推挙した時に凝視されたが、あの時見ていたのはもしかして……?

「悪いヴァイブレーションを放ってなかったってどういう意味?」

「え?」荒木は暢気そうな声で言う。「いろいろ教えてくれたけど、難しくてあたしにゃ分かんなかったわ」

「いや、頗る重要な話でしょ! あなたそんなので白洲さんを分かったつもりになれるわけ!」

「お、おぅ?」困惑した声。「あ、あんだよいきなり怒鳴るなよな。あたしだって不出来な脳味噌を必死に稼働させたけど学問の話は全然分かんねんだよ。とにかく悪いのが憑いてるわけじゃないって結論は理解できた!」怒って言い返す。

「……そっかぁ」息を漏らすと肩が軽くなった気がした。今度直接聞いてみよう。

「それで」荒木がまだ怒気のこびりついた声で、問う。「この電話は何なんだよ? そっちから掛けてきた割には妙に辛気臭え声出すかと思えば急に怒鳴り出すし。何かあったのか?」言いながら本気で心配になったようだった。

「まあ、気遣いだけ戴いて」ちゃんと会話できたことは確認できたので次の項に進む。「盲点というか、私はあなたのことを知らなすぎたって気づいたのよ白洲さんの話を伺いながら。私は荒木月の物語に切り込む必要を感じて、電話したの」

 滑らかに喋っていた荒木の親和的態度が彼女の名を口にしただけで少し遠のく。それを感じて私は予定になかった質問を先に出す。

「荒木月、るなって名前を呼ばれると怒る理由は何? 深い理由があるの?」

 ふん、と鳴らした鼻を音響が拾う。「それはあたしのヤンキー化に一役買ったからだ。ってか月だぞ、親は何考えてんだって話だよ」

「お父さんお母さんとは仲良くやってる? 姉とも」

「別に、仲悪いわけじゃねえよ。普通の家族と同じようなもんだろ」

「名前の由来を聞いたことは?」

「あるよ。そりゃあるに決まってるだろ」言葉遣いは荒いが感情は荒れていない。「他人と同じ名前は嫌だって、それで、アレだ、荒城の月? 城って『き』とも読むだろ? そういうノリで付けたってお父さんが言ってた」

「なるほど」たぶん、周りがいろいろ言うから私おかしいのかなと思い始めたパターンだ。「じゃあ」私は両肘を机から離して上体を起こす。「水泳部の先輩に悪く言われた、とかではないってこと?」

 荒木は無言で嫌悪を示した。それから疑いを含んだ声で訊く。「どこまで知ってんの?」

 私は広報部で仕入れた凡その知識を披歴した。荒木は口を挟まなかった、つまり三年の夏に部活の先輩と揉めて実質部を辞めてヤンキー化、という情報は署名を欠くものの適当な仕事が生んだ虚構ではないと知れる。

「不躾を承知で訊くけど」荒木が顔を歪める様を思い浮かべる。「水泳部の誰とどんな内容でもめたか教えて欲しい」

「……それってあたしが白洲さんに近づく上で何か意味のある質問なのか?」

 答えたくない、ということ。「そうだね」台本通り一度溜めを作る。「白洲さんは荒木さんの第一印象をスポーツ少女と語った。水泳部と言ったわけじゃないから厳密には関係ないかもしれない」じゃあと言う荒木に「けど」を突きつける。「毎度毎度水泳部を辞めた負い目を表されると白洲さんはあなたに遠慮してスポーツ少女の側面を持ち出さなくなると思う。荒木さんの長所は運動が得意なことでそれは白洲さんの弱点を補える、だから、荒木さんが白洲さんに接近して尚且つ役に立ちたいなら運動が得意っていう特権を手放すべきじゃない。水泳部の話が出ても不動の精神でいられるよう、心の中で一区切りをつけなきゃならない」

 荒木は何も言わない。電話越しでは何も見えない。

「訊いたのにはもう一つ理由がある」荒木がスマホを手放した可能性が頭を過ぎる。「余計なお世話だと思うけど、スポーツ少女で、泳ぎも速かったらしい、そして褪色してる髪は長年水泳に打ち込んできた証でもある。ある程度見込みのある子なんだと思う。それを、人間関係のごたごたで手放すのは、不本意なんじゃないかなって。実質辞めたっていうのは、退部届を提出済みってこと? もしまだなら、もう一度水泳部に戻る機会を私が作れるかもしれない。そのためにも何がどうなって今に至ったのか、教えて欲しい」

 全くの音の空白という不安。通話を切られていないか画面を確認すると一応繋がりは断たれていないらしい。前屈みになっている。スマホを押し付けたつもりはないのに耳が圧されて痛い。

