第二十八話 『星空は少女達の為の日常』

「やっぱり、助けてくれたね」


 白い光の中から、貴女は生まれた。

 ゆきげしき。そう見間違えるくらいに柔らかな光から、文園幽妃という名の貴女は二度目のからだを得た。


 幽世かくりよひめ


 きれいな姿に大した変わりは微塵も無い。

 けれどほんの少しだけ磨きがかかって、なんだかその「きれい」は人間離れじみたかもしれない。



 それは、自分で勝手に思い込んでいるだけ?



 ──notいいや.



 絶対に、その感情は勘違いなどではないと、確信できる。

 何故って、ボクは命を辞めたひとでなしなんだよ。

 一分一秒一瞬、寸分たがわずに、全ての記憶を鮮明に思い出せる。

 忘れるという機能が無いんだ。

 完全になったらしい、非完全のボクは。


 姿を覚えている。

 声が焼き付いている。

 匂いに満たされている。


 思い出を、思い出せる。


 溺れたせいで着ていた水色の病衣から。

 溢れたせいで真っ赤に染まった服の色まで。


 貴女の何もかも、覚えている。


 だから本当に、貴女の姿は変わったんだろう。

 それはきっと、ボクのせい。


 ひとでなしに造られた身体。

 蝕まれた核から再構成した魂魄。


 記憶が再構成させた貴女の器は、命としては不自然なまでに完璧なんだ。


 これじゃまるで、貴女もひとでなし。


 それでも、変わっていなかったものがある。


 心と思い出。

 生まれ変わりでさえ覆らない、確かな色を持ったから。




 ボクたちひとでなしはずっと、過去のおもいと生きていく。


 ボクらは好きって気持ちを、爆発的で刹那的な感情を永久に燃やし続けることになる。


 だからきっと、精一杯大事にしようって思うんだ——。


 運命の少女を————。


 ***


『おっつかれさま~~~~っ‼』


 ぱあんっ、という大きな破裂音と、色とりどりの紙吹雪。

 ここは高層マンション、カエルムパピサにある祈織の自室。

 長約市での戦いから少し経ったお昼時、フェネクスを倒した俺たちは、大量のクラッカーとファンファーレによって迎えられた。


 玄関に入るや否や、少々ハイテンション気味に迎えたのは、もちろんエルピス。

 彼女が放った祝砲はただのエフェクト、ホログラムのはずであるのだが、紙吹雪は実際の現実空間に出現していたので、その結果、一番前に居た祈織は顔面をカラフルまみれに埋め尽くされる形になって。


「あんたね、限度ってものを知りなさいよ」

『……ゴメンナサイ』


 なんてお叱りの言葉で、俺達の日常は再び始まった。


『こほん。それでは気を取り直して……フェネクス討伐クエストクリア、おめでとーー!』


 玄関を通って全員が居間へと揃うなり、いつもの調子を取り戻したエルピスは注意されたばかりのファンファーレを響かせた。


 ぱんぱかぱーん! なんて。


 こういう時、俺は場を仕切ったり、盛り上げたりするのが得意というわけではないので、エルピスのお調子には感謝している。

 祈織もそれ以上の非難はせず、そわそわと慣れない様子の歩に肩の力を抜くように促していた。


 集まっていたのは、祈織にエルピス、俺、智富世、歩、そして幽妃の六人。


 これだけの人数を中に入れても、リビングルームは狭苦しく感じることはなく、むしろ広すぎると思えるほど。

 人を集めるのにはうってつけの住まいである。


「で、流れでそのままあたしの家に来たわけだけど……どうする? あたしはちょっと電話してくるから、あんた達で決めていいわ」


 そう言って、早々に家主は別の部屋へと移動していった。

 移動していってしまったので、決定権は最も祈織の部屋に出入りしている俺へと自動的に移る。


「……俺達で決めていい、だって」


 しかしそこで俺は、この幼馴染の部屋に慣れているからこそ、迷ってしまう。


 シンプルで学生らしい、いわゆる打ち上げ?

