第二十話 『世の中には、対処の遅速に関わらず、手遅れな事象が存在する』

 エメラルドグリーンからコバルトブルーへ広がっていく海面。

 足元を寄せては返していく透明な波は、十一月にもなると酷く冷たい。

 だというのに白い髪の少女は寒さも感じていないみたいで、ちゃぷちゃぷと緩やかな波で遊ぶように僕とふたり、歩いていた。


「学校にいけないのはね、私の家の血筋が問題。私、神さまを降ろす巫女、なんだよ」


 信じられないよね、と上目遣いで幽妃ちゃんがこちらを覗く。すぐに触れられるほど近い距離で、紫の透き通った瞳に視線が交わって、胸の高鳴りを自覚する。


「信じるよ」


 けれど、ボクは迷わずに幽妃ちゃんに答えた。


「ふふ、ありがとう」


 と、彼女も可憐な笑顔で返してくれる。


 当たり前だ。信じると宣言した以上、幽妃ちゃんの言葉を疑うわけがない。それに、幽妃ちゃんはこの手の冗談は口にしないタイプであるし。

 加えて言うと、巫女だとか神様だとか、そういう御伽噺的な存在についても、ボクは元から否定的ではなかった。

 まあ、幽妃ちゃんがその巫女さんだっていうのは驚きだけれど、幽妃ちゃんは巫女さんを超えて女神様……だなんて考えるくらいには、ボクは彼女の言葉を簡単に受け止めていた。

 だから、今更幽妃ちゃんがどうやって神様を降ろすのだとか、なんて名前の神様を呼ぶのだとかは、問題解決の糸口にでもならない限り、ボクの興味に値しなかった。


 ボクが知りたいのは、幽妃ちゃんがどうして学校や祭りに来れないのか、ただそれだけだ。

 幽妃ちゃんも、ボクが求めているものは把握しているというように、ボクに確認も取らず、説明を続ける。


「それでね、昔から神さまと波長を合わせるために、あまり人の世界に偏るなっていうのが教えで、学校でも友達を作っちゃダメだって言われてた。お父さんの代じゃ、そもそも学校に行かせてもらえなかったんだって」


 だから幽妃ちゃんは自分から他人に干渉することが無かったんだ、と納得がいく。

 幽妃ちゃんは素直な子だから、その教えを聞いて、ずっと友達を作ってこなかったんだろう。いくら美人であっても、学生生活の中では、受け答えするだけの無機的な人間に友人などできやしない。

 思えば、基本的に幽妃ちゃんはクラスメイトに対しても、ある一定の距離を作っていた。ボクに対してだって、能動的に話をしてくれるようになったのは、夏休みの直前だったんだ。


