第68話 灯

「どうして」

 風香がぽつりと呟く。

「滝澤さんは、どうしてこんなことをするんでしょうか」

「わかりません」

 八尋は即答した。

「俺にはもう、花が考えていることがわからないんです。……いえ。俺はこれまでもずっと、あいつのことを何もわからないまま、あいつのそばにいてしまったのかもしれません」

 あの時と同じだ、と八尋は思った。八尋に優しくしてくれて、八尋も慕っていたおねえちゃんが死んだ時。おねえちゃんは自殺だった。八尋はいつもそばにいたのに、最期まで、そして亡くなった後も偶然死因を知るまでずっと、彼女の苦しみに気づかなかった。

「あいつはすごいやつだから、俺なんかには考えてもわからないと思ってしまっていました。わからなくても、あいつを信じているからそれでいい。特別なあいつについていけば間違いない。そう思い込むことで、あいつをちゃんと知ろうとしない自分から目を背けたかったんだと思います。ずるいですよね。自分の怠慢の責任を相手に押しつけてるんですから」

 ぐちゃぐちゃな感情がこみ上げてきて、八尋はうなだれた。

「……本当は知りたいことがたくさんあったくせに。どうして俺を拾ってくれたのか。どうして助けてくれたのか。どうやったらおまえみたいに強くなれるのか。俺を救ってくれたおまえのために、俺に何か役に立てることはないのか。……ずっとそばにいたのに、いつまで経っても自分を理解しない俺に、愛想が尽きたのかもしれません」

 涙で視界が歪んでいた。目の前のダイニングテーブルの上に雫が落ちる。

 どうして何度も、同じような、そして致命的なミスを自分はしてしまうのだろう。悔しさと不甲斐なさで涙が溢れた。今更悔やんだって手遅れだ。時間は取り戻せない。

 そうして今回も、自分はささやかながらも大切だった日常を失うことになるのだ。おねえちゃんの時と同じように。

「そんな風に、自分を責めないでください」

 向かいに座る風香の優しい声がしたが、八尋は顔を上げる気になれなかった。

「滝澤さんに会いに行きましょう」

 風香がはっきりとした口調で告げる。

「会って、こんなこと止めさせましょう。そして、お話をしましょう。どうしてこんなことをしたのかを、確かめましょう」

 八尋は泣き顔を上げた。反論するためだ。風香はじっと八尋を見つめていた。

「手遅れですよ」

「でも、待ってるって言ってました」

 まっすぐに八尋を見ながら、きっぱりと言う風香。

「夜空ちゃんと待ってるって。あれって、橘くんへのメッセージですよね」

「そうだとしても、あいつには今更話をする気なんてありません。俺を完全に始末したいんじゃないですか」

「だったらわざわざ助けたりしないと思います」

 八尋は言葉に詰まる。風香の言う通りだ。八尋を殺すためだけなら、こんな回りくどいことをする必要がない。

「橘くん、滝澤さんのことがわからないって言ったじゃないですか」

 風香は必死な様子で訴えた。

「わからないのに、わかろうとすることすら拒んでどうするんですか。今までわからなかったなら、これからわかっていけばいいじゃないですか」

「あいつにはそんな時間はないんです」

 八尋の言葉に風香が固まる。

「夜空をコピーしたその時から、花が死ぬか、夜空を殺すかの選択肢しか残ってないんですよ」

 さすがに風香も声を失った様子だった。が、すぐに顔色を変えて「だったら尚更です」と食い下がった。

「今知らなきゃ、ずっとわからないままになってしまいますよ。それでいいんですか」

 いいわけがない。咄嗟に浮かんだ言葉を、八尋は飲み込んだ。

 八尋の心は揺れていた。八尋を思っての懸命な主張であることくらい、わかっている。

 だが、今日一日の間に起こった出来事全てが、八尋の無力を苛んでくる。

 ちゆき、颯汰、あずさ、夜空、宗一郎、そして花。自身の無能を突きつけられ、裏切られ、何度も打ちひしがれ、心の底からの絶望を味わった。

 あれをまた体験することが、怖くてたまらなかった。

「……もうこれ以上、傷つきたくないんです」

 八尋はそう口にしていた。涙がこぼれる。情けないと思いつつ、もはや取り繕う気力もない。

 もう無理だ。悔しいけれど、ここが俺の限界だ。もういいじゃないか。充分に頑張ってきたじゃないか。俺はもう、疲れたんだ。八尋は心の中で誰かに語りかけるような言葉を吐き続けていた。

