ネクターのはなし その5
走ること5分、ネクターは自宅へ滑り込んだ。他のホームレス達から怪訝な目で見られていたが、そんなことはどうでもいい。早くあの女から逃れたい。そう思っていた。
「へえ、ここがネクターさんの家なんですね。ダンボール製の割には過ごしやすそうですね。臭いも想像より酷くないです」
「キャアアアーーー!?」
そう思っていたそんな矢先、自分の後ろにぴったりとプリスがついてきていた。あまりの恐怖に甲高い叫び声をあげてしまった。
「な……ななななんで……」
「何で、が多いですねえ。忘れたんですか?私は距離すら纏められるんですよ?」
「アバッ……アババババ……」
「何をそんなに怖がる必要があるんですか。私と暮らせば悪運に悩まされることはもう無くなるんですよ?ついでに戦闘も家事も自信ありで、最初から好感度マックス。こんな優良物件なかなかありませんよ?」
「それ自分で言うかなあ!?」
だが、悪運に悩まされることが無くなるというのは自分にとって大きなメリットだ。もしそれが本当なら、もはや諦めていた人並みの生活が出来る。
但し、この狂人をずっと側に置いておく事と引き換えにだ。ネクターはさんざん悩んだ挙げ句、ようやく結論を出した。というか諦めた。どうせ自分は死んだ身だ。自分がどうなろうともはや関係ない。
「……いいだろう。悪運清浄機としてせいぜい働いて貰おうじゃないか。給料は出ないけどな」
「むしろお金のお世話をするのは私の方なんですけどね。父さん達にネクターさん助けに行ってきますって言ったら何故か
ウィンドベルのエージェントは基本給に加え任務手当が支給される。任務危険度に応じて最下ランクの
その依頼料は9割が任務に赴いたエージェントに渡される。但し、ほとんどの任務はウィンドベルのメンバーが独自に拾って来るため任務手当は最高顧問責任者であるピエットのポケットマネーから出ているのが実情だ。
とはいえ殆どのエージェントは高額たる高ランク任務はあまり任されないばかりか例え任されてもほぼ確実に殉職してしまう上に、ウィンドウなどの上位エージェントがボランティア同然で片付けてしまう。
ちなみにプリスが任された
それらの情報を知っていたネクターは即座にプリスの両手を掴んだ。彼は金に弱い。
「ひゃあ!?」
「何なりとお申し付け下さいお嬢様」
「あ……ああああの……ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします……」
プリスの様子がどことなくおかしい。握った手からはひそかに振動が伝わり、その目はどこか宙を見ている。顔面は紅潮しており明らかに緊張しているのだが、人と接した事があまり無いネクターには分からなかった。
「……あ、ああ。悪い。俺が触れると不幸になっちまうな」
「い、いえ!それはさほど問題では無いのですが!むしろ幸福と言いますか!」
「そんなもんなのか」
ネクターはプリスから手を放すと、何故か後ろを向き俯かれる。何かブツブツと言っているが、ネクターは気にせずソファーに座る。
「で、その能力とやらの範囲はどんぐらいだ?俺やデスクと同じく接触が必要なのか?」
「今夜はお赤飯今夜はお赤飯今夜は……ハッ!?あ、いえ、その必要は御座いません。大体半径1kmほどでしたらカバー出来ると思います」
「……それ以上離れると?」
「吸引力がそこから激減するので、効果が少し減ります。試したことは無いので分からないのですが、2kmまでなら確実に死ぬぐらいの不運が財布を落とすぐらいになるんだと思います」
「なるほど。割りと良心的じゃないか」
今までの行動範囲に比べたら大きな飛躍だ。ネクターは自由の喜びを噛み締める。
「それで、今日はどうなさるつもりだったんですか?私ならどこへでも着いていきますよ」
「そうだな……特に決めてないから依頼されたもの作ってから山菜取りに行くぐらいだが……そういや、あんたは大丈夫なのか?俺から離れず生活すんのは。たまに山籠りするぞ」
「何が大変なんですか?」
「いや、その動機について話すのはもういい。頭がおかしくなる。そうじゃなくて、ライフラインの一切無い原始的な生活に耐えられるかって話だよ」
「ご安心ください!その手の技術はマカリスターさんにみっちり叩き込まれてきましたし、いざとなれば私は数分足らずで何処へも行けますからね。なんならこれも実証しましょう」
プリスはネクターを外に連れ出す。ホームレス達はそれを見て驚き、一斉に集い何か話し合い始める。
ネクターには検討がついていた。第一にネクターの家に立ち入る者は殆どいないこと。もう一つは、女性などここには一人も住んでいないこと。