「学校に行かせてもらえる分、幽妃ちゃんのお父さんは優しいんだ。でも……」


 今の幽妃ちゃんも、彼女の父と同様、学校に登校していない。


「最近は、お父さんに学校に行くことを止められてる?」


 ボクの指摘に、幽妃ちゃんが首を縦に振る。


「そういうこと。……夏休みの前、夏祭りの約束をした日は……覚えてるよね」

「もちろん」


 忘れるわけがない。幽妃ちゃんが初めて自分の希望を人に伝えた日、心の底からの笑顔を見れた日の事だ。


 でも、薄々気づいていたことではあるけれど、幽妃ちゃんに代わってしまう原因があったとすれば、やっぱりあの日が発端なんだろう。


「私ね、小さいころから人と触れると、胸が痛くなって、苦しくなるの」

「何、それ……」


 人と触れると、苦痛を感じる。そんな話、聞いたことが無い。

 でも確かに、思い返すとあの日、約束を交わしたとき、ボクと幽妃ちゃんは小指を結んでいたっけ。そしてその後、幽妃ちゃんは唐突に身体から熱を発して、倒れかけた。

 幽妃ちゃんの言葉は本当なのだろう。でもそんなの、ものすごく悲しいことだ。人と触れることが許されないだなんて、それでは他人との間に、常に障壁があるのと変わらない。


「もしかしてさっき、ボクの手を取ったとき、幽妃ちゃん辛かったってこと!?」


 人に触れると苦痛が生じるなら、先程、幽妃ちゃんはどうしてわざわざボクの手を取ったのだろう。


「あ、ううん。そういう意味じゃないよ、ただ身体に触れるだけなら大丈夫。ただ……」

「ただ?」


 幽妃ちゃんはボクの疑問に、頬をほんのり赤くして答える。


「こ、心が通じたって感じると、苦しくなる。あ、相手への、お、思いがつよ、い時ほど、倒れちゃうくらい酷くなる、の」


 たどたどしく、途切れ途切れに言い切ったあと、「そ、それでね」とボクに考える時間を与えないよう話を進める。


「家族のみんな、そんなことは起きたことがないって言ってた。私だけが生まれつき、の意味で人と近づけない」

「強い時ほどって、もしかして、酷いと命に関わる……?」


 聞いた直後に、ボクは自分の言葉を後悔する。そんな質問、本人が一番聞かれたくない質問だろうに。

 けれど、幽妃ちゃんは正面から、疑問に首肯した。


「……うん」

「…………」


 絶句してしまう。

 身体に触れることが出来ないなんてことより、ずっと酷い。しかも神様が関係していないのなら、家の事情を解決しても、苦しみは終わらない。

 他人と心を通わせれば通わせるほど、幽妃ちゃんは物理的な苦痛を味わう。彼女は他人と過ごすという生物として当たり前の日常を、生きる前提として、許されていない。

 誰にも触れられないし、触れさせられない。永遠の偶像として生きるという選択しか彼女には残されていない。


 何も言えないボクと対照的に、当の幽妃ちゃんはそんなことは昔から分かっていた、とでも言うように、何事もないように言葉を続ける。


「夏祭りの約束をした日、私、倒れちゃったよね」

「うん。びっくりして、凄く怖かった」


 違う。怖かったのはきっと幽妃ちゃんの方だ。だって、他人に触れてしまったらその瞬間、死んでしまうかもしれない。

 そうでなくても、倒れるほどの熱に襲われる。なのに幽妃ちゃんはボクに対して、もう一度だけ、「怖がらせてごめんね」と謝った。


「私が倒れてしまうのが、神さまと関係していなくても、お父さんはかんなぎを育て、調律するものとして、体の変調にはすぐに気づいてしまう。だから、私が倒れたことから、どんな事があったのか、察されちゃった」


 残念だね、といったふうに口では軽く自嘲気味に言うが、表情には諦観のような感情が見え隠れしている。

 頭が悪いと自分では言うし、テストの点も決して良くはない子ではあるけれど、恐らく経験から、彼女は約束をした時点で最初から祭りには行けなかったことが分かっていたんだろう。

