第62話 暴君(1)
「みーつけた」
突然聞こえた声に、八尋や宗一郎含め、ここにいる全員が身体を硬直させた。それから一斉に、声がした方向、上方へと顔を向ける。
倉庫の縦横に渡された鉄骨の梁の上に立って、悠然と見下ろしている花の姿があった。桜色の長い髪と、前を開けたクリーム色のロングコートが、大きく割れている天窓から吹き込む風を受けてたなびいている。あそこから侵入したらしい。
花が荷物のように小脇に抱えているそれは、人間だった。
花の腕が相手の胴を抱え込むように回されており、気を失っているのか両手両足はだらりと垂れ下がっていて動かない。髪の長さや服装からは女性であるように見える。
死んでいるのではないかと考えて思わずぞっとしたが、何より背筋が寒くなったのは、八尋はその人物の容姿に見覚えがあると気づいた時だった。
梁を飛び降りて、八尋たちと同じ地面に軽やかに着地した花は、まるで荷物をぞんざいに扱うかのように、抱えた人間を目の前に放り投げて転がした。
「うっ」と低いうめき声が聞こえ、その人が生きているとわかりほっとしたのもつかの間、悪い予感が的中したことを知り激しい動揺が襲ってくる。
颯汰とちゆきの母親、東條あずさがそこにいた。
顔を上げたあずさの視線の先には宗一郎がいた。彼と目が合った途端、彼女は「ひいっ」と怯えた声を上げて、尻をついたまま後退りする。そのままずりずりと後ろへ下がったところで、気配に気づいたのか、首を捻って背後を確認した。そこでは花が冷たい視線をあずさに送っていた。
「ひいいいっ!」
その取り乱しぶりは異様だった。足を滑らし、転がり、腰が抜けたのか立ち上がれず、それでも四つん這いのまま手や膝がすりむけるのも構わず逃げようとする。
そんなあずさに花が近づき、おもむろに片手で頭髪を鷲掴みにすると力任せに引っ張った。「ぎゃっ」という短い悲鳴と同時に、地面を這っていたあずさの両手が地面から離れ、上体が反らされる。
あずさが何かをわめきながら、自分を拘束する花の手を剥がそうとしてもがく。その様を、髪の毛をわしづかみにした手を離さず、花はつまらなさそうに見ている。ぶちぶちと髪がちぎれる音がするたび「痛い痛い」と悲鳴を上げるあずさ。
「やめろ!」
八尋は叫んでいた。目の前で何が起きているのかはいまだ理解できないものの、止めなければならないと直感した。
「何をしてるんだよ!」
「何をしているのかって?」
ゆっくりと頭を回して、八尋を見た花。その表情を見た瞬間、全身の肌が粟立つのを感じた。
花は笑みを浮かべていた。あまりにも酷薄で凄惨な、これまでに見たことがない、彼女の表情。
「ぎゃああああああああ」
突然に酷い音が迸った、と感じた。どこかで聴いたことがある音だ、とも思った。
あずさの喉の奥底から生み出されている絶叫だと気がついた時には、ぶつりと中断するかのように、声が止んだ。
花の手を引き剥がそうとしていた両腕が、力を失ってぶらんと下に落ち、そのまま肩からもげて線香の燃えかすのように崩れて落ちた。残った頭部、胴体、脚部も間を置かず塵となり、あずさという女性がここにいた痕跡は跡形もなく消えた。
静けさが戻っても、断末魔の声が耳鳴りみたいに聞こえていた。鼓膜の向こう側の奥深くに染みついて、いつまでも鳴り止まないようだった。
「なるほどね」
花は苦いものでも口にしたように顔をしかめていた。
「死に際の相手の感情や痛みが流れ込んできて気持ち悪い」と呟いて夜空を見る花。「こんなのよく平気な顔をしていられたね。すごいなあ」と感嘆している。
場違いで呑気な感想を花が口にしたことをきっかけに、金縛りを解かれたように八尋の身体が動き出す。
発射された弾丸のごとく花の元へ駆け寄って、そのまま殴りかかった。右の拳を相手の顔めがけて繰り出す。スローモーションのように、いろいろなものがよく見えていた。花の顔に笑みが張り付いていることも、よく見えた。何を笑っていやがるんだ。眼球が沸騰するような怒りが頭を支配する。
しかし、唐突に視界から花の姿が消えたのと同時に、腹部を強い衝撃が襲った。胸の中を一気に何かが上ってきて、こらえる間もなく吐き出した。
いつの間にか目の前に地面があった。膝と手をついてしまっている。自分がぶちまけた反吐が床の上に広がっていた。食道が無理やり収縮するような感覚が波のようにやってきて、そのたびに液体と固形物の混ざったものを喉の奥からまき散らしていく。
嘔吐の合間に咳き込むように呼吸をする。陸上で溺れているような気分だった。酸素が足りず、世界がちかちかと暗転を繰り返す。
