第二十一話 『閉幕と開幕』

 光のみが満たす、白一色の殺風景な世界の中でさえ、幽妃ちゃんは景色に馴染んでいた。

 柔らかい曲線を描いて伸びる、透き通った白髪がそう思わせるのか、それとも凪めいた性質がそうさせるのか。

 ともかく、佇む幽妃ちゃんは一人の人間としての色を手に入れたうえで、世界と相反しない一種の完全性を有していた。


 半年ぶり。

 幽妃ちゃんは言うが、彼女の生きている時間は、十一月のあの日から進んでいない。


 灰になった人間が、生きているはずがない。

 たとえ灰の中から這い出た存在がいたとしても、それは地球の生き物では無いもので、だとしたらそれは生物だったものから生まれただけの、非生物だ。

 あの、悪魔のような。


 けれど、なぜだかボクには、目の前にいる少女が幻でも過去の記録でもない、今をどこかで生きている存在だと確信出来ていた。


 世界に観測された全ての事物が記録されている、智富世さんの持つ知識の種が作り出す再現劇場では、思考の壁さえ曖昧になる。


 突然目の前に現れた幽妃ちゃんに、ボクがどんな印象を覚えたのか、彼女にも伝わったのだろう。


「ごめんね。私、魂だけになっちゃった」


 と、彼女は謝罪混じりに苦笑した。


「また、ボクのせいで……」


 話したいことは沢山あるのに、まず口にしてしまうのは、自分を貶めるだけの言葉。


 だから当然、そんな顔をして欲しかった訳では無いのに、幽妃ちゃんの顔を曇らせてしまう。


「やっぱり、そう思ってるんだね」

「……ごめん」


 何やってるんだろう。また謝ったところで幽妃ちゃんを悲しませるだけって、分かっているのに。


「でもどうして……幽妃ちゃんはあの、時に──」


 死んだはずじゃ、と言いかけて、咄嗟に口に手を当てる。

 面と向かってそんな事を言うのは、あまりにも不謹慎だ。


「もう、気にしすぎだよ」


 幽妃ちゃんは困ったように笑う。


「それにそれを言うなら、私だって、歩くん……死んじゃったって、思ってたよ」

「ボクが……?」

「見てたから。……フェネクスが歩くんを殺すところ」


 一変して、殺すという言葉を口にする、彼女の声音は震えていた。


「そっか。そう言われると、確かに」


 ボクは悪魔によって全身に火傷を負わされ、剣に腹も貫かれた。

 あの時ボクは死を自覚したはずだ。

 けれど、気が付けばボクは当たり前のように元の砂浜で目を覚まして、致死量の傷もすっかり跡形もなく治っていた。

 それを自覚すると同時に、いつの間にか自分の中に不思議な力……『器の種』なんて代物が宿っていることに気が付いて、その意味や使い方も自然に頭に思い浮かべることが出来てしまったから、きっと器の種の力によるものなんだろうと受け入れていた。