「分かった。教えるよ」待望の声がして私はまた背を伸ばした。「三年の夏、七月な、夏の大会に向けて選手の選考があったんだけど、区切りが中学生だから一、二、三年生の中から代表が選ばれるわけだけど、水泳っつっても種目いろいろあるだろ? バタフライとか背泳ぎとか平泳ぎとか。普通、一人一種目で、泳ぎの得意な奴は自由形にも出場できる。そのルールは知ってたけどさ、あたしは全種目にエントリーしたわけ。そこで一部の先輩が、二兎も三兎も追っちゃだめだってあたしを批判したんだ。でも、二年の時も同じく全種目エントリーしてたのに何で今更?って思った。あたしは大会の出場権そのものより純粋に自分の力を試したかった、だから全種目出ることにした、六年の瑞原部長に最終確認を受けてもあたしは全部出るって言った。で」やるせないため息。「あたしは全種目泳いで、全種目で一着を取った。正直、よっしゃって思った。けど瑞原部長が全部終わったところで集合掛けたわけ。あたしにどんな気分か訊くから、全部勝てて嬉しいですって答えた。それ聞いた瞬間先輩ほぼ全員が睨んできて。あたしは意味が分かんなかった。米山先輩が先陣切って、一人で全種目泳いだら体力的に持たないから出る種目を絞れって言うから、でも、全種目泳いで疲れたけど全部勝ちましたよって、言い返すつもりじゃなく普通に言ったら余計に反感買って。そこで瑞原部長が場を引き締めるみたいに言ったんだ。荒木の言ったことは正論かもしれない、速い子が勝つっていう観点では。けど。大会は学校として出るのであって荒木月個人が出場するんじゃない、他の子も大会に出場するために練習してきたのに荒木に全部を独占させるわけにはいかないって。それは、理解できなくもなかった」少し声が弱くなる。「強さは絶対だけど、スポーツマンシップを欠いたらそれは歪んでしまっているって瑞原部長が。出場種目は自由形と他どれか一つに絞って欲しいって言われた。全部に納得したわけじゃないけど、学校で出るっていう理屈は分からなくはないと思って自由形と他一つに絞るって約束した。ところがさ」抑揚の振れ幅が大きくなる。「そこで先輩らが文句を言い始めたわけよ、他種目は二着だった子、つまり荒木さんに負けた子が出場しなきゃいけない、その惨めさをどう思うのって。自分は学校を代表してる選手じゃないのに出場しちゃう後ろめたさ。本当は荒木さんのほうが速いのに。自分は負けたのに。屈辱じゃない?って言うわけ。それは、あるだろうけどそこまであたしが気を遣わなきゃいけないことなのって、そこであたしを責めるのかって思った。知らないよ、じゃあ手ぇ抜いて泳げば良かったのかよ、って、ムカッと来て。あたしは実力を試したかっただけで、って言ったら、そんなの余計に可哀想じゃない、とか、初めから種目を限定せずに泳いだのが良くなかったのよ、とか、非難が膨らんでって、最終的に全種目エントリーを認めた瑞原部長も悪いみたいな話になってきて、で、あたしは完全にキレた。負けるほうが悪いんじゃないですか!って怒鳴って、全ての罵声を無視してさっさと着替えて帰った。そこからはグダグダ。部は雰囲気最悪で、先輩らはひそひそ話。よく来れるわねとか大会でけちょんけちょんに負ければいいのよとか。指導を名目に先輩の泳ぎ方とか考え方とかを押し付けられそうになった時は嫌なものは嫌ですって言い返した。で、言い合いになって余計に雰囲気が悪くなる。そういうの、心底面倒臭いと思って、大会で勝負したい未練はあったけどもういいやって、自然と部に行かなくなった。顧問と瑞原部長が引き留めに来たけどそれも断った。夏の大会は、確かバタフライだけ一着で、他はぱっとしなかったって顧問に言われて、それで戻ってくる気はないかって訊かれたけど即断った。それからはほったらかし。退部届は出してない」

 以上が水泳部絡みの荒木月の物語。「面白くもない話を長々としちまったな」

 なるほど、と私は受けた。部長の言うことも分かるし、荒木の言い分も筋が通っている。先輩らの理屈も理解できないわけではない。負けるほうが悪いんじゃないですか、は最悪の言い方だがスポーツの世界は強さが正しさという厳しさがある、いろいろ言い換えたところで負けるほうが悪いという理は覆せない。だから私はスポーツがあまり好きではない。その割にビルボード・トップ・ワンハンドレッドは好きだったりするが。

「話してくれてありがとう。流れは凡そ把握した」私は引き取って一息ついた。荒木も弛緩したかもしれない。指揮者が手を下ろして生じる楽章と楽章の合間の緩みが私に染みるがだが拍手とブラーボにはまだ早い、詰めるべき質問は残っている。「因みに、二年の時も全種目エントリーしてたって言ったけど、その時に似たような問題は起きなかったの?」