 それでもいいのだが、ここは世界一のお嬢様、祈織の部屋。


 『機能性とデザインを兼ね備えた飾らない住居』のはずなのに、なんだってあるのだ。


 エルピスに頼むだけで何処からか出現する様々なカードゲームやボードゲーム。

 オートメーションで本格的————という矛盾した調理器具。

 二階の倉庫の中にはオーケストラが組めてしまうほどの様々な楽器類すら眠っている。

 ビデオゲームだって、最新機器からゲーム&ウォッチよりも前に開発されたという相当に古い機種まで揃っているらしい。

 そういえば、準備も片付けも面倒なので滅多にやらないが、スイッチひとつで小さなバスケコートなんかも作れてしまうのだっけ。


『そうそう、でっかい敵を倒したらと言えば、シャワルマもあるよ‼』


 ……とまあ、なんでもある。


 なので、俺の家でも出来るようなものでは仕方ないだろう、なんてくだらない事をつい考えてしまう。

 日常と非日常の境を、人は大抵特別なもののように感じるものだ。


 だが、迷っているうちに、先程まで落ち着かない様子だった歩に、「あ、あの」と声を掛けられた。


「ん、何?」


 と振り向くなり、俺の方へと瑠璃色の頭が下げられていた。


「お二人共、この度は、何から何までごめんなさい。それとありがとうございます!」


 突然なお礼の言葉に、少々の戸惑いを覚える。

 俺が反応に困っていると、幽妃も歩と同様にゆっくりと頭を下げて、


「ありがとう、ございます……」


 音の一粒一粒にすら丁寧な響きを含ませて、言葉を紡いだ。


「お詫びとお礼は、ぜったいします!」

「大丈夫。高校生に謝礼を求めるほど、大人気なくない、よ。でもありがとう」


 勝手に相手の感情を感じ取って、勝手に助けると決めたのは俺だ。

 だから俺に対してのお礼とか、そういうのは必要ないと思う。


「……でも智富世や祈織には、俺からもお礼しないと」


 状況が状況だったとはいえ、彼女たちは俺の我儘に付き合ってくれた。

 命の危険さえ伴っていたというのに。


 しかし、智富世は俺の言葉に少し呆れたように微笑した。


「別に、そんなの必要ないわ。私は自分の思いに従っただけ。総汰はそう言う他人に甘いところばかり、フィリアに似てるんだから…………あっ」


 そうきっぱりと断ったかと思うと、智富世はすいーっと部屋の奥の方まで進み、テレビの前で一つの小さな物体を手に取った。

 幾つものボタンの付いた、両手で握るのに適した形のプラスチック製の精密機械。


「ねえ、総汰。これがテレビゲームってものよね、触ってみてもいいのかしら……?」


 コントローラーと近くにあった薄型のゲーム機本体を、わざわざ種の権能まで使ってまじまじと興味深そうに見つめている様子を見ては、駄目とは言いにくいだろう。


「ああ、うん。構わないと思う。……ええと、その上のボタンが電源、ああ、起動装置ってやつ」

「……電源という概念なら、私も知っています」


 別世界を馬鹿にしないでと言わんばかりに、少々頬を膨らませた智富世は、いつもの印象とは落差があって可愛らしい。

 恐る恐る彼女がボタンを押すと、ゲーム機が立ち上がったと同時に、テレビの電源も起動し軽快な音を鳴らし始めたため、そこでまた智富世は肩を一瞬強張らせていた。

 恐らく、自然体の智富世はこちらが素であるのだろう。


 と、テレビに映し出されたゲームのホーム画面を見て、声を上げたのは歩だった。


「わ、ボク、これ遊んでみたかったんです。家にゲームとかなくって」

「今どき珍しいね。ああでも、俺も妹が居なかったらやっていない、か」


 画面に表示されていたのは、世界的にも有名な対戦アクションゲームだった。

 対戦相手のHPを減らすのではなく、相手を画面外に吹き飛ばして撃墜するというゲームルールの、大抵の男子なら学生のうちに一度は遊んだ事があるであろう、ゲームを普段遊ばない俺ですら知っているほどのメジャーなゲームである。