 けれど、確かに傍からみれば、僕は一度死んで、生き返っている。そんなの、三文小説みたいなご都合展開この上ない奇跡とも呼べる出来事だ。

 幽妃ちゃんからしたら、ボクが生きていることの方が驚きなんだ。


 ……あれ、でも待って欲しい。


 ひとつ、妙な点に気がついた。


「幽妃ちゃん、どうしてボクが悪魔に殺されたって、知ってるの?」


 そう、フェネクスは幽妃ちゃんが燃え尽きた灰の中から飛び出してきた悪魔だ。

 フェネクスが現れた時点で、有機物の無い幽妃ちゃんは生物として死んでいる。


 もし、幽妃ちゃんがいるとすればそれは───。


 劇場の作用で、幽妃ちゃんに思考が伝わってしまったのか、幽妃ちゃんはその答えを待っていたと言いたげに頷いた。


「うん。だから、魂だけ」


「幽霊とはちょっと違うけどね」なんて幽妃ちゃんは付け足した。


 あっけらかんと、彼女は言う。


 けれど。


「じゃあそれって……」


 いやな、とてもいやな予感がした。

 確認しなくてもいいことを、ボクは考えている。


 それを、知ったところで後悔するだけということは、自明。


 それでも、考えてしまう。


 ————魂だけって、その幽妃ちゃんの魂は、今、何処にあるんだろう。


 悪魔の言葉を思い出す。

 幽妃ちゃんの魂は美味だとか、なんとか。

 知識の種によれば、悪魔による死者の魂喰らいは、生前に刻みつけられた最大の苦痛によって刺激を与えることで成されるらしい。


 そして今の幽妃ちゃんは、魂だけの存在になっていると言った。

 そういえばこの空間は、たとえ相手が離れた場所に居たとしても、その精神体を補足できる世界なんだっけ。

 魂だけの幽妃ちゃん。魂を食った悪魔。遠くの魂さえ観測する空間。


 ならもう答えはひとつじゃないか。


 幽妃ちゃんの魂は今、悪魔の中にある。


 幽妃ちゃんは、今も悪魔に殺され焼かれ続けているって、そういうこと────?


 もう一度、音のない言葉に、幽妃ちゃんは頷いた。


「そんな……」


 いつかの日みたいに、またしても言葉を失ってしまう。

 なんだよ、それ。

 あまりにも惨いよ。


「ごめんね。私、ずっと見てたのに、歩くんのこと助けられなくて」


 どうしてそうやって君は、いつも平気な顔をしてるんだ。

 謝らなくていい。

 自分が苦しんでいるのに、他人のことなんか気にする必要なんかない。


「私はここに居るよって、伝えられればよかったのに、そう出来なくて。……そのせいで、歩くんに、酷いことをさせちゃったよね」


 酷いこと、ボクが他人を襲った事のことを言っているんだろう。けれど、それはボクが勝手に思い込んで行った取り返しのつかないことだ。


 それに、魂を貪られ続けている幽妃ちゃんが、伝えられるわけが無いんだ。


 と、


「ああ。だから、か」


 今まで沈黙を保ってボクたちの会話を眺めていた青年──総汰さんが落ち着いた声音で口を挟んだ。


「だから幽妃、君は今、俺たちに干渉しているんだね?」


 突然、この青年は何を言っているんだろう。

 それに、幽妃ちゃんを勝手に呼び捨て。少し無性に腹が立ってしまった。


「なに勝手に──」

「はい」


 決めつけてるんですか、と不機嫌に言いかけたボクを、幽妃ちゃんが先に答えて制止した。

 ごめん、と総汰さんがボクの方に一言入れて、続ける。


「俺たちが君を捕捉することで、初めて君は伝えられたんだ。君の居場所、つまりフェネクスの居場所を」

「はい。私だけじゃ、フェネクスは止められないんです」


 そういうことか。

 幽妃ちゃんはボクたちに気づかれた時点で、己の精神の所在地を教えて、悪魔を止めさせる算段だったんだ。


 そして唐突に、総汰さんは何やら少し一人で考え込むような仕草をして、うんうんと深く頷いた。


「そして歩の持つ器の種なら……うん。それは過去を変えるより、ずっといい」


 ボクの能力がどうしたって言うんだろう。

 なんだか、勝手に話が進んでいっている気がする。


「あの……ボクの力が、どうかしたんですか?」


 自分のことなのに話が見えなくて、尋ねたボクに、少々明るめの声音で、彼は期待に膨らんだように答えた。


「君の力で、幽妃を取り戻せるかもしれない」

「へ……?」


 なに、それは……!?


 額面通りに受け取れば、ボクの持つ器の種で幽妃ちゃんを取り戻せる、つまり──生き返らせられる……?


