プリスのはなし その2
目覚めたネクターは一瞬驚く。見知らぬ女性が自分を抱いて眠っているのだ。いや、見知ったのは1週間前のことだ。現実を見たくなかっただけだ。
「クソッ……またかよ……」
剥がそうとしたが、やはり無理だ。驚異的な締め付けは昨日から一切衰えていない。それよりも腕が柔らかい。女性とはこんなに柔らかいものか。プリスが特別なのかとも考える余裕が出来てきた。
一度だけ母が自分を抱いてくれた時があった。出来れば思い出したく無かったが、母も柔らかかった記憶がある。片手で刀を振り回せるような力の持ち主のくせに。
いや、そんなことを考えている場合ではない。このままでは小便が漏れる。ベッドや衣服に漏らしてもまた作り直せばいい。幼少期に何度かやらかした手だ。
しかし、今回は状況が違う。プリスがいる。人にかけてしまうのはまずい。そうでなくても人にバレるのは恥ずかしい。
「おい、起きろ」
起きない。幸せそうな笑顔を浮かべて気持ち良さそうに寝ている。
「おい!起きろ!」
それでも起きない。父親と同じように寝付きが良く、寝起きが悪いタイプの人種のようだ。厄介な。
手は動かせない。がっつりホールドされてしまっている。足も何故か絡めとられている。
「こうなったら……」
ネクターは空中におたまとフライパンを出す。それを何度も衝突させる。
「ケヒャッ!?」
奇妙な叫び声と共にプリスが跳ね起きる。おたまとフライパンの衝突は規格外の騒音を産み出す。アンデッドでも起きてしまいそうなほどの五月蝿さから「死者の目覚め」と呼称する地域すらあるぐらいだ。
「よし、起きたな。とっととどけ」
「お、おはようございます。すみません昨日は、話の途中で寝てしまって……」
「んなことどうでもいい。早くどけ」
「……ふふふ、そんなにピロートークをしたくないとおっしゃる。いいでしょう、でしたらキスだけで許してあげましょう」
なんでそうなる。と思いつつもネクターは目の前の人間が狂人である事を再認識する。
「……で、キスって何だ?」
だが、ネクターはキスとは何の事かさっぱり分かっていない。
「あっ、そこからですか。えーっと、端的に言いますと私の唇とネクターさんの唇を重ねるんです。あっバードキスは許しませんよ。10秒。最低でも10秒は持続させて下さい」
「そうか」
「んんっ!?」
ネクターは迷い無くプリスの唇を塞ぐ。あまりの動揺にプリスは拘束を解いているが、ネクターは律儀に10秒続けるつもりだ。
「おい神様!何だ今の騒音!まだ5時だぞ5……じ……?」
それがいけなかった。ホームレスの一人が先程の目覚ましに対する苦情を言うため、家に飛び込んできたのだ。
「ああ、すまんすまん。こいつが起きなくて」
「やっぱりやることやってんじゃねえかー!」
「ふわぁ……いきなりだなんて反則ですよ……赤ちゃん出来ちゃいます……」
「うわあもう確定だー!」
「えっ!?マジ!?キスだけで赤ん坊出来んの!?」
ホームレスの時が凍りつく。今神様は何て言った?キスだけ?この人本当に何も知らないのか?いやそもそもなんで知らないのにキスしてんの?など様々な考えが頭の中をめぐる。
「で、何で貴方は許可無く私とネクターさんの愛の巣に侵入しているんですかねえ」
ベッドから出たプリスの両腕が雷光を帯びる。ホームレスには見えていないが、声色から何かまずいと判断した。
「い、いや、俺はただ騒音に苦情を……っていうか愛の巣って」
「死ね!」
「ギャーッ!」
プリスの雷撃でホームレスの頭髪がアフロにされ、ホームレスは逃げ出してしまった。ネクターはその隙にトイレへと駆け込んだ。
「というわけで、今日は街に繰り出してみましょう!」
「何がというわけでだ」
二人は朝食(コンビニで予め買っておいた即席ごはんとなめこの味噌汁だけの簡素なものであるが)を食べながら今後の方針を話し合う。
「そりゃまあネクターさん社会復帰計画の一環としてですね?折角不幸をばら蒔く事が無くなったんですから、いっそ社会に繰り出すのもいいんじゃないかと」
「別に必要ねえよ。ここでずっと暮らしていければそれで充分だ」
「まあまあそんなこと言わずに。外に出歩けるようになればネクターさんの能力にも幅が出てきます。そうすればホームレスさん達の依頼もこなしやすくなるでしょう」
ネクターは納得する。彼にとって最も優先すべきは彼らの役に立つことだ。かつてゲンさんを間接的に殺めてしまった罪滅ぼしのため、彼らを幸せにしたいと願っている。