 コントローラーの数はゲーム機の対応上限の八つと更に予備が八つ。全てゲーム用の引き出しの中に収納されていた。

 そこから俺がコントローラーを取り出して、歩に手渡す。


「……」


 だが、コントローラーを受け取った歩は、すぐにそこから動こうとはしなかった。


「ン、どうしたの?」


 俺の声に反応もせず、歩はどこか嬉しさと、しかし悲しみも同居したような、複雑な顔をしてコントローラーを見つめている。

 心なしか、若干、身体が震えているようにさえ見えた。


 智富世は、心が読めているのであろうに、何も言葉を口にしない。

 しばしの沈黙が空間を満たす。


 しかし、意を決したように彼はうん、と強く頷いた。

 そして、幽妃の方へ振り向いて、ほんの少しだけ上ずった声で、言った。


「……幽妃ちゃんも、遊ぼう?」


「あ……!」


 ————そうか。


 記憶を覗いたからこそ、俺は知っていた。

 歩が逡巡した意味。あれは、感動か。


 彼ら二人は、一緒に遊ぶなんていう、当たり前の日常すら送ったことが無かった。

 ただ、ゲームに共に興じる。それすらも彼らにとってはようやくたどり着いた日常なのだ。


「……うん!」


 幽妃は歩から受け取ったコントローラーを握ると、噛みしめるように力強く頷いた。


「そっか、なら……ハハ……ゲームから、だね」


 俺は自分が贅沢に慣れてしまっていた事に気が着いて、声に笑い声が混じった。


 特別なパーティなんてものにする必要はない。

 むしろ、彼らにはこういった日常の一つ一つを噛みしめていくのが重要なんだ。


 智富世だって、この世界の情報を一部知っているのだとしても、目にするもの全てに本当は心を惹かれているんだろう。


 ならば、道理として当たり前の遊戯ゲームがここでは非日常ということになる。


 つまりは————これも特別なのであった。

 悪魔を斃したなんて血塗られたものではなく、初めてのパーティという大切な記念の。


「よし、じゃあ、遊ぼうか!」




 ***



 四人の内、ゲームをプレイしたことがあるのは俺だけとはいえ、自分自身、前述の通りゲームを遊ぶ方ではない。

 昔から妹や祈織が遊んでいるゲームに混ぜてもらって楽しむくらいであり、クリアしたことのあるゲームもモンスターをボールで捕まえるシリーズのゲームだけである。


 なので、エルピスにも手伝ってもらいながら、一通り操作方法を全員に教えたところで、結構な時間が経過してしまっていたため、俺は一度飲み物を取りに冷蔵庫の方へ向かった。


「智富世、コントローラーを逆に持ってたな……お、戻ってきた。……祈織」


 すると、ちょうど上層階部分へ続く階段から、祈織が居間へと戻ってきた。


「ええ……って、ゲームしてたのね。まあ、あの子たちからすると珍しいか」


 言いながら、彼女は俺と同様にキッチンまで来るなり、ガラスのコップを白く滑らかな箱に突っ込んだ。

 ドリンクサーバーであるらしい。

 箱は入れられたグラスに反応して、側面に緑色のネオンを刻むと、透明な炭酸飲料サイダーを注ぎはじめた。

 お嬢様の割には、祈織は意外とそういう俗っぽい食べ物とか飲み物が好きな人なのだ。

 好きな食べ物はアメリカの有名実業家トニー氏よろしくチーズバーガーである。


「……電話、悠にしたの?」


 俺の問いに祈織は小さく頷いた。


「そ。協力してくれたわけだし、うちに来ないかって誘ったんだけど……」


 それはちょうど、俺も不思議に思っていた事だった。

 俺達のために————本人は祈織の為というだろうが————情報を集め、フェネクスの三つの姿の内、一体を撃破したのは俺と祈織の幼馴染である閏海悠という青年なのである。その昔、彼が俺達の前で手にした力は、何かしらの現像の種であったのだろう。

 だが、彼は今、この部屋にいない。

 祈織が関わるのであれば必ずと言っていいほど、彼はどこへだって駆けつけるというのに。


「断られたわ」

「えっ!?」


 思わず、大きな声で驚いた。


「あの悠が?」


 在り得ない。

 あの本人にも隠さないレベルで祈織に好意を寄せていること以外は完璧超人と言われるほどの男が?


 俺の反応が珍しく映ったらしく、祈織はなにそれ、と吹き出して笑った。


「僕は君と総汰以外を知らないわけだし、単独行動の僕が行ったところで場を白けさせるだけだろう? だって。……代わりに今度デートに誘われたわ。完全に後者が目的じゃない」