 そんな力が、ボクにあるって言うのか。

 ただ、中身のない器を作るだけの種に。


 ボクが話を呑み込むのも待たず、総汰さんは仕舞っていたスマートフォンを取りだした。


 すると。


「あ……もう終わりの時間だね」


 名残惜しそうな、幽妃ちゃんの声。


 同時に、光に包まれた世界が天井から破れ始た。

 精神を過去へと誘う真っ白な景色が、朝日の差し込む現実へと変わり出す。


 過去の再現劇場が、その形を失いつつあったのだ。


 全身を包む浮遊感が無くなって、代わりに堅い板材を踏む感覚と、朝の冷たい風が感覚を刺激した。


 現実に引き戻されていた。


 過去を振り返るのは、今と向き合うため。

 行く先が決まった今、過去が現在を塗り替えて物語に存在する必要は皆無であるらしく、空間全てが、光の粒となって、霧散していく。


 過去を留めていた世界が失われていけば、当然、過去を通して繋がっていた者とは離れることになる。


「幽妃ちゃんっ!」


 霧のような印象を抱かせる少女の姿も、破れていく世界と同様に霧散し始めていた。


 まだなにも、ろくに言葉も交していない。

 必死に手を伸ばして、消えゆく幽妃ちゃんの姿を掴もうとする。

 半年ぶりに出逢えたというのに、これでまた離別するだなんて絶対いやだ!


 けれど、伸ばした手は幽妃ちゃんの実体を掴むことはできなくて、腕は彼女の身体を通り抜けた。


「……なんでっ!?」


 少し考えればわかること。

 今、僕の瞳に映る場所に、幽妃ちゃんは居ない。


 肉体を失った存在が、肉体を持つものに干渉することは物質世界の法則に反している。


 だからこそ、幽妃ちゃんは、


「まってるよ」


 ボクだけに向けて微笑むと、少女はあっという間に姿を消していた。

 最初から居なかったみたいに。

 


 ***



 一面白色の劇場は融解し、辺りの景色は、元の半壊した神在家のリビングへと引き戻されていた。


『見つけた』


 シンプルなメッセージが、俺のスマホの通知ボックスに届いていた。

 差出人は、閏海うるうみはるか。祈織とは別の、俺のもう一人の幼馴染の名前だった。

 そういえばと、祈織が俺達と別行動をとる前、彼にフェネクスの捜索を頼んでいたことを思い出す。


『視界キャプチャに写ってる。こいつだよね』


 アプリを起動すると、続くメッセージと共に、一枚の動画が送信されていた。

 思わず、呟く。


「フェネクス……」


 映像に映されていたのは、無論、一体の非日常。

 幽妃の魂を貪り、祈織を傷付けた、俺と歩の共通の敵。

 早朝のオフィス街のビルを縦横無尽に飛び交う、朱い悪魔であった。

 映像の中でフェネクスは、鳥の形態ではなく、ヒト型の形態をとっており、動画の撮影主である悠を目がけて、空中で幾度となく剣を振り下ろす様子が映っていた。


「悠……俺の幼馴染から連絡があった。幽妃さんを殺した、あの悪魔を見つけたらしいんだ」


 言いながら、智富世と歩の二人にスマホの画面を見せる。


「こいつ……です」


 ぎり、と強く拳を握りながら、歩が肯定した。

 