プリスの考えはもっと深刻だ。いずれネクターをウィンドベルに出頭させなければならない。それまでに何としてもネクターには社会復帰してもらわなければならない。
アリアは唯一ネクターと結ばれることに賛成しているが、他の者は否定的だ。戸籍改竄はアリアが無理矢理推し進めた計画だ。ピエットは従わされているだけに過ぎない。
最も厄介なのはウィンドウだ。彼を納得させなければネクターとの結婚はおろか、幽閉されてしまう。社会で自活出来ることを証明しなければそうなる可能性は大だ。
それまで時間が無い。あまりに長引けばウィンドウがネクターの元を訪れるだろう。それがいつかは分からない。だが早めに手を打たなければいけないのは明白だ。
「一理ある。それじゃあ、どこへ出掛けようか。俺は外には疎くてな。何かいいアイディアは無いか?」
「そうですねえ……色々なものを見ていただき、かつ今後の食料を確保するとなると……デートコースとしてはありきたりですが、シオンに行くというのはどうでしょう」
「シオン?なんだそりゃ」
プリスはシオンについて一から説明する。シオンとは食料品を中心に様々な専門店を擁する何でも揃う
ただしセントラルシェルはサンライズアイランドの首都だ。人口が田舎に比べて多いため、安さや独自性を売りにした旧来の店舗にシオン側が押されている現状だ。それでも便利なことに変わりは無いので一定の利用者はいる。
「そんな経済的な話はどうでもいいんだが、なるほど。そんな店があるのか……」
「どっちかと言いますと、女性向けの服屋や装飾品店がほとんどですからね。見るだけ見て帰ってから能力で複製して私を着せ替え人形にしたり出来ますよ」
「俺にそんな趣味もセンスも無いんだが」
そもそもネクターは女性のファッションどころか女性自体に疎い。服を選ぶなどもってのほかだ。
「それより重要なのはネクターさんの社会勉強ですからね。一般人の暮らしというものを見るのに適したサンプルだと思います。それに、人と接するのにも慣れていただきたいですしね」
「そんな必要は……」
「ネガティブなのはネクターさんの弱点中の弱点ですね。そんな所も好きなんですけど。まあ、私の能力が本当に有効かどうかを見て貰えるいい機会だと思ってください。人混みの中を歩きますからね、ぶつかることは日常茶飯事ですよ」
「人と……ぶつかる……?」
プリスは地雷を踏んでしまった。人に触れるのはネクターが最も忌避する行為だ。ネクターは目に見えて塞ぎ込んでしまった。
「だ、大丈夫ですよう!ほら、私なんか1週間ずっと一緒に寝ていますが、こんなにピンピンしています!」
それが不幸なんだよ!と言う気すら無くなるほどネクターの心に翳りが生じている。プリスにつきまとわれること自体が不幸なんじゃないかとネクターは思い始めている。
もしかすると能力などハッタリで、ネクターに不快感を与えるためだけに生き延びているのではないか。だが、ネクターは決心する。
「いいだろう。行ってやろうじゃないか。ただし、俺がぶつかった奴が不幸に陥った時点でお前との契約は解除する。それでいいな?」
「ええ!どうぞどうぞ!そんなことは万が一にしか起きないですからね!なんたって不幸を纏めているんですから!」
だが、プリスは能力に絶対の自信を持っている。そもそもハッタリであれば街に出るとは言わないだろう。
「……で、そのシオンとやらはどこにあるんだ?」
「ここから数キロ南に飛べばすぐですよ。一応郊外に位置しています」
「くれぐれも安全運転で頼む」
「……お、音速まででしたら安全運転に」
「言い方を間違えた。リザード級EDの法定速度で頼む」
1週間かけてプリスの性癖を理解した。この女は極度のスピード狂だ。何につけても速度を優先したがる。初日に全速力を出されて以来、その性癖がネクターのトラウマとなっている。
「わ、私に60km/hしか出してはならないと!?」
言うのが遅れたが、この世界はメートル法を採用している。ヤーポン法は滅びた。
「いいから頼む。こちとら移動の度に死にかけたくねえんだ」
「わかりましたよう……それじゃあ出発しましょう」
ネクターはプリスから1ギル受け取り、食器を消滅させる。こうすれば洗い物の必要は無い。
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