「さっき言ったような気もするけど、二年の時は文句言われなかった」

「その時の成績は?」

 あん?と意味が取れないと示す感嘆詞。「背泳ぎで一着、他は二着か三着だった気がする。夏の大会は背泳ぎと自由形と、あとメドレーリレーにも出た」

 二年の時点で泳ぎは速かった。陰口はあったろうが表面化しなかった。泳ぎの速い上級生は勝つ自信があったし、部としては彼女の才能を取り込んだほうが有益と見たのだろう。だが荒木に勝った上級生が抜けた三年の夏、どの種目も荒木が一着になる未来は見えていた、だから泳ぐ前から一部の先輩が独占を懸念して荒木の全種目エントリーに反対した。もしかするとお気に入りの後輩が大会に出場できない可能性も見越して。「百合の功罪ね……」私は片肘を机について額に手を添えた。「水泳部の同級生と交流はないの?」尋ねた。「ねえよ」と荒木は素っ気ない。先輩に真っ向反駁する姿を見て、同級生たちは先輩に睨まれないよう荒木との交流を打ち切ったか、米山先輩が発起人臭いがそれ以外の先輩も加担したであろうヤンキーの噂の流布により荒木を敬遠するようになったか。そして現在に至る。

「でも、それだけ水泳の才能に恵まれてるなら、燻ぶってる場合じゃないっていうか、なるべく早く水泳部に戻る段取りをつけたほうが――」

「花咲」

「うん?」

「お前」ヤンキー演技でドスを利かせたわけでない分、重みのある声。「うぜえよ、正直」

「え?」目の前で皿を叩き割られたような、唐突過ぎる破調の、なぜが分からない。

 荒木は早口にも切れ切れにもならず等速直線運動の整然で喋る。「花咲。確かにあたしはお前に白洲さんとの仲を取り持ってくれって助けを求めた。でも、助けを求めたのはそこだけで、あたしの人生を弄ることを許可した覚えはさらさらねえから。水泳部に戻る戻らないはあたしが決める問題で花咲の出番じゃねえだろ。白洲さんの前では出来る限り昔の話に嫌悪感は出さない、その指示には従う。けど、他のことまで意見を押し付けようとすんな」

 夏の昼の日射を遮蔽物なしに浴びるような、じりじりとした気迫を感じて私は何も言えなかった。何か他に訊くことあんのか、と訊かれる。お姉さまの語った正攻法その三、好きの在り処。荒木がなぜ白洲を好きなのか、彼女を好きになったエピソードを訊くつもりだったがどう考えてもそれを切り出す雰囲気ではない。けれど早めに聞き出したほうが今後の予定を組み立てやすい、けれど今はだめだ、ならいつ?と考えを巡らせるうちに、話が終わったんなら、じゃあな、と荒木が通話を切った。真っ直ぐ前を向いた私は、目に映る学習机に並ぶ教科書の背表紙に、遅れてそれが教科書の背表紙だと認識が追い付いた。部屋に音がない分、荒木の残した、じゃあな、のざらついた感触が耳に生々しい。千恵はまだ戻って来ない。良かったような、新たな声が欲しいような。

 私はスマホを机に置いて頭を抱えた。「あぁ」と小さく息が漏れる。軽率。経験に裏付けられた歳上の自信から知らぬ間に教師みたいな上から目線になっていた。荒木の言う通りだ。私は百合専門の花屋であって百合専門の花屋でしかないことを自覚し直さなければならない。

 下がった視線に鞄、その中の硬い長方形に思いが到る。私は広報部のパソコンに取材で得た情報をまとめ、楽しい占いだかあなたもできるちょっと占いだか、オカルトへの好感度アップを約束する記事を打ち出し白洲に見せなければならない。今から作業すべきだが全くハッピーでない心で全きハッピーを打ち出す辛さになかなかパソコンへ手が伸びない。いつもならここで百合映像や百合画像を摂取して心を超回復させる、ここは無自覚に百合が量産される百合の園、寮内をぶらり歩けば間もなく百合の絵が目に飛び込んでアドレナリン過剰投与により精神が度を越して蘇るだろう、けれど、家に居場所のないお父さんが釣り堀で糸を垂らしている様を目撃するように部屋に戻らず余所で時間を潰している千恵と鉢合わせしたらば互いに物凄く気まずいだろう、それを思うと不用意に出歩くこともできない。

 じゃあな、という荒木の声が意識にこびりついている。部屋にはまだ音がない、風で窓ががたつくこともなく、広がる闇夜に動く何もない。私は散漫に時間を浪費した。

 気合いを入れ直してパソコンに向かったが書き上がった記事は雑で粗ばかり目立った。頭の中で荒木との信頼関係を修復する方法とこれからの算段と千恵に掛ける言葉がパソコンの読み込みアイコンのようにぐるぐる円を描いて、ただ回るばかりで何の実も残さなかった。

 時間は過ぎて、私は徒労を止め共同浴場で湯に浸かり、ふやけずに部屋へ戻った。点呼の時間ぎりぎりに千恵が部屋に戻り、そのまますぐに寝てしまった。私は明日の用意をして寝た。

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