 頷き返して、悠にも同様に肯定の意を示すメッセージを送る。

 三者の間で違う相手を敵にしているとは思っていなかったが、万が一の確認のためだった。


 既読はすぐについて、程なくして新しいメッセージが返ってきた。


『場所を送るから、来てもらえるかな。敵は三体だ』


 送られてくるリンクをタップすると、地図アプリが自動的に起動し、悠が指定したであろうポイントの住所とピンが経つ。

 マップピンの座標は、先程まで本来の幽妃の魂の在処であった場所から、ほとんど変化が見られなかった。

 敵が一体ではなく三体居るという点が気になるがひとまず『了解』と返信すると、またも直ぐに既読が付いた。


『くれぐれも祈織は連れてこないでくれ、頼むよ』


 と、最後に一言送りつけてきて、アイコンがオフライン表示になった。

 俺はスマホの画面を落として、溜息混じりに独り言ちた。


「悠……祈織はどう考えても絶対に来るの、分かるだろ……」


 幼馴染の無駄な憂慮に少し苦笑を零す。

 そりゃ、俺だって心配はするけれど。

 悪魔の炎に苦しむのを目の前で見せられたのだし。


 けれど、祈織という幼馴染は、人の心配なんて気にも留めやしない少女なのである。


 ともあれ。


「さて。……うん」


 一度、伸びをした後、おもむろに椅子の上から立ち上がった。

 スマホをもう一度立ち上げて、マップの座標を確認する。


 敵は三体居るらしい。フェネクス以外にも同じような悪魔が居るということだろうか。


「もう、行くの?」


 見上げて訊いてくる智富世に、うん、と声だけで頷いた。 


 やるべきことは決まったのだ。

 時計は七時を指している。

 家の中でゆっくりしていても、仕方がない。


 笑いは零れなかった。

 暴力は嫌いだ。それが誰かを救うものであっても、結局他の誰かを傷付けてしまう、そんな残酷な行為は。

 けれどだからといって、俺は、善良な少女が悪意に呑み込まれたまま、最期を迎えるなんていう悪辣な物語の結末を受け入れられるほど、そんな無機的な人間でもなかった。


 俺は悪魔を、止めに————いや、たおしに行く。


「智富世はどうする? 俺としては、戦いとか、そういう乱暴事に巻き込みたくはないんだけど」


 暴力を振るうこと以上に、俺は女の子を荒事に巻き込むことは心底好きになれない。

 祈織がそうさせたのだろうか、とも思うが、多分生来的なものだろう。

 

 けれど、智富世は心配無用と言うように、顔色一つ変えずにきっぱりと答えた。


「ありがとう、総汰。でも私、幽妃さんを助けるって言ったもの。嘘はつきたくありません」


 強い子なのだと、そう思う。

 祈織も智富世も、対極なようでそういうところはよく似ている。

 

 本当は、来なくていいと言いたかった。

 祈織にも、来るなと連絡したかった。


 それはただのエゴで、相手のことを自分勝手に庇護対象と見定めているような、傲慢な心理なのかもしれない。

 けれど、大切だと思う女の子が傷ついたり誰かを傷付けることが、悲しいことだと思ってしまうのも、本当。


 結局のところ、俺は自分の大切なひとを失うことが怖いのだ。


 そんな俺の気持ちを智富世は読んだのだろう。

 木製の椅子から流れるように立ち上がると、


「大丈夫よ。……一つ言うと私、さっきまで貴方を守ること以外で本気出していないから」


 くす、とほんの少しだけ微笑んだ。


 彼女にとっては何の気ない、無意識の動作なのだろう。

 けれど、それは観測者からすれば、ある意味、些か暴力的な衝撃を孕んでいて。


 束の間、時間が止まったようにも錯覚した。


「……」

 

 逃げるように、目線を少女から、少年へと移す。

 

 逸る気持ちを抑えられないというように、彼は強い意思の籠った視線で見返してくる。


 手塚歩。

 悪魔に囚われた少女、幽妃を救い出すためには、彼の器の種の力が必要不可欠だ。

 それに何より、少女は他の誰でもない歩の訪れを、心待ちにしている。


「……君も来る、だろ?」


 なんて問い、聞くまでも無かった。

 答えなんて最初から、決まりきっていて。


「はい」


 迷うことなく、彼は俺の方へ歩み寄った。


「幽妃ちゃんを、一緒に助けてください」


 心の線は、信頼の黄緑色に満ちていた。

 それはきっと、一度、同じ意識に繋鎖したから。




 ***




 そして俺達は今、目前に、富詩焔を捉える————。




「あア……あア……」




 人工密林コンクリート・ジャングルに、囁く詩。

 飛翔する朱翼が、火花を散らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る