胃液まで全て吐き尽くしてようやく内臓が痙攣を中断したところで、自分の傍らに佇む気配に気づいた。全力疾走でもしたような荒い息をつき、ぶるぶると震えうまく動かない身体を八尋は疎ましく思いながら、頭を上げる。
花は顔色を変えることなく八尋を見ていた。その冷酷な顔に八尋は恐怖を覚える。これが、人を殺したばかりの人間がする顔だろうか。
八尋に興味を失ったかのように、花は視線を外すと歩き出した。八尋は四つん這いの姿勢から、吐瀉物の中に倒れ込まないようにこらえながらも、ふらふらと立ち上がる。
八尋に背中を向けた花は、宗一郎と対峙する。宗一郎の背後に隠れるようにしているバニーは、険しい表情を花に向けつつ、膝が震えているようだった。
少し離れたところにいるテレポーターが夜空の腕を強引に引いて数歩後退したのが見えた。顔面が蒼白になっている。一方の夜空は表情を変えず、テレポーターのなすままにさせながらも、花のことをじっと見ていた。
「何の用だ」
宗一郎が強い警戒をはらんだ声で威嚇するように問いを発した。
「夜空を勝手に連れ出しておいてそりゃないだろ?」
抑揚をつけた口調で花が言う。
「殺すのか」と鋭く問う宗一郎に「約束だからね」と答える花。
「そんな律儀なやつだとは思わなかった」
「失敬だな。わたしは律儀だぜ。律儀が服を着て歩いているようだとよく噂されたものさ」
「ほざくなよ。おまえは俺たちと同じ種類の人間だろ」と宗一郎が断言する。「自分の得にならないことはやらない」
花はくるりと振り返って、今度は宗一郎に背中を向け八尋のほうへ向き直った。
だから、「そうでもないさ」と彼女が口にした言葉が、まるで自分だけに語りかけられているような気がした。
「とはいえ、今回の件が自分のためであることは認めよう」
花はにっこりと笑って「夜空を殺さないとわたしが死んじゃうからね」と、まるで嬉しい出来事を報告するかのように。あるいは面白い事件を語るかのように告げた。どうして笑ってそんなことを言うのか、その意味は、八尋にはわかりそうもなかった。
宗一郎がわずかに動くのを、八尋は捉えていた。テレポーターに合図をしたのだとわかった。
だがそれよりも花のほうが早かった。
ついさっきまで、テレポーターは夜空の腕を掴んでいたはずだった。しかし今、彼の手が握っているのは花の腕だ。
花が立っていた場所に、夜空がいた。八尋は瞬時に理解する。花がギフトを使って位置を入れ替えたのだと。
口をあんぐりと開けて固まったテレポーター。その下顎を、花の手が鷲掴みにした。宙に持ち上げられたテレポーターの足が地面から離れる。宗一郎が全身を虎に変化させ、花へ飛びかかった。
花がテレポーターの頭を自分の顔に引き寄せてキスをする。
次の瞬間、宗一郎が爪を振るって花を襲う。が、そこに二人の姿はなく、繰り出された腕が空を切る。躱された。宗一郎はすぐに周囲を見回し相手の姿を捜す。
八尋は花の存在を感知していた。上空だ。
激しい音を立てて倉庫のスレート屋根が破壊された。上から何かが降ってきたのだ。それは鉄骨の梁にぶつかってぐるりと回転し、地面に落ちた。
「ひっ」
バニーの息を呑む声が聞こえる。
テレポーターがうつ伏せに横たわっていた。赤黒い飛沫が放射状に飛び散っている。脚が、膝ではない場所であらぬ方向に曲がっていた。テレポーターは倒れたままの姿で、痛みに悶えて身じろぎするようなこともなく、二度と動かなかった。
「便利だねえこれ」
視界の外からする声に顔を振ると、バニーの背後に花がいた。奪ったばかりのテレポート能力を使いこなしている。
バニーが悲鳴を上げて飛び退く。宗一郎がバニーと花の間に身体を割り込ませ、自分の身体でかばうように立つ。
花は攻撃を仕掛ける様子もなく、コートのポケットに手を入れて悠然と佇んでいる。バニーはすっかり怯えた様子で宗一郎の背中に隠れるようにしながら、花の姿と、すぐそばに転がるテレポーターの遺体を交互に見た。花と位置を入れ替えられた夜空は、八尋を無表情に一瞥した後、壁際へと寄って再び傍観者へと戻る。
警戒されていることなんてどこ吹く風で、そこにいる花はいつものように笑みを浮かべている。そう、確かにいつもの微笑みだというのに、そこにいるのが、自分が知っている花と同じ人間であるように思えなかった。
「なんでこんなことをするんだ」
問いかける自分の声が震えていることに気づき、八尋は羞恥と苛立ちが同時に湧き上がる。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「だめなのかい」