 本当にそれでいいのか。そう呼びかけたのは、もう一人の自分だった。

 本当にそれでいいと、思っていないだろ。そいつは知ったような口で八尋を煽る。うるさい。黙れ。

 ずっとそうしているつもりか。黙れ。

「ずっと、そうしているつもりですか」

 そう言ったのは風香だった。

 風香は泣いていた。泣きながら、怒っている。八尋は彼女が怒っているところを初めて見る。

 風香が立ち上がり、八尋に近づくと隣で跪いて語りかけてくる。

「そうやって、失敗をいつまでも悔やんで、全て失ったと諦めて、自分で自分を哀れんで、そうして本当に全部なくしてしまうつもりなんですか」

 今までに聞いたことのない強い語調で彼女は言った。その声は突き放すようでいて、しかしどこか温かい。不思議な音だった。

「私は、橘くんのことをほとんど知りません」

 八尋は横にいる風香の顔を見た。突然、何を言い出したのだろう。

「どんな食べ物が好きなのか、どんな音楽や映画が好きか、動物は好きか、風景は好きか。私は何も知らない。当然、橘くんが苦しんできたことも、知らなかった。……私は自分が情けないです。もっと橘くんのことを知りたいのに、怖くてできなかった」

 風香はふっと寂しそうに微笑んだ。その表情を、八尋は昨日も目にしている。

「私に踏み入られないよう、橘くんがどこか一線を引いている気はしていました。そしてあの送別会の時に、ようやく気づいたんです。橘くんと夜空ちゃん、狼さん、春木さん、バニーさん、そして滝澤さん。皆さんにはあって私にはない、そして言えない共通項があるんだって」

 それは、送別会からの帰り、駅まで送る夜の道で彼女が見せた顔だった。

「別に仲間外れにされたと感じたわけじゃないですよ。皆さん優しくていい人たちで、部外者の私を温かく受け入れてくださいました。でも、皆さんと私は違う世界に住んでいて、そちらの世界の当たり前を私は知らない。知る必要がないから、知らされていない。私が知りたいと思っても、それは独りよがりで、知ろうとすることで橘くんを傷つけてしまったらどうしよう。それが原因で関係が途絶えてしまうとしたら。そう考えてしまうと、動けなくなりました」

 八尋は思った。自分と同じだ。八尋も、風香に拒絶され、今の関係が変わってしまうことを恐れていた。

「私はずっと、『踏み込んじゃいけないことなんだ』と自分に言い聞かせていました。自分に勇気がないことを、もっともらしい理由にすり替えたんです。私は卑怯者です」

「そんなことは」

「だってそうじゃないですか」

 八尋の言葉を遮って怒るように言った風香。彼女の瞳は、次から次にこぼれる涙で濡れていた。

「だって、橘くん、苦しんでるじゃないですか。私が何も知らずに自分を守ろうとしていた間も、ずっと独りで考えて、悩んで」

 ああ、そうか、この人は。

 八尋は風香の涙の意味を理解した。途端に、自分の目からも涙がぽろぽろと落ちる。

「なんで私はこんなに無力なんだろう」

 まるで親とはぐれた迷子の少女のように泣きじゃくる風香。

「あの時、私を救ってくれたあなたのように、私もあなたを助けてあげたかった。支えてあげたかった。でも、できなかった。だって、苦しんでいたのは私のせいだから。私があなたを苦しめていた」

 八尋は涙を流したまま、首を横に振る。

「そして今も、たくさん傷ついて、悲しい思いをして、もう嫌だと言っているあなたを私は責め立てている。もう一度立ち上がってほしいと勝手なことを言っている。代われるものなら代わってあげたい。今まで独りで戦って傷ついてきた橘くんの代わりになってあげたい。……でも、無理なんです。こればかりは橘くんじゃないとできないんです。滝澤さんを止めるのは橘くんしかいないんです。悔しい。何もできない自分が、本当に悔しい。ごめんなさい。あなたに頼ることしかできない私で、ごめんなさい」

「そんなこと、ないです」

 自分はホルダーだから、普通とは違うからと八尋は彼女を拒絶しようとしたというのに、風香は、その八尋の気持ちを想って泣いてくれた。八尋のことを受け止め、理解しようとしてくれた。そして、八尋の力を信じてくれた。

 身体の芯から震える思いがした。自分の存在そのものを肯定されたような気がした。ただそれだけで、折れ、潰れて、消えそうになっていた心の中に、温かな火が灯ったのを感じた。

 八尋は思った。たとえ自分で自分を信じることができなくても、この人が信じてくれる自分を信じてみようと。

「秋月さん。あなたが俺のそばにいてくれて、俺のそばにいてくれたのがあなたで、本当によかった」

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