「ああ、そういうことか……」


 結局、抜け目のないヤツだ。

 悠の積極性はいつも、俺達の予想を超えてくる。

 思春期を迎えた時代から、彼のスタンスは今も変わらない。


 しかし、今回はそれを止める理由もないだろう。

 俺達の見えないところでの彼の活躍は、大きかったのだし。


「行きなよ。悠も悪魔を倒してくれたんだから」

「……それも、そうだけど」


 祈織は少し歯切れを悪くして、ぶつぶつと答える。


「まあ、私も行きたくない訳じゃないし」


 ————と何処か妙に納得いかないような、そんな反応だ。


「まあ、行くって答えはしたわ」


 んん……と間延びした声で唸って、祈織はグラスを傾ける。

 強炭酸のサイダーの泡が、形の良いの唇の上で数滴弾けた。


「……ならあんたは、そういうことでいいの?」

「ん?」

「智富世のことよ」


 何故、突然そこで智富世に繋がるのだろう。

 話の要領を得ない俺が首を傾げていると、祈織は眉を顰めて溜息をつく。


「どうせあんた、あの子に目を奪われでも、したんでしょう?」

「……あ」


 祈織らしくない、婉曲な言い回し。

 しかし、何を言わんとしているかは、その言葉だけで理解できてしまって、言葉に詰まる。

 人の感情が色で分かってしまうというのは、こういう時、非常に不愉快だと思う。


「だから、もう、つまり…………あたしは」


 言い淀んだその先の答えを理解できないほど、俺は疎い人間じゃない。

 フィクションの主人公みたいに鈍感であったら、どれほど楽なのだろう。


 最初から俺がそんな問いへの答えなど持ち合わせていないことを分かっているだろうに、彼女は見かねるような素振りでもう一度大きく溜息を付いた。


「……ううん、これは言わぬが花で、知らぬが仏というやつかしら」

「む……」

「そうやって返答に困った時、むって唸るの、昔からの悪い癖よ」

「……ごめん」

「別に、謝る必要はないわ。もう……この事は仕方ない、先送りね」


 話を切り上げるように、祈織は残りのサイダーをグイっと飲み干すと、残された氷の音がからりと鳴った。


「ほら、行くわよ」


 伸ばされた手を取ると、強めに腕を引かれる。


「さぁ、あたしも混ぜなさいっ! 智富世、あんたが心を読んだって無駄ってこと、教えてあげる!」



 ***



 それから俺達は午前から子供らしく格闘ゲームやレースゲーム、パーティゲームといった様々なゲームをひたすら遊び、ひたすら食べては気づけば月が顔を出していた。


 我を忘れて遊ぶというのは久しぶりな気がする。

 そういう暇が皆無であったというわけではないが、最近は祈織も悠も、何処か忙しそうにしていて、俺のような一般人だけが毎日を浪費していられたのだ。


 ゲームの勝率は智富世が三割、どう見たって手加減して勝敗を調整していた祈織が四割、歩と幽妃の二人チームで三割、俺がゼロ割というところ。ゼロである。

 俺含め、ゲーム初心者が多数を占めているというのに、この結果はおかしいだろう。


 一旦、休憩と席を外し、木目のフローリングを歩いて窓の方へ。

 雲の殆どない空に浮かんだ月は、満月から三日分ほど欠けた形をしていた。確か、居待月と呼んだはずだ。


 俺達の居る部屋と同じ高さにまで背の伸びた建造物はこの街にただ一つとして存在しない。

 もはや砂粒のようにしか見えない車が行き交う街の中心街を見下ろしながら、背筋を伸ばす。

 ほんの少しだけ、肩が楽になっていくような錯覚がした。まだ、人の感覚が残っているのだ。


 そうして身体を休ませていると、今度は智富世が窓際まで歩いてきた。

 居間の奥では、エルピスが彼女の為にと淹れ始めたホットココアが甘い匂いと共に湯気を立てている。


「智富世も、休憩?」

「そんなところ。面白いわね、この世界の遊びって。私の世界より、中毒性が高いと思うもの」

「ディアスポラでは、娯楽ってあまり発達してないの?」


 多少、別世界に対する礼を欠いている発言である事を自覚しつつも、純粋な疑問をぶつけてみる。

 当たり前のことだが、娯楽とは、余暇と財力があって初めて興じることのできるものだ。

 俺達の世界でも、古代からダイスや演劇を始め、多くの娯楽が存在してはいるが、恐らく現在のように溢れかえり、高度な技術を持ってそれぞれの経済圏を作れるほどにまで発展出来たのは、庶民の生活の質が向上した故だろう。


 そのため、魔術やモンスターが溢れ、王族・貴族といった層が強大な権力を有しているような世界では、人々にここまで高度な娯楽がもたらされることはないのではないかと考えたためだ。


 智富世は少しだけ首を傾けて、悩むような素振りを見せた。


「技術的に不可能ではない、と思う。ラック・ラ・シャペルの様な豊かな知識人の多い王都なら存在していてもおかしくはないだろうし。……けれど多分、一般の人々に行き渡ることはないだろうから、やっぱり難しいと思うわ」

「そうなんだ」


 やはり、いわゆる『フィクションのファンタジー世界』らしい問題とは無縁である世界というわけでもないらしい。

 一般の人々と富裕層の間には、相当な文化の隔たりがあるみたいだ。

 かといってあまり娯楽が発達しすぎるのも、ゲームから離れられない俺の妹の様な者を生んでしまいかねないので考え物だとも思う。


 とはいえ、そんなことを別世界の街に訪れたことすらない俺が考えるものでもない。


 それよりも俺には智富世に確認しておかねばならない問題があった。

 話は変わるけど、と前置いてから、気になっていた事を口にする。


「智富世、あの時に単存在の力を使ったの、自殺行為だったよ、ね?」

「……!」


 智富世は露骨に一瞬瞠目どうもくし、顔を強張らせた。

 心は読めるのに、あまり本心を突かれるのは苦手らしい。


 聞いてほしくなかったことを聞かれた、といった態度を隠せないで、眉を落とす彼女に追及を行うのは俺だって心苦しい。

 智富世を傷つけたいわけではないのだから。


 けれど、俺は理由を聞いておかねばならなかった。


 フェネクスを倒すため、智富世はメデューサ=ユニとしての力を使った。

 フィリアに残された記憶が正しければ、彼女はその力で目にするもの全てを停止させてしまうはずである。

 あの時、彼女は成長したからと理由を付けた。


 けれどそれは、絶対に嘘だ。


 フィリアに教えられたことのひとつ。

 万象と隔絶している単存在に時間の流れは存在しない。

 単存在にとって未来で可能なことは現在でも可能であって、もし、過去にできなかったことが今、出来ているのなら、それは単存在自身が自らの本質を否定し、歪めて認識している場合だけだという。


 でも、そんなことを分かっているだろうに、彼女はあえてそう零したのだ。

 だからあの場では彼女にそれ以上の追及を憚った。


「むやみに使えば、きみはきっとまた元の力を取り戻す」


 きっと、過去の出来事が原因で、智富世は自らの力を封じてしまっていた。

 単存在という自身の変えようのない存在証明から、目を逸らしていた。


 だからもし、彼女が単存在としての力を使うのなら、それは自らが静まる単存在であることを意味する。

 もう一度、自身を人の世界に紛れ込んだ異物として定義することに他ならない。


 再び、彼女は森羅万象を凍結させる存在へと逆戻りすることになるだろう。


「きみが二千年前、力を使って、元に戻れたのは奇跡だったはずだ。それをどうしてまた……?」

「ええと」


 それきり、智富世は狼狽えるように俯いてしまう。

 まるで怒られて落ち込んでいる子供みたいに。


「あ……別に怒ってるわけじゃ、ないんだよ。ただ……その力を使わなくても、きみなら他の方法であの焔を対処できたんじゃないかと、例え本当に力を使わなければいけなかったのだとしても、それがフェネクスの焔以上に世界に取り返しのつかないことを引き起こしてしまう可能性だってあったのではないかと、思っただけ」

「だって……」


 それでも智富世は答えに悩んでいるようで、黙ったまま。


 ……心の線が、緑と紫の二色羞恥に染まっている?


「違っていたのなら、謝るよ。けれど俺は嫌だったんだ。誰かの存在を拒絶するのは。似合わない。……悲しいことだから」

「分かった、分かったから……」


 はぁ、と観念したように顔を上げた智富世の顔は少し赤くなっていた。

 目端には薄っすら水の雫が浮かんでいて、これでは結局、俺は詰めてしまったようなものだ。


 すまない————そう謝ると、なら聞かないで欲しいのに、なんて言いたげな様子でほんの少し睨まれる。


 けれど、彼女は意を決したようにゆっくりと。

 硬く結んでいた唇を開いた。


「私の単存在の力を、似合わないって思ってくれたのは、嬉しかったわ。……それでもこの力は私の本質、本性みたいなもの。だから————」


 すう、と一度息を吸い込んで、一気に言い終える。


「————あなたとこれから中で、いつまでも単存在の力を不安に思われるのは、まるで私自身を怖がられているみたいで……あなたにだけは、ほんとうに絶対に、そう思われるのは、だった。……信じて欲しかったの————!」


 言い切った彼女は、まるで人の仕草のように心臓の位置に左手を当てて、肩で息をしていた。


「…………」


 俺は言葉を返すことが出来なかった。


 だって、それは何も間違っていない。

 俺は、智富世の一部である力を、軽率に否定していた。

 俺は彼女のことを受け入れているつもりで、根本的に拒絶していたのだから。


「そうか……それは、本当に俺の落ち度だった。ごめん」


『似合わない』、その言葉を、彼女はとして、喜んでくれていた。

 けれど、彼女は同時に、俺と同じであるのだから。


 似合わないなんて言葉は、間違っている。


「……だから、約束する」


 俺が本当に必要だったこと。

 智富世が本当に求めていたこと。


 それは、ただ、「智富世」を受け入れることでは、世界に流れ着いた結果の表層、しょうじょのカタチを受け入れることだけなどではなくて。


「俺は目の前の貴女というを、信じ続ける」


 そんな人間の心には過ぎた我儘を、俺は必ず叶えようと決めた。


「————っ!」


 少女の紫苑の瞳が紅い色と混ざり合って、星明りよりも明るい光で煌めいた。

 同時に染め上げられるのは、無数に伸ばされた、心の線。


 智富世の紫苑、単存在の赤。

 融け合って出来る、際限ない無限の光。


 それはまるで、彼女の宇宙がようやく鼓動を始めた、そんな錯覚さえ覚えさせて————。


 声が重なる。



「「なんて、きれい……」」



 ————光に満たされた宝石みたいに、美しく輝いていた。




 此処は、不格好な月の光のみが浮かぶ、地平の頂点。

 此処は、ひとでなしの集う、人工の非日常。


 幾年の時、幾数の世界、幾多の選択を越えて再び訪れた、少女との邂逅。




 ————此処に、幾度目の奇縁が結ばれた。














 ***














 その世界は、彼女のために存在する異界であった。


「ベレシート、バーラー、エロヒーム、エト、ハーシャマイーム、ベエト、ハアレツ。……摩糸、この意味がわかるかしら?」

「はぁー? なーに?」

「世界を作る言葉、らしいわ」


 部屋に満ちているのは、全面を埋め尽くす、明滅する星々の波光の詰まったような無数の輝く宝石群。

 対応するように覆い尽くすのは、空無という言葉の相応しい、色の抜け落ちた明度ゼロの漆黒。


 宇宙の概念を圧縮したが如き空間の中心に、彼女は佇んでいた。


 少女はどこかの文明の文字で書かれた厚い本を特に面白みもなさそうに目を通しながら目の前の少女に声をかける。


 摩糸と呼ばれた水色の髪をした少女は、自らの主人ともいうべき彼女にぶっきらぼうに受け応えた。


「そんなの摩糸は興味ないよ。もう神だとかそういう奴らとはうんざりだって、散々言ったよね、アイディル様」


 静観衛星イデア『理想的星空街』。


 ここは、理論に則った魔術の世界ディアスポラでもなく、法則に則った科学の世界イセカイでもない、世界に隔絶された少女アイディルと彼女のお気に入りだけが招かれる小さな境界。


 薄い布一枚を身に纏い、天蓋の付いた純白のベッドの上でこの世界の主は横になっている。


 彼女はただくつろいでいるだけであるというのに、観測した者の意識が想起する印象は、祭壇に舞い降りた美の威光そのもの、である。

 ここで女神と言う例えを使うのは禁句であると、摩糸は経験上の知識で理解していた。


 この印象の原因は、布の隙間から覗く透き通った肌のせいであろうか。

 足元まで伸びる、乱れとは無縁の滑らかな白い髪の輝きのせいであろうか。

 空間に満ちる宝石の全てよりも鮮やかな色素を持つ紫紺の瞳のせいであろうか。

 意識の外で行われる、ブレ一つ無い優美な所作のせいであろうか。

 伝う空気すら、耳にしたものの理性すら蕩かす清廉な声のせいであろうか。


 それとも、アイディル自身の持つ力と権限であるのだろうか。


 答は、その総てである。


 アイディルと言う女の形は、無限世界の理想を宿し、理想を押し付ける異常のである。


「よかったの? 九十九市の人たち、めっちゃ混乱してるよ?」


 摩糸が主人に尋ねたのは、イセカイ・地球・西暦二〇二三年四月八日、長約市と橋を挟んで出現したディアスポラの都市『ラック・ラ・シャペル』と入れ替わるように消滅した、長約市の本来の隣街である九十九市の人々への対応について。


 イセカイとディアスポラの混淆現象は、アイディルの意向に従って、摩糸が権限を行使し引き起こしたものであった。


 摩糸は、魔術の心得一つないイセカイの人々がディアスポラに飛ばされては、魔獣は愚か、野獣ワイルド種にすら命を奪われかねないだろうという懸念を抱いていた。

 世界を混ぜる以前から、摩糸はその危険性をアイディルに警告していたうえ、実際、混淆から二日が過ぎようとしている現在の九十九市が大混乱に陥っていることも観測しているのである。