とぼけたような表情で返す花。嫌悪感とともに、もうやめてくれと哀願したい気持ちになる。目を背けたかった。
「二人死んだ」
「死んだねえ。かわいそうに」
「おまえが殺したんだろうが!」
おまえが、殺したんだろうが。八尋は自分の発した台詞が嘘のように感じられた。花が、殺した。なぜだ。何もわからない。混乱している。感情のままにわめき散らして逃げ出したい衝動に駆られる。
「しょうがないでしょ。テレポーテーションで逃げられるのは面倒だったからさあ。追いかけっこしてるほど暇でもないし」
面倒だから、殺す。なんだそれは。
八尋はくらくらしながら、反射的に「東條さんは」と訊いていた。
「彼女に、殺されなきゃならない理由でもあったのか」
「後悔するよって言っただろ?」
せせら笑うような花の台詞に、気が遠くなるような気がした。
後悔するよ。それは確かに、彼女が自分に対して告げた言葉だ。
じゃあ、俺のせいなのか。
経験のない絶望感が全身を覆う。俺のせいで、颯汰とちゆきの母が死んだのか。俺のせいで、あの兄妹は大切な家族を失ってしまったのか。俺のせいで。
「颯汰とちゆきを誘拐させたのはあずさだよ」
花がさらりと告げた事実を、八尋は信じたくなかった。「嘘だ」と呟いた声は、自分でも驚くほどに力無かった。
「だって、あの人は一緒に囚われていたのに」
「無知な素人が近づいちゃいけない領域に踏み込んで、ただで帰してもらえるわけないじゃない。相手がどんな稼業で金稼いでると思ってるのさ。犯罪者だぜ。信用するほうがどうかしてるよ」
ばかだなあ、と花は笑っていた。何が可笑しいのか、八尋には理解できない。
「どうかな八尋」
花に名前を呼ばれ、八尋はびくりと身体を震わせた。
「子供を売るような親でも、あの兄妹にとっては、いたほうがよかったのかな」
「耳を貸すな」
宗一郎が八尋の横に並んでいる。更に鋭くした巨大な鉤爪を構え、いつでも飛びかかれるような体勢の彼がいた。バニーもその後ろに隠れるようについてきている。
「戦え、八尋」
花から目を離さずに、宗一郎は告げた。
外はいつのまにか雨が振っていた。大雨が降り出したらしく、壊れた屋根から吹き込んでくる大きな雨粒は、みるみるうちに倉庫内の地面を塗らしていく。
「戦わなければ、死ぬぞ」
死。その一言だけが、はっきりとした輪郭を伴って浮かび上がってくる気がした。
「そんなことないって」
場にそぐわない明るい声で笑うように話す花が、ひどく歪な存在であるように感じた。
「夜空を返してくれさえすれば、宗一郎とバニーはいつでも帰っていいんだぜ」
八尋の吐息が白くなって宙を漂う。冷たい雨が身体を濡らしている。体表を流れる水滴が容赦なく体温を奪っていく。
「俺とバニーは逃がしてもいい、と。なら、八尋はどうする」
「殺すよ」
平然と言う花に、八尋はもはや悲しさすら感じなくなっている。ほとんど考えることをやめていた。
次から次へと、もうたくさんだ。
「逃がしてもいいけど、どうせ八尋は耐えられないよ。自分が逃げれば、夜空は死ぬ。彼女を見捨てた事実からは逃れられない。手を尽くして救えないことと、積極的に救わない選択をすることは重みが違う。遅かれ早かれ、自分だけがのうのうと生き続けることのつらさに耐えかねて八尋は死んじゃうよ。身体的な死を迎え入れるのか、精神的に死んだまま身体だけ動く屍になるのかは知らないけど、ひとりぼっちで寂しく死んでいくのはちょっとかわいそうだろ? だからさ、どうせ死ぬなら、わたしが殺してあげようと思うんだ。それがわたしなりの優しさかなって」
花の言うことの内容はほとんど頭に入ってこなかったが、その通りだと感じた。
殺すなら、さっさと殺してくれ。そう考えてすらいた。
「八尋、おまえが戦わなければ夜空が死ぬぞ」
不思議なほどはっきりと、宗一郎の声が聞こえてきた。意識を引き戻されたような気分で、八尋は宗一郎を見る。宗一郎も八尋を見ていた。虎の眼が八尋を睨んでいる。
「戦え」と、宗一郎が再度口にする。
八尋は目を閉じて、大きく胸で深呼吸をした。冷えた空気が肺に染み入る。心臓の鼓動を感じる。指先は冷たいのに、顔は火照っている。鳴り続ける雨の音が聞こえる。
気の置けない友人には裏の顔があった。
信頼していた育ての親にも裏切られた。
もう、うんざりだった。何を信じればいいのかわからない。どうにでもなれと思っていた。そのはずなのに。
自分はどうして、戦う決心を決めているのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます