第十九話 『ちっぽけな理由は、えてして当人には必死になれる起爆剤になる』
「ハッ、ハァッ……」
高校を出てからどれくらいたっただろうか。
そこに幽妃ちゃんがいるなんて確証もないのに、ボクは全速力で走っていた。
市内の北の方に位置する高校から、南側に広がる海辺の地域までは相当な距離がある。
しかも、長約市の海岸線は長いから、探すのには手間取って、その姿を発見するころにはもう限界なくらいに息が上がっていた。
少女は、海沿いの一番西側、夏でも海水浴場としては人気の少ない、小さな砂浜で見つかった。
まるでボクがいつか辿り着くことを予感していたように、静かに少女は佇んでいた。
もつれ気味な足音に気が付いて、海を眺めていた少女は振り返る。
長い、白い髪が広がった。
「分かっちゃうんだね」
困ったような、小さな微笑が視界に移った。
久々に、幽妃ちゃんの顔を直視した、そんな気がする。
実際、夏休み以降、会っていなかったのだから、久しぶりと言っても過言じゃないだろう。
「はぁっ……わっかんないよ……だから全部回って、探したんだ」
乱れた呼吸に、膝に手を置いて息を切らすボクを知ってか知らずか、幽妃ちゃんは、その笑顔を少しだけ悪戯なそれへと変えてみせる。
「でも、見つけてくれた」
「……っ」
白い砂粒と、蒼が広がる単純で雄大な風景にさえ、透明な少女は溶け込んでいる。
久しぶりだったからだろう、思わずボクはその景色に見惚れてしまって、しばらく声を出せないでいた。
幽妃ちゃんはそんなボクの様子を、ふふ、とにこやかにいつまでも眺めている。待っているような視線の中に、どこか愛おしいものを見るみたいな感情が混じっていたことを、勘違いではないと思いたい。
きっと幽妃ちゃんは、このままボクが何も話さなくても、いつまでもこうして待ってくれるだろう。
でも、ボクはゆっくりと、しかしはっきりと言葉が伝わるように口を開く。いい加減、何か月も話していなかったのだ。色々話したいことはある。
けれど、まずは幽妃ちゃんに訊きたかった。
「学校、戻ってこないの?」
その質問に幽妃ちゃんは細い眉を顰める。
幽妃ちゃんも、それを聞かれるのは分かっていたんだろう。考えるように少しの間を置いた。
「……ごめんね」
それだけ言った後、彼女は口を閉じてしまう。
「ごめんって、なんで」
理由になっていない。それじゃ何も分からない。
問い詰めたいけれど、幽妃ちゃんをそのせいで困らせるのも嫌だった。
幽妃ちゃんは自分のことを話したがらない。なんとなく、事情があるのは分かってる。それを知っているだけでいいじゃないかってそう思ってしまう。
幽妃ちゃんはボクに知られることを怖がっている。ボクも、何かを知ってしまうことで何か、取り返しがつかなくなってしまうことを恐れている。
二人とも、臆病なんだ。
だから、何も進まない。だからボクの知らないうちに、幽妃ちゃんの中の何かが進んでしまっている。
知ることを怖がっているせいで、知らないうちに起きて欲しくないことが起こっている。
それって、ただボクが怖い事実を知らないままでいたいと、そのまま悪い事態が進んでしまえばただの悲劇だったと消化できると思っているだけ。
それは、絶対に、嘘だ。
そうやって目を逸らしても、ボクは遅くなった現実に耐えられないことくらい、分かっている。
遅くなってから早く知っておけばよかったと、過去の自分を拒絶するのは目に見えている。
だから、ボクは一歩、幽妃ちゃんの方へ進んだ。
「ねえ、幽妃ちゃん。きちんと教えてくれない?」
ちゃんと、聞かなきゃ。
「……」
一歩進むボクに、幽妃ちゃんは後ずさる。
「だって、事情もないのに学校に来ないなんて絶対おかしいよ」
「……でも」
「急に倒れかかるのだって、普通じゃない。心配するよ、あんなの」
「……大丈夫だよ、あれは平気なことだから」
後ろに下がった分だけ、ボクは進んで距離を詰める。
「きっと、幽妃ちゃんが話してくれないのは、優しいからだよね」
「違うよ。私は卑怯なの。歩くんに知られるのが怖いから、言いたくない」
幽妃ちゃんもその分だけ後ろに下がるから、ボクたちは手が届くか届かないかの距離で、縮まない。
「うん。やっぱり優しいんだよ、それって。ボクが君に嫌な気持ちを抱かないように、隠してくれてる」
「分かってるなら、どうして……?」
幽妃ちゃんの疑問は至極真っ当だ。好意的に思っている相手に嫌なところなんて知られたくないし、知りたくなんかないのが普通。
それをわざわざ暴こうとしているのだから、おかしいのはボクのほう。
「信じて、もらえないだろうし……それに、信じても、きっとあなたは苦しんじゃうよ」
「なら、黙ってたら良くなるの? 聞かないでおいたら、いつか幽妃ちゃんは学校に来るの?」
「それ、は……」
珍しく、幽妃ちゃんが粘り強く食い下がる。こういうとき、彼女は芯が強い子なんだって、思わされる。
「全部、聞くよ。どんなことでも、信じるよ。それでボクはきちんと受け入れる」
「だから、私は歩くんを巻き込みたくないんだよ。そうやって、すごく、優しくしてくれるから」
うん、やっぱり。
幽妃ちゃんはどこまでいっても強くて、優しい子なんだ。
きっと、幽妃ちゃんの抱えているものは、彼女を苦しませるものだ。
そしてそれは、誰かに話したところで変わるものではない。少なくとも、ボクでは力になれないものだと、幽妃ちゃんは思っている。
そうだ。ボクは普通の、下手したら普通の男子より弱っちい高校生なんだから。
「歩くんに話しても、何もできないんだよ。これは私の中の問題、だから……」
幽妃ちゃんの抱えている問題を、ボクにはどうにもできない。
そして、何もできないまま、幽妃ちゃんが苦しむという事実にボクが苦しむ。
だから不要な被害者を増やさないよう誰にも言わず、一人で抱える。
当然の行いだ。幽妃ちゃんは何も間違っていない。
ボクは普通だと言ったけれど、やっぱり変な奴だと思う。
「それでも、ボクは知りたい」
「どうして」
苦しむことなんて分かった上で、ボクは巻き込んで欲しかった。
「何もできなくたって、気持ちを吐き出す相手くらいには、なれるよ」
「どうして、そんなに知りたいの? どうして、そんなに優しいの? どうして……?」
どうしてだなんて、そんなに理由を求められても困ってしまう。きっと大した理由ではないだろうから。
「だって、ボクは……」
だって、それはただの、
「幽妃ちゃんと一緒に、夏祭り、行きたかったんだよ! ボクは君よりずっと、そう思ってた。もうあんな思いしたくない!」
なんて、たった一つの、小さなエゴだったのだから。
「——!」
幽妃ちゃんは何も言わずに固まっていた。くだらない理由だって、そう思わせてしまっただろうか。
でも、一度、気持ちが溢れだしたら、もう止まらなかった。
「幽妃ちゃんが幸せそうに笑っているのを見て、ボクは幸せな気持ちになった。だから、祭りが凄く楽しみだった。だから、君が来なくて、ボクはとても苦しかった!」
「あゆ、むくん……」
全身が熱くなる。いつもだったらここで気づいて止まるはずなのに、止められない。
「学校だってそうだよ。二学期の間、ずっと来てくれなくて、夏祭りのことが気になるのかなって思って我慢していたけど、耐えられなかった! ううん、それより前、一学期だって、ボクは学校が終わればすぐに帰っちゃう君が気になって、毎日、補修でもそればっかり、一緒に帰ってみたかった!」
言い切ってしまった。幽妃ちゃんに思っていたこと全部、吐き出してしまった。
頬を、一筋だけ、暖かいものが伝っていく。こんなことを言うだけで、泣いてしまうのか、ボクは。
「……歩くん」
嗚呼、幽妃ちゃんが、酷く顔を歪めている。そりゃそうだよ。ボクの事を思って一人で耐えていたのに、それを否定されるなんて、裏切られるのと変わらない。
「あ、ちが……」
ボクはそんな顔をしてほしかったんじゃない。
全部話して楽になって欲しかっただけなのに。それで元気に学校に来て欲しかった、例え登校は無理でも、信じてくれている人が居るって安心してほしかっただけなのに。
「ごめんね。そんなふうにまで、思わせちゃったんだね……」
静かに、震える声で呟いた。
幽妃ちゃんがボクの方、正確には、ボクの隣の空間へ歩みを進める。
細い脚で、一歩一歩、確実に埋まらなかった距離を縮める。
しかし、少女の目指す先は平行線。
そのまま、ボクの隣を通り過ぎていく。
直前で、幽妃ちゃんは、ボクの隣で立ち止まった。
「ありがとう。全部、言ってくれて」
そっと、小さな白い掌が、ボクの手を取る。
「——?」
どういうこと? そう聞こうとして、幽妃ちゃんの方を見る。
潤んだ瞳が、こちらを優しく覗いていた。
「じゃあ、今度は私が、お話しするね」
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