 だが、それを摩糸に命じたアイディル本人はというと、さして興味を微塵も示さずに厚い本の続きをめくっていた。


「……目的の為に個人を無視するようなこと、アイディル様は嫌なんでしょ?」

「安心なさいな。死人は出ないから」


 摩糸がしつこく聞いたせいか、アイディルはそう言って読んでいた本を閉じると、静かな微笑みを浮かべた。


「それに……付喪の少女は、いずれ語られるもの」



【あなた達からすると……異なるリンクになりますけれどね?】



 一瞬、その微笑み一つで摩糸の心が安心で満たされかけた。

 危ない、この異常は本当に気を抜くと思考回路を持っていかれる。


「でも、ユニユニ殺すまで戻さないんだよね?」

「……」


 その言葉に、アイディルはすぐには反応しない。

 しかし、次の瞬間、彼女の微笑みが深みを増した。


「……ふふ」

「ひッ————」


 同時に寒気が摩糸へと襲い掛かる。

 本来、摩糸には存在しない鳥肌が立つという感覚が全身を覆った。


「さ、さむ……っ」


 人ではない摩糸が凍えるほどの、悪寒にも近い絶対零度以下。

 どんどん寒くなる。

 震えが止まらなくなる。


 錯覚などではなく、空間の温度が急激に低下しているのである。

 世界そのものが、彼女の威圧感に恐怖していた。


「アイディル様、やめて、寒いから!」

「うふふ。……しつこいのがいけないのよ」


 囁く声は、まるで人を虐めて楽しんでいるよう。


 否、実際にこの恐怖圧はアイディルの嗜虐心を満たすための行為である。


 ほんとう、神だろうがなんだろうがお構いなしなんだから、と摩糸は内心で呟いた。

 世界を救うだなんてこの人はよく言うけれど、まるで信じられるわけがない。


 むしろ魔王とか悪魔の方が似合っている気がする————っ!?


「ふふふふ、本当、躾ようのない悪い子ね?」

「ご、ごめんなさい~っ!」


 一層、一段と、世界が彼女の微笑に押し潰された。

 極寒が空間を満たし、摩糸の瞳に映る視界の全てが凍結していく。

 だというのに、実際の意識が認識する景色は微塵も変わりようが無くて、摩糸だけがガタガタと音を立てて、つまり物理的に骨から音を鳴らして、震えていた。


 ————もう駄目、摩糸、耐えられない!


「ぎぃゃ、ああ、あああ————っ!」

「ふふふ、ふふふふ……っ。貴女がいけないの」


 絶世の理想は、理不尽で無慈悲な女王であった。


「────ふふっ…………あら?」


 そして、ひとつの地獄を創り出すなかで。


「ああ……」


 ぽつり。


なんて概念、私は知らないわ】


 なんて、それだけは愉しくもなさげに、淡々とへ呟いた。




 ***







 総汰や智富世達がフェネクスと最後の戦闘を繰り広げていた頃。


 中心街から離れた繁華街にて。


 空を駆け巡る焔に、街は青々と照らされ、融解していく。


 フェネクスの分霊、悪魔スィージャアは逃走していた。


 元来、生命とは相容れぬ生態を持つ悪魔に、進化の過程で生命が得た恐怖という機能は基本的に搭載されていない。

 さらに踏み込めば、フェネクスから分かたれた二体の分霊の一体であるスィージャアにはアンカアと違い、自我が存在しなかった。


 その為、癲癇発作スィージャアと名付けられた悪魔の逃走は、敵性存在への勝利確率が皆無であると判断したための合理的な行為だった。


 然し。


「鈍いな」

「————!」


 接近を察知したころには、飛翔に使う蒼い焔の翼が根元から切断されていた。


 切断痕すら残らずに、翼を失ったスィージャアは地面へと垂直に落下。

 数秒立たず、当然のようにアスファルトと大地と激突した。


 飛散する蒼い焔が、黒い路面の上にぼうと一瞬燃え上がり、たちまちに消滅していく。

 悪魔が顔を上げると、そこには目の前には顔まで覆う銀色の鎧に包んだ、一人の青年の姿があった。


 ————このままでは、斬られるのが道理。


 悪魔は急速に上体を起こし、瓦礫から火花を散らして飛び上がる。

 そして追撃を試みようとして歩みを進める青年へ向け、悪魔自身のみが視認できる幻手を二つ出現させた。


 他の二体の悪魔とは違い、スィージャアに再生・蘇生能力は存在しない。

 代償として彼は起源の伝承通りの、不可視の手足による回避不能の拘束と同時に神経組織への深刻な内部異常を引き起こすという権能を有していた。


「……」


 回避不能という世界への優先権を宿す腕からは逃れることなど、事実上不可能。

 容易に青年は放たれた手中に収められる。


 だが、ここで反撃に出るという愚行は犯さない。

 勝率が皆無である以上、目の前の鎧への攻撃に意味はないからである。

 手による拘束が解けないうちに、本体への合流を図ろうと悪魔は後方へ走り出す。


「先程から芸がない」


 ————淡々とした、声が響いた。


「————!?」


 不可視の手さえもが、スィージャアが退避行動を取ったころには、青年に携えられている三尺ほどの剣で全て切り裂かれていたのである。


 それでも蒼焔の悪魔が焦ることは無い。

 矛を交えた相手からの生還方法を、もてる思考リソースの全てを費やして構築する。


 しかし、生還の未来は観測しえなかった。


「終わりだ」


 青年はその熱い鎧の重みすら感じさせず、一呼吸で跳躍し、そのまま垂直に振りかぶった。


 そしてそのまま、唐竹割りに悪魔を両断する————直前で、


「……そうだった」


 青年は思い出したと仮面の奥で呟き、剣の動きを止めた。


 前回の交戦時、悪魔が妙な姿をとっていたことを、青年、閏海悠うるうみはるかは思い出していたのだ。

 焔の悪魔が一瞬だけ変身していた白い髪の少女の姿。


 ────あの姿が、祈織が助けろと言っていた文園幽妃の事だろう。


 フェネクスを発見し、総汰へ位置情報を送ったあと、祈織から追ってもたらされた情報で、悠は少女の事を知らされていた。


 祈織を傷付ける奴は、死んで償うのが当然だ。

 それゆえに、悪魔が少女の姿をしようと助けを叫ぼうと、剣を振るう手を止めることは無かった。

 だが、その祈織当人に、もし悪魔の中に少女が囚われていたのなら助けてほしいと依頼されていたのだ。

 他でもない祈織、そして総汰の頼みとあらば、聞き入れる他はない。


 一度、剣身を鞘に収め、悠は悪魔に一言、問う。


「少女を解放しろ、悪魔」


 悠は優先事項が固定されてしまっていることを除けば、現代日本には珍しい完璧な騎士とも呼べる人格者である。


 しかし同時に、悠は誰彼構わず慈悲を振りまく、マリッジ=ユニのような聖人君子でもなかった。


「————!」


 蒼炎が一閃、悠の元へ迸る。


 このように、問いにも答えず、急襲してくるような相手であるのなら。

 このように、大切な祈織を傷付けた相手であるのなら。

 無慈悲に裁きは下される。


「……そうか」


 収めた剣の柄を強く握りなおす。

 

「【対天・聖剣エクスカリバー】」


 判決と共に、鍔と鞘の隙間から鮮やかな白い虹が溢れるように露出する。


 下された裁定から、執行まで僅か三ナノ秒。

 抜刀された刃からは逃れられない。


 虹の軌跡を描きながら振り抜かれる、天を穿つ刃。

 白銀の刃先をほんの刹那、焔が蒼く照りつけて。


 一条の光芒が、蒼焔を切り裂いた。


「————faild」


 肩口から右足部への一閃。

 下半身と分断された焔の塊が斜めに滑り落ち、アスファルトに転がった。


「この悪魔は、文園幽妃ではなかったということか」


 二つの蒼焔は切り離されてなお、路面上を青々と照らし続けていた。

 時間が立とうと、人らしき形が見えてはこないことから、悠はスィージャアがただの怪物であったと判断した。


 もし違っていたら、彼は人殺しになっていたところである。


「全く、もっと詳しい情報をくれないからだ。僕だって少女殺しなどしたくはないんだよ?」


 不機嫌に言って、太陽の光のみを反射して銀色に輝く剣を横凪ぎに力強く振るうと、燃え続けている焔を掻き消した。


「さて……祈織はどうせ乱入しているんだろうね。困るよな。総汰ももっと強く止めてくれればいいのにさ」


 呟きながら、それはそれで「祈織の意向を否定するのか」と自分は文句を言うのだろうと自覚する。

 そしてそれを理解したところで大して反省することもないのが、悠という男であった。


 意識内で、白銀の鎧が外れるイメージを作る。

 すると、それだけで実際に悠の身に纏う装甲が光の粒となって消え去り、彼の金髪が顕わになった。


「助けは……必要ないか」


 悠が見上げた空を、極彩色の虹が埋め尽くした。

 富詩焔の悪魔は、現在をもって全て、消滅したらしい。


「次は必ず、僕が守ろう」


 未だ燻る焔を金属から皮へと戻った靴底で踏み潰し、彼は繁華街を後にする。


「この世界の主役は祈織、それを一番理解してるのは僕なのだから」

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奇縁の止 悠遠美山 @YuenVizan

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