恐らく自分が連れ込んだものと思われているのだろう。それも、誰も招き入れることの無い自分が。疑われても仕方はない。
「では行きましょう。どこの山に行けばいいんですか?」
「結構遠いぞ。市販のEDでも30分はかかる。お前の実家の……教会の裏手にある山だ。だからその前に作製依頼を」
「……単位がデカすぎますね。1フレームとかかりませんがよろしいですね?」
「……は?」
「1/60秒でお連れすると言ったのです。では行きますよ」
プリスは後ろからネクターの腰を掴み、飛んだ。プリスの予告通り、1フレームとかからず二人は優に30kmは離れた山中に着地した。
「ふう……人間一人を抱えていたとはいえ、また世界を縮めてしまいました……ってあら?ネクターさん、ご無事ですか?」
ネクターが小刻みに震えているのを感じとり、プリスはネクターの顔を覗きこむ。顔面蒼白で、口を押さえている。どう見ても無事ではない。
「オボロロロロロロロロ!!!」
ネクターはプリスを払いのけ、四つん這いになり吐いた。無理もない。常人には体感出来ない超スピードと重力を体感したのだ。むしろ失神していない方がおかしい。
「あわわわわ!すみませんネクターさん!私、速度の事になるとつい……!」
「はぁはぁ……むしろ何でお前は無事なんだ……」
「鍛えておりますので!」
「どういう鍛え方したらそうなるんだよ……くそっ、駄目だ気持ち悪い……ちょっと休ませてくれ……」
「わ、分かりました!では、どうぞこちらに」
プリスはその場で正座し、ネクターの頭を自らの膝へ導く。ネクターはその行為に眉を潜めたが、厚意に預かることにした。
「……マカリスターさんの枕ほどじゃないな」
「アレと比較されては困りますが……」
プリスは慈しむようにネクターの背を擦る。ネクターは不思議と吐き気が収まるのを感じる。
「どうした。今度は回復のマナでも纏めたか」
「あっ、その手がありましたか。アレやると自動回復出来るので戦闘中しか使わないんですよ」
アウトサイドは魔法の影響を受けやすいが、治癒魔法の能力も上がるというメリットがある。最もそれを知っていてアウトサイド相手に治癒魔法を打つ者はほとんどいないのだが。
「能力無しかよ……なるほど、普通はこうやって介抱するもんなのか」
「……そうですね」
ネクターは人に触れた事が殆ど無い。幼い頃父親に抱かれたことはあっても物心つく前の事ゆえ覚えているはずもない。そもそもウィンドウはこういった事は一切やってこなかった。
プリスは右手でネクターの背を擦り続けながら、左手で彼の髪を触る。ネクターはこれも意味のある行為だと信じて無視するが、吐き気を和らげる効果など無い。
「よし、もういい。助かったよ」
思い込みの力もあってネクターは直ぐに回復し、起き上がった。プリスは些か残念そうな顔をしている。
「むっ、もういいんですか」
「いつまでも倒れてちゃ時間がもったいない。とっとと今日のメシを探すぞ」
「ごはんぐらい私が買ってきますのに……」
「ここで採れるのは店で流通するようなもんじゃないからな。最も、買いに行ける体じゃないんだが」
「……ずるいです」
ネクターは次々と山菜を見つけては収穫する。プリスの目にはそれらが雑草と見分けがつかなかったため片っ端から取ってはネクターの選別を受けて学習した。
それから2時間。ネクターは両手に山菜がたっぷり入ったビニール袋を抱え、プリスに抱えられて飛んでいた。
速度は落としてある。それでも生身では風圧で呼吸がおかしくなりそうなスピードだったのでネクターは前面にガラスを張って耐えている。
もうすぐネクターの家だ。しかし様子がおかしい。まるで帰宅を待っているかのように、家の前にはホームレスが集結していた。
「よっと、お疲れさまでした。で、この方々は何なんです?」
「さあ……?」
「さあ?じゃねえよ神様。アンタ、不幸にするから俺達は入れねえって言ってたけどよお、まさかそういうことだったとはな」
「え?どういうことだ?」
「しらばっくれんなよ!アンタそう言って女を囲い込んでたんだろ!?」
ネクターには少しだけ理解できた。ホームレス達は自分達を閉め出した理由をネクターが女性という資源を独り占めしていたと勘違いしているのだ。
女性が何故資源呼ばわりされているかちっとも分からなかったのだが。
「知らん。こいつはついさっき出会ったばっかりでな」
「嘘つけ!さっき知り合った奴がそんなベタベタくっつくか!」
「だから知らん。そういうもんじゃないのか?」
「やっぱりな!アンタ相当遊び慣れてやがるな!?」
ネクターの言葉は逆にホームレス達の神経を逆撫でしてしまった。ネクターは本当に知らないだけであり、それが彼らには嫌味に聞こえてしまったのだ。