 それでも約束を幸せに感じていたのだから、幽妃ちゃんは本心から、夏祭りに行くことを望んでいたんだ。


「お父さん、私にお友達を作ったことを問い詰めて、学校に行くことに反対して、二学期からは完全に禁止されちゃって……ごめんね」


「約束を、したから……」


 ああ、なら完全に。分かっていたことだけれど。


「ボクのせいだ……」


 幽妃ちゃんが学校に行けなくなるようにしたのは、ボクだ。

 ボクが約束をしていなければ、まだ幽妃ちゃんは学校に来ていたかもしれない。


 確かに、約束を幸せに思ってくれたのかもしれない。


 けれど、そのせいで巫女を生むだなんて家に更に縛られることになった。

 神だなんてものの為に、人を縛る世界に。

 それは絶対に、幽妃ちゃんを不幸せにしてしまう。


 やっぱりタイミングを間違える。

 やっぱり選択を間違える。


 そりゃそうだ。だって、全部自分のがたまたま叶っていただけなんだから。


「ボクは全然、幽妃ちゃんのためになってない」


 動くべき時、必ず動くなんて、先生は言ってくれたけれど、最初から出来ていなかった。

 自分で幽妃ちゃんの為になんて、何も——。


「違うよ! 歩くん!」

「…………そう、だね」


 心から善良な幽妃ちゃんは、ボクの過ちを否定してくれる。

 その善意に、思っても無い同意で答える。


「でもボクのせいで君が登校させて貰えないのも、ボクは自分のエゴを叶えているだけで、君を傷つけていることも……事実だよ」

「違う、違うよ……貴方のせいでも、貴方の願いでも、それは私のためになっているよ」


 何度だって、首をふるふると震わせて、ボクの行いを正当としてくれる。

 けれど、幽妃ちゃんの人生を狂わせてしまったことに変わりは無い。

 ボクは身勝手な───。


「歩くんっ!」


 ぴしゃりと、幽妃ちゃんがいつになく大きな声で、ボクの名前を叫んだ。

 真剣な眼差しには、強い意志が篭っていた。

 世界に溶け込む少女が、確かな人として、目の前のボクを見据えていた。


 ボクが考えていたこと、全部見抜かれていたんだろう。


 驚いて硬直したボクを見て、幽妃ちゃんは呆れたように、苦笑した。


 そして、


「私、初めて会った時から貴方に助けられていたんだよ」

「……え?」


 なんの事だろう。

 一瞬、言葉の意味を理解出来なかった。


 高校より前、幽妃ちゃんと初めて会った時の場所。


「あ……病院」


 呟きに、幽妃ちゃんがにこりと顔を綻ばせた。


 覚えていてくれた、と。

 たった一年前のことを、懐かしむように、愛おしむように。


「自販機の前で倒れた私を、貴方は助けてくれたよね」


 こくり。うなずく。


 リハビリ室の前で倒れた幽妃ちゃんを、偶然通りがかったボクが助け起こしたのが、そもそもの出会いだった。


 そして水難事故の後遺症の克服のために、リハビリ室で頑張っていた幽妃ちゃんを数日の間だけ、ボクは見ていた。


 顔を合わせたのは片手で数えられるだけ。


 当時の幽妃ちゃんは、今よりもっと、ガラス細工みたいに儚くて、割れてしまいそうな姿だった。

 だというのに心だけは硬く、強くて、水に溺れて入院しているのに、また海に向かおうとしていて、そんな女の子に、ボクは惹かれてしまった。


 だから何度も、彼女の居る場所に訪れた。


 あの時は、名前すら知らなかった。


「分かってたよ。短い間だったけど、ずっと私の事を応援してくれたこと」


 それら全部、お見通しだった。


 ボクがずっと見ていたこと。


 でもそれだって、ボクが勝手に一目惚れして、勝手に同情して、勝手に応援していただけのこと。


「学校でだって、つまらない性格の私に何度だって話しかけてくれた」


 それこそ、ボクが助けていたなんて言える資格のないことだ。

 他人と距離を置かなければいけない幽妃ちゃんに、無知なボクが無理矢理近づいて、傷つけてしまっていた。


 なのに。


「頭が悪い私のために、誰も残らない教室に一緒に残って、必要のない補習を受けてくれた。ここに居て頑張ろうって、そう思えたのは貴方のおかげだよ」


 それなのに幽妃ちゃんは全くと言っていいほど、ボクの非を認めてなんかいなかった。


 ボクの偽善を、何よりの頼りだと、力だと思ってくれていた。


「歩くんは……私の、力になってくれたんだよ。病院でも、学校でも。ずっと」


 けれど、そう思ってくれるほど、幽妃ちゃんの身体は苦しんでしまう。


 ボクの、独善のせい。


 今だって、笑顔の裏で歯を食いしばって我慢しているのが丸見えだった。


 他人と共感することで苦しみを生むというのなら、彼女の行為は正しかったのだろう。

 最初から他人と距離を置き続けるという行為は、何も間違いではなかったんだ。

 だって最初から自分以外の誰かを知らなければ、苦痛に苛まれることはない。耐え忍んででも、他人と居たいだなんて、最初から思わずに済むのだから。


 けれど、幽妃ちゃんにとってはそんなことよりも、と言う程度のものらしくって。


「苦しくても倒れそうでも、そんなことより。ずっと、もーっと……私は貴方といる事が力になっていたよ」


 さらりと、無痛の日常より、重苦と痛苦のを笑顔で選ぶ。

 幽妃ちゃんはそれほどまでに、人を求めていた。


「今日だって、見つけてくれて、すごく、安心した」


 ただ巫女としての役割を特別に扱うだけの家族ではなく、ただ学校で言葉を交わすだけの普通の友人でもなく。


 少女が求めていたものは、もっと人間らしいもの。


 少女の出自も特異性も関係無しに、特別に見てくれるひと。


「歩くんは私のこと、考えてくれてるんだよ」


 文園幽妃という一人の個人に固執してくれる人間を、幻想の具現は求めていた。