「畜生!恩人とは言え許せねえ!おい、野郎共!」
「五月蝿いですよ端役」
「あばばばば!」
プリスが拳を軽く振ると、ホームレス達は軽い電気ショックを受けたかのように痙攣する。
「女性を性欲処理の道具としか見ていないのはともかく、ネクターさんに無礼を働いた事は断じて許しません。そんな思考だから社会からドロップアウトするんですよ」
「あ……あんた……何者だ……?」
「ウィンドベル都市管理部所属
ウィンドベルの名を聞いてホームレス達は身をすくませる。都市管理部はセントラルシェル内部で起きた事件の解決、行政代執行を主な任務としている。
自分達は不法占拠者に他ならない。行政から何度も立ち退き勧告を食らっていたが、その度にネクターがなんとかしてきた。しかし、今度はアウトサイド殺しの専門家。ネクターですら太刀打ち出来ない可能性は大きい。
もちろんネクター抜きでは確実に滅ぼされる。それに、ネクターとウィンドベルを名乗る女は妙に親しげだ。
「お、おい、神様……さっきはすまなかった……あんた、この方とお知り合いで……?」
「だからさっき会ったばっかっつってんだろ。んなことよりほら、今日の飯だ」
ネクターは呆れながら山菜の入った袋を片手分ホームレス達に向かって投げる。ホームレス達は土下座し、地面に頭を擦り付ける。
「……いいですか。ここにネクターさんが住んでなかったらとっくの昔にこのボロ屋どもはあなた方ごと撤去していましたからね。存分に感謝なさい」
「ああ……それより、あなた様はこんなスラムに何用で?俺達を潰しに来たわけじゃないって事は……」
「ちょっとネクターさんを救いに来たんですよ。触れれば人を不幸に陥れてしまう能力を無くしにね」
ホームレス達に伝わる数少ないルールの一つに、ネクターに触れてはならぬというものがある。これは事実上の取りまとめ役であったガルシアが残したものだ。
現在ではその理由を知るものはいない。主に栄養失調や病気で死んでしまったか、ネクターの出した道具で社会復帰を果たしたかのどちらかだ。最もネクターが来てから触れた者は誰一人としておらず、彼の自己申告ではあるのだが。
だからそれを聞いたホームレス達は首を傾げた。ネクターにそんな能力があったとは初耳だ。てっきり願った物を出してくれる都合の良い神様だとしか思っていなかった。
「成る程、本当にバチが当たるんだな」
神に触れれば不敬と見なされ天罰が下る。そういうものだと納得していた。実際ネクターは神のクォーターなので間違ってはいない。
「というわけで実際困ってることも気兼ね無く聞けるってもんだ。すまんが、今回複製依頼を出した奴に聞きたいことがある」
「え?俺ですけど、何でしょうか?」
「依頼をくれたのは悪いんだが、俺はこれ知らねえんだ。だからどういうもんか教えて欲しいんだが……」
ネクターは依頼品名の書かれた紙を開き見せる。依頼人のホームレスは慌ててネクターの出した紙を奪うが時すでに遅し。他のホームレス達からは「ああ……」「なるほど……」「その手があったか……」など共感や感心する声が挙がる。
依頼人も別に見られて恥ずかしいというわけでは無い。この場に女性さえいなければ。
その唯一の女性であるプリスは依頼人を冷やかな目で見やる。紙に書かれていたのは「エロ本」の三文字だ。
「というわけでだ。せっかくお前のお陰で人に触れられることが出来るようになったわけだし、このエロホンとやらを探しに行きたいわけだが」
話を振られたプリスは吃驚する。ネクターは平然としているようだ。それに、それがどういったものか分かっていない。
無理もない。幼少期からここまでずっと引きこもり同然で過ごしてきたのだ。一般的な常識に欠けているのは念頭に置いていたが、これほどまでとは思っていなかった。
(無知シチュ!?無知シチュですか!?私が一から手取り足取り教えろと言うのですか!?おお、神よ!もといひいおじいさまよ!感謝を!絶大な感謝を!)
そして感謝のあまり膝をついて両手を組み、神に祈りを捧げ始めた。
「おーい、大丈夫かー?」
「ひゃっ!?は、はい!大丈夫です!そんなもんその辺のコンビニにでも行けば見つかるでしょう!ついでにごはんとか買いに行きましょう!」
どこか宙を見ながら神に祈りを捧げるプリスを見かねて肩を叩く。我に返ったプリスの体が跳ね上がった。
「そうなのか。じゃあ行ってくるわ」
「そ、それじゃあ、ふつつか者ですが私もここに住みますんで短い間ご贔屓にー!」
ネクターを抱えたプリスが高速で飛んでいく。ホームレス達はそれを呆けた顔で見送るしか無かった。
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