「ふふ、ふっ……」


 鈴のような可憐な声で、少女は心の思いをカタチにする。

 こんなに嬉しそうに笑う幽妃ちゃんは今まで見たことが無かった。


「歩くん」


 ふわりと、舞うような足取りで少女はボクの前へと躍り出た。


 白い髪が風になびいて、控えめな甘い香りが空気を伝う。


「……っ」


 一瞬、意識が明滅した。くらり、倒れてしまいそう。

 視界いっぱいが、幽妃ちゃんで満たされている。

 鼓動が響いているんじゃないかと思えるくらい、強く速く脈を打つ。ばくばくとうるさくて、幽妃ちゃんに聞こえていたらどうしよう。

 ああ、こんな距離じゃ吐く息だって混じってしまう。


 色々なことを考えていた頭が瞬間のうちに、真っ白になって、何もかもが、パニックに陥った。


 それくらいに、巫女だろうとなんだろうと、目の前の彼女は女の子らしかった。

 ボクが好きになった少女は、魅力的に満ちていた。


 そうしてボクの意識がぼう、としているうちに。


「これはほんの気持ち……!」


 少女はその華奢な腕を、ボクの胴に回していた。


「な……そのっ」


 意味のない、狼狽。


 幼子のような無邪気な笑みとは対照的に、少女の肌は艶やかで、柔らかい。

 密着した身体には物理的な実態があって、幽妃ちゃんが儚い景色ではなく、現実の存在なのだと実感させる。


 白磁のように滑らかな細腕には、ぎゅ、と気持ちいっぱいの力が籠っていた。



「──幸せだよ、誰かにそんなに思われるのって」



 嗚呼、どんな偽善でも、彼女は受け入れてくれていた。

 人に触れられないからこそ、人に触れるという意味を理解している。


 利己的な偽善という他者扶助で、人の営みは成り立っている。


 愛というものでさえ、結局のところ相手のためになるだけの独善なんだ。


 けれど、これはなんだろう。


 少女の胸の、高鳴りを感じる。

 異常を伝える、心臓にしては速すぎる鼓動。

 震える身体と熱すぎる体温。


 それは自分を苦しめるだけの行為だ。

 それは幽妃ちゃんにとって損にしかならない行為だ。




 だからそれは——ボクの為だけを想った、純心だった。




「嬉しいな……暖かいなあ……」


 噛みしめるように、呟く声は暖かい。

 柔らかい身体から伝わってくる心音に合わせて、ボクの鼓動も速く、熱くなっていた。


 文園幽妃。


 世界に溶け込む透明少女。

 誰にも触れられないからこそ在り続ける、空想の理想のような女の子。

 楽園の星の天使にも近い、綻びの無い完成形。

 けれどそれは傍から見た人のはなし。


 天上の夢の如き姿形を持っていても、君は決して人形なんかじゃない。


 どこにだっている、多感な十六歳の女の子。


 人に恋をして、恋されて、変わっていく。


 変わり続ける。


 ただ一人のための理想になっていく。


 ──幽妃ちゃん。本当の意味で、君は優しい女の子。


 今の君はきっとボクだけの理想の少女。


 世界中に散りばめられた美しいものの中で、一番綺麗だったひと。


 それは、確かにボクが恋したひとのことで。

 そして、きっと今は、ボクを特別に思ってくれるひとのこと。


 透明だった君は、たしかに景色のような永久の幻想を手に入れていたかもしれない。

 何物にも染まらない君は、きっとどんな時であろうと綺麗に映る、完成された被写体だった。


 美しいものとは、本来、自分の色を持たない、宇宙みたいに透明なもののことを言うのだろう。

 色を持ってしまったものには、その時点で、必ず相反する別の色が発生する。


 溶け合ってしまえば、それはくすんだ鼠色。


 逆に同時に一つの頁へ存在させてしまったのならば、それこそ世界はその瞬間、纏まりのないデタラメへと凋落する。


 ゆえに、永遠に美しいものは、特別な色を持たないからこそ、世界の総てと調和する。


 色を持つとは、何かにとって美しくあると同時に、何かにとって不要な紛い物になるということと同じなんだ。



 けれど。



 けれど、ボクにとってだけの話ではあるのだけれど。


 今の君、文園幽妃というひとつだけの色を手に入れた少女は────。


 ────確かな自分の色を持った君は、どんな絵画より素敵で、どんな景色より美しいものだなんて、思ってしまうんだ。



 ああ、だから。




 少女にとって、




 人に、触れることが、




 魂に色を持つことが、


























 悪だったのか。






























 ゴキリ───。



 硬い——否、不快感を伴った異音が、目の前で、響いた。


「……へ?」


 目の前ということは、音の発生源とは目の前で手を回していた少女であることは必然のこと。


 その音は人間の身体から鳴るものとしては酷く沈んだ、深い奥底から響くような鈍い音で。

 ぐちゃりと、掻き分けるように、ごきんと、硬い物に幾度となく打ち付けて。


 最後に、引きちぎるような、オトが、響いて——。


「や、っぁ──!?」


 少女の小さな背から、あかいいろが、噴き出した。


「——! ————っっ!?」


 声にならない、息にもならない音が漏れ出る。


 一瞬にして、幸せに満ちた顔が、一面、蒼白に染まる。

 突発的で暴力的な衝撃に、理解出来ない間に、少女の瞳は焦点を失った。


「ぁ、ゅ……く……ん……っ!」


 息を吸うことさえままならない肺で、か細く、ボクの名前を求め、崩れ落ちた身体を抱きとめてようやく、ボクは呆けた意識を取り戻した。


 取り戻さない方が、いいのに。


「は——?」


 なにが、起こった?


 なぜ、幽妃ちゃんの貌が苦痛に、満ちている。


 どうして、幽妃ちゃんを抱きとめた手が、生ぬるい、ぬちゃりとした赤い、水?


 なんで、こんな背中に、ヒガンバナみたいな、硬い、もの、へ?


「ほ、ね……!?」


 身体の中から、白く鋭利な花弁が咲き誇る。 

 同時に、開花と共に飛散した深紅の血液が、幽妃ちゃんの一部だったものを鮮やかに染めていた。


 掻き分け、打ち付け、背を食い破って出てきたのは、十二対の白い槍——幽妃ちゃん自身のだった。


 怪音の正体は、少女の肺と心臓を守るはずの肋骨が、在り得ない方向にひしゃげ、歪み、守るべき臓器と筋繊維を食い破り、背の骨を突き破って飛び出した音だった。


 そこまで理解して、いや、その理解に、意味も価値も皆無であった。


「ひ───」


 少女が絶叫すらあげる前に、彼女の全身が宙に浮き上がった。


 突き出た肋骨が翼のように、小さな体を軽々しく吊り上げる。


 どんな現実に直面しようと、落ち着きも、凪のような雰囲気も失わない幽妃ちゃんであろうと、予想だにしていなかった事態に落ち着いていられるわけがない。

 自身の肉体に巻き起こる不可解で凄絶な現象に、冷静さを欠いてじたばたと抗う。


 恐怖ゆえ、無意味な抵抗を繰り返す。その様は蜘蛛の巣から逃れる蝶のそれ。


「幽妃ちゃん!!」


 ボクが手を伸ばしても、届かない。


 砂浜からずっと高い位置、ボクの身長の三倍はある場所で、幽妃ちゃんは磔にされていた。

 足先から血と海水が混じった雫が滴り落ちる。


 透き通っていた瞳は、恐怖に染まりきっていた。


 ボクは立ち尽くす。


 それから幽妃ちゃんは何度も、藻掻いて、足搔いたあと。


「……ぁ」


 諦めを示すように、身体からだらりと力が抜けた。

 光を失った目が、ボクに、最期に向けられて。


「————」


 赤い鮮血を媒介に、炎が包み込んだ。


 悲鳴すら上げることも許されず、少女は灼熱の焔に喰らわれた。

 肋骨の翼から炎が噴き出して、文園幽妃を火達磨ひだるまに変えた。


「ゆき、ちゃ……燃えて……だめ、だめ……」


 ぱちぱち。

 目の前で、静かに肌が焼ける音がする。


「助け、なきゃ……たす、どうしよ、届か、ない。届かないいっ!」


 手をいくら伸ばしても、いくら力を込めて飛んだところで、ただ空を切るだけ。

 ただの人間が、空の人に手を届かせることなどできやしない。


 ごうごう、ごうごう。

 肉を嚙みちぎっていくように、炎が激しさを増す。


「死、んじゃ嫌だ! 待っ……」


 ぼうぼう、ぼうぼう。

 骨すら炭化していく匂いがした。


 そして強烈な炎は骨肉から炭灰へと変じた少女の全身を燃料に、熱風すら巻き起こす。


「うぁああああああああーーっ!」


 直下の至近距離で、灼熱の暴風に吹き飛ばされる。


 軽く十数メートル地面を転がされ、全身を強く打った。


「う、ぅ……っ」


 打ち身が酷い。

 呻きながら、何とか全身に力を込めて立ち上がろうとする。


 が。


「あ、っづ、ぁ——!」


 至る所が、熱線を浴びて、焼け爛れていた。

 力なんて、入るわけがない。すぐさま崩れ落ちて、蹲ってしまう。


 熱い、熱い熱い。


 喉が焼けて、熱い。掠れ漏れる息すら、死を予感させる味がする。

 火傷した四肢が、痛い。全身何処にも、生きるための術がない。


 一瞬にして、ボクの表面が焼き尽くされた。


 それでも、吹き飛ばされたのは幸いだった。

 海水すら蒸発させる超高温の大気の流れ。


 あと少しでもあの場に留まっていたら、ボクも同様に蒸発していただろう。


 それほどまでに、燃え盛る幽妃ちゃんだったものから放たれる熱量は上限なしに壮絶だった。


 巨大な熱の塊が、そこには在った。


 地上の太陽とさえ、見紛うほどに。


 晴天の下、日輪は永久に燃え続ける。

 駆け抜け熱せられた空気でさえ、近寄るもの全てを灰燼に帰す。



 其れは、不死焔。


 巫女の少女に受肉した、西方の太陽、その化身、ベンヌ。

 ある星界せいかいの原初の海にて生まれ出た太陽神ないし創造神は、青鷺の姿で始まりの丘に降り立ち、そこから多数の神格を生み出していった。その星界の時ですらも、その青鷺の鳴き声によって動き出したとされている。


 イシェドという現存しない木の上に留まり、太陽の魂として炎に飛び込み死に、そして再生を毎朝の様に繰り返すという性質は、伝承に残るフェニクスの原型となっていった。

 本来、古代におけるフェニクスには死と再生も、炎という属性も存在していなかったというが、伝承が習合し伝播していくなかで、その在り方は変わっていく。

 結果として、現在の不死と炎の聖鳥という性質を、彼らは手に入れていった。


 其の中に混じってしまった存在こそが、悪意であった。


 悪魔であった。


 此れこそが、富詩焔。


 上書きされていく。

 物語の記憶域に見せつけるように、文園幽妃という肉体の記録が、塗りつぶされていく。


 新たな存在の薪となるべく死に、新生する悪意に成り代わってしまう。


 やがて、彼岸花の紅も明くなる。


「う、そ……」


 文園幽妃は、その魂と呼べる核以外の、器の全てを抹消された。


 果てに——巫女は輝炎きえんに捕食された。


 その最後に、太陽の輪郭は巨大な鳥を象った。





 ——咀嚼し、呑み込み終えたとでもいうように、炎の音は気付けば静まっていた。


 揺ら揺らと、音もたてず、人程の小さな火球へとサイズダウンした焔は、徐々にその高度を下げる。


「な、なにが……」


 全身の火傷で動くこともままならないボクは、その様子をただ、呆然と眺めることしかできなかった。


 吹き飛ばされたボクから少し離れたところで、焔は真下へとゆっくりと降下し、地面に着地する。


 着地、とは。文字通りに、その焔には足が生えていた。


「あア……あア……ハハハ、ハハ……!」

「……!?」


 よく見れば、足だけではない。


 焔は人の形をとっていた。

 児戯のように、炎と鳥と人をツギハギに合わせたらきっとこんな形になる。

 身体の炎は関節といった一部のみで激しく燃え盛り、それ以外は赤い人型の実体があるようにも見えた。


 目の前の存在を形容するならば、悪魔、という言葉以外、在り得ない。


 表情筋の一つも見てとることのできない顔の、どこから声が発せられているのか、独特な抑揚で悪魔は含み笑っていた。


 太陽の如き焔は、実体を持つ怪人へ変貌した。


「……は?」


 実体を持つ怪人?

 いや、そんなことより。


「ゆ、きちゃん……は……?」


 誰に問うわけでもなく、口から零れ出た。

 幽妃ちゃんはどうしたのか、と。


 目の前の悪魔が肉体を持つというのなら、あれが肉としているものの元は、どう考えても、そういうことじゃないか。

 でもそんなの、あるはずがない。

 あっていいはずがない。


 律儀にも、呟きに悪魔が「あン?」と声のした方に反応し、向き直る。

 つまり、ボクと目が合った。


「……」


 無抵抗に這いつくばるボクを悪魔は見据える。

 それは実際に経過した時間としては一瞬だったのだろう。

 しかし、渦のような深い悪意に満ちた瞳孔に睨まれたせいで、ボクには一瞬の視線が数十秒、数分、数時間にも及ぶ永遠とすら思えてしまう。


 だが数秒と経たないうちに、目の前の怪人は顔面部分にあたるどこからか声を発生させた。


「あア……それはだな。もウくっッちまった……!」

「な——」


 さも当然のように、悪魔は言い放った。


 言葉を失う。


 喰った。

 捕食したと、幽妃ちゃんを食べたと悪魔は言った。


 幽妃ちゃんの中から這い出た灼熱の太陽は、悪魔のあぎとであり、舌であり、胃袋。


 込められていたのは、明確な悪意。


「あ……へ?」


 ここにきて、漸くようやくボクは実感した。


「幽妃ちゃん、が……死んだ?」


 顔の無い怪人の、嘲笑の気配が漂う。


「礼を、言ウぜ。この女には、アイディルっッてモノの要素が混じっッていた。多分、元からそうデザインされたンだろウ。だから、手前が理想の偶像をただの女に成り下げてくれて、感謝してる」


 何を淡々と述べている?


 今、こいつはボクがどうしたって言っている?


 思考を辞めろと、本能が叫ぶ。

 だが、一度開始された情報伝達は、前頭前野を駆け巡り、言葉の意味を処理していく。


 幽妃ちゃんが、殺された。

 殺された。


 なんで、突然、こんな、ことが?

 どうして、燃えて、この化け物が?


 アイディルの要素、なんのことだ、分からない。

 デザイン、されていた。幽妃ちゃんが苦しむのは、そのせい?


 手前……ボクのことだ。

 それが理想の偶像を、ただの女に成り下げた。


 そのせいで、この炎の怪人は、幽妃ちゃんから生まれ出た?


 偶像を、変質させてしまったから?


「あ……」


 それら全部、ボクの行為が引き金となったということか。


 理想の存在として、在り方をデザインされていた少女を、ボクが変えてしまったせいで、悪魔が生まれるきっかけを作った。


 人に近づくと苦痛を生むという幽妃ちゃんの症状は、宿主を傷つけるためでなく、危険を知らせる警鐘だった。


 それをボクが、壊してしまった。


 あれ。それじゃ、まるで。


「凄えな、この女。魂が人間にしては美味に過ぎる」


 ボクは始めから、幽妃ちゃんの命を奪う手伝いを、していた……否。


「──あ、ぅ……ぁあ、あっ」


 ボクが、幽妃ちゃんを殺害した?


「そ、れ……なんで」


 思考が滅茶苦茶になる。


「なんでだよ! それぇ!」


 叫んだせい。焼き切れた喉から血が滲む。


「そん、けふっ……なのって、うそ、ちが……っ!」


 そんな事はお構い無しに、錯乱した思考は声を上げずにはいられない。


 身動き一つ取れない体で悪魔を睨んだ。


 恨むなら、お門違いにも程がある。

 アイツは勝手に生まれただけ。


 幽妃ちゃんをそうしたのは、ボクだと言うのに。


 悪魔が最初から居なければと、怨恨を向ける。


「返してよ!」


 どう考えても人類の敵対者であるものに対して、無力な子供が、愚かしく吠えた。


「返して、幽妃ちゃんを……返して──ッ!」

「あ、ア?」


 変えようのない現実が認められない。

 目前の存在がどれほどの怪物であろうと関係ない。


 幽妃ちゃんはお前なんかの為に死んだんじゃない。


 返せ。ただ、消えて、それで幽妃ちゃんを返せ。


「返せよ!……ごほっ、ぅ、ぁ」


 無理を言わせて使い倒した喉が悲鳴を上げる。

 もう、掠れた声しか絞り出せない。声を上げようと息を吸えば、口から噴き出した血液が張り付いて、喉を塞ぐ。

 空気を求めて、身体を持ち上げ、必死に足を引きずり這いまわる。


 今のボクは、死に藻掻く矮小な虫と大差ない。


 その様子は、悪魔にどう映ったのか。

 心底、煩わしいとでもいうような溜息の音を出した後。


 ゆっくりとボクの方へ歩みを進めた。


 じゅわ、じゅわ。

 何かが、急激に熱せられては溶けていく音。


 それは、砂浜の白い粒が悪魔の脚に踏みしめられるごとに、赤熱し融解する音だった。

 それは悪魔にとって、異常でも何でもない当たり前の事象なのだろう。


 小さな生物の死すら認識せず、人々が地面を歩いているように。


 もしかしたら、彼に敵意を向けなければ、声を上げなければ、悪魔はボクを認識すらしなかったかもしれない。

 助かったかもしれない。


 けれど、矮小な虫は上位者に煩わしいと思わせた時点で、終わりなのだ。


 横たわるボクの目前で、悪魔は佇んでいた。


「ぅっ——ぁ、っ!」


 熱い。

 焔の具現は、近くに在るだけで、通常の生物の肉を焦がす。

 このまま近くに彼が立っているだけで、ボクはじわじわとローストされるだろう。


 だが、悪魔がそれほど気が長いわけなんかなくて。


 いつの間に手にしていた真紅の剣を、僕の背中に据えて。


「うるせえよ」


 見下したまま、地を這う弱者を串刺した。


「ご───ふっ!」


 どくんっ、と大きく体が跳ねた。


 極高温の刃が、背から腹に垂直に、突き刺さっていた。


 瞬間、世界がじかじかと、明滅を繰り返す。

 肉の組成がバラバラになる、骨の芯が溶けている、臓器が溶けて混ざり合っていく。


 痛みなどという言葉では表せない。

 脳の限界を超えた激痛と熱に、痛覚がシャットダウンした。


「——、——!!」


 悪魔は既に突き刺した剣を引き抜いていた。


 しかし腹には異物が残ったような、不快感が神経感覚をかき乱し、嘔吐感が込み上げてくる。

 どぷりとした、悪性の炎の塊が、体内を暴れまわっていた。


 熱せられた血液が背から間欠泉の如く噴き出し、たちまちに気化する。


 瀕死の身体は絶叫すら上げられない。

 激痛に身体を捩る事すらままならない。

 ボクは程なく死を迎える。


 興味を失った悪魔は剣を消滅させると、向き直って踵を返し——。

 

 ぼう、と炎で編まれた翼を広げた。


 同時に、大気が火を帯びる。

 前肢の変形でなく、四肢動物に翼が追加しているという、生物の法則すら凌駕した異形の骨格フレーム

 

 身体の数倍は有しているであろう不定形の巨大な翼は、羽ばたくだけで火の粉が舞い、地面に火焔が立ち昇った。


 地獄の様相を呈した灼熱の世界の中、悪魔は周囲の状況も気にせず、自身を翼で覆い、地面に深く姿勢を沈ませる。


 どばん。

 大地を爆ぜさせて、直上へ飛び上がった。


 爆風で、致死量の熱を含んだ砂塵が散乱する。

 飛び立つ余波は、虫の息の命に致命的な損傷を与えていた。


「………………」


 翼を持った焔は、空中で方向を変えると、晴天の彼方へ飛び去って行った。



 ***



 一筋の赤い光が、空に軌跡を描く。



 ————後に残されたのは、もう全てを排出したあとの、人だったものだった。


 何も、残っていなかった。


 肉体は既に燃え尽き、使い物にならない。

 命は既に底が見え始めている。

 見つけたはずの少女はその存在ごと奪われ、簒奪者は彼方へと飛び去った。


 遺失者に残されたのは、残滓にも近い意識だけ。


 炎の波が、寄せては返す。

 白熱し、どろりと溶けた砂粒は、大地の形を不明瞭にさせていた。


 きっとそれは、見える世界が朧気になっているせい。


 あれ、なんだか何も見えないな。なんだか何も、聞こえない。


 遂には意識さえも、深いところに沈んでいく。

 微睡みの底に移ろっていく。


 諦めを認めようとしない子供じみた我儘だけが燻っていた。

 然し、どれだけ抗ったところで、既に終わった物語が続くことなんかない。


 そして、次第に瞼が閉じられる————ことはなかった。


「……?」


 意識はとうに現世うつしよを離脱していた


 虚ろの世界。ボクはただ、海月の様に虚空を漂っている。

 視界には、一面のしろ色が広がっていた。


 けれど、深く沈んだ混濁の大海は、決して夢ではないらしい。


 漂う流れの中で、ちらりと青白い光が目に留まった。

 透き通った、暖かい光。


 光と情報の飛び交う世界の中で、一層強い輝きを帯びた優しい色。


 その光が伸びる元へ視線を辿っていくと、自身の両腕に蛇のように巻き付いた痣が見える。


 痣────。


 ふつう、人間の腕に光る痣など存在するわけがない。

 そもそもこれは、ボクが持つべき光じゃない。

 ボクという記憶を覗き込む、混ざりものの遺品のはずだ。


 だからそこでボクはボクであって、ボクでない総汰おれであり、智富世わたしだと自覚する。

 今まで見ていたものは、過去の記録なのだと思い出した。


 ここは、総汰、智富世、歩の三人が作り出した過去の再現劇場。


 智富世の種を通し、総汰の共有を通し、歩の記憶から、過去として記録された宇宙そのものを模倣し現実として再現したジェネシス・リアリティ。

 故に演者は全て、その魂以外、当人である。


 同時にこの劇場は、過去に望んだ彼らが観客として存在する今であった。


 極度の再現率を誇る現実の現身は、過去の記録を保有するという性質から、知識の種・形相の腕に現実世界の魂さえ知覚させる。

 つまり、この空間では座標に関係なく、現在の状態に関係なく、捕捉した魂への干渉を可能とした。


 ならば当然、勿論。彼らが求めたのは、今、現実にいるはずの無いひとで————。


「歩くん」


 りんと、細く軽やかな声が、漂う彼らの耳を背後から刺激した。


「————な、んで……」


 もう、現実では久しく聞いていなかった声。

 失ったばかりの懐かしい声に戦慄さえ覚えてしまう。


 在り得ない。


 今ここにいるのは、在り得ない。

 居て欲しくないわけじゃなくって、むしろ居て欲しいのだけど。


 それは手遅れになった過去のはずだ。

 だからボクは誰かを傷付けてでも、過去を取り戻そうとしたんだ。


 なのに、どうして。


「幽妃ちゃん……!?」


 振り返る先には、存在を食われたはずの、既に過去の記録となった少女が佇んでいた。


「半年ぶり、だね」


 居なくなった日から何も変わりのない笑顔で、彼女はボクを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る