第55話 夜の道
「わたしが追うから。八尋は風香ちゃんを送ってあげなさい」
そう言って花が靴を履く。
「でも」
「今八尋が行ったところで何もできないんだから、お花さんに任せなさいって。今日はどっちに泊まる予定だったの? 母屋のほう? わかった。わたしが連れてくから、八尋はセーフハウスに泊まってよ。お互い距離を置いてクールダウンしたほうがいいでしょ」
出て行く花の背中を見送ることしかできない自分を不甲斐なく感じる八尋。
宗一郎が気遣うように肩を叩いた。八尋が「ごめんな」と謝ると「気にすんな」と返してくれた。「早く仲直りしなよー」とバニーが笑いかけてくる。宗一郎とバニーは二人で帰って行った。
狼とも別れ、八尋は風香を駅まで送るため、夜の道を二人で歩いている。
「大丈夫ですか」
風香に心配そうに声をかけられて、ここまでずっと無言で歩いていたことに気づいた。八尋は笑って誤魔化しながら「大丈夫です」と咄嗟に口にしたが、すぐに「……と言っても、そうは見えないですよね」と正直に告げた。
「あんまり大丈夫じゃないみたいに見えます」
風香も小さく笑いながら同調する。それから表情を変えて「夜空ちゃん、泣いてましたね」と、夜空を心配するような声で言った。
「面目ないです」
「橘くんと夜空ちゃんも、けんかしたりするんですね」
「けんかというか」八尋は口ごもり、「いえ、そうですね。けんかです。初めてけんかしました」と諦めるように同意した。以前にも言い争いになりかけたことはあるが、あの時はどちらも折れた。今回のように意見が対立したのは初めてだったはずだ。
「今日が初めてのけんかなんて、仲が良かったんですね」
風香の声音が少し優しげになる。
「仲が良いというより、夜空はこれまであまり自己主張してこなかったので、ぶつかることがなかっただけです」
「あ、それは少しだけわかるかもです」
「え」
風香の言葉に八尋は彼女の横顔を見た。記憶を思い返すように、少し上を見ながら歩く彼女は微笑んでいた。
「初対面の時よりも、今日はずいぶんと活き活きしてるように見えましたから。きっと橘くんとの暮らしが楽しかったんじゃないかな。安心できる人と時間を共にしながら、少しずつ関係を築いていくことで、次第に言いたいことも言えるようになっていくことってあると思うんです」
ふと、八尋が花のもとで暮らし始めた時のことを思い出した。確かに初めは彼女の顔色を窺って生活していた気がする。今では軽口も不満も平気で言い合う関係だが、それは八尋が「自分はここにいてもいい」と本心から思えるようになってからではなかったか。
「だから、けんかが始まったってことは橘くんと夜空ちゃんの関係が一段階進んだってことなんじゃないかって、前向きに捉えましょうよ。ねっ」
そう言って、八尋の顔を覗き込むような仕草をする風香。
「そうだといいんですが」
八尋は苦笑して、夜空とのやりとりを思い出した。残念ながら、風香の言うようなポジティブなものだとはとても思えない。
「……何が夜空のためになるのか、わからなくなってしまって」
八尋は素直な真情を吐露した。
「あいつは俺にやってほしいことがあるんですけど、それが俺にとってはどうしてもやりたくないことなんです」
「だったら、やらなくていいと思います」
言い切る風香に、八尋は少し驚く。
「私、事情を知りませんから」と言って風香が小さく笑った。どこか寂しそうなその顔が、八尋は気に掛かった。
「何も知らないからこそ、無責任なことでも言えちゃうんでしょうね。そんな簡単なことだったら、橘くんがとっくに自分で結論を出していると思いますから。だから、橘くんがやりたくないって言ってることには、深い理由があるんだと思ってます」
泣きたくなるような、風香の優しさ。衝動的に彼女の提案に縋りつきたくなったのを、八尋はすんでのところで堪えた。
夜空の顔が脳裏に浮かぶ。夜空の望みは、八尋にしか叶えられない。自己の忌避感などは二の次にして、彼女の期待に応えるべきではないかと自身を叱咤する自分がいる。その声を、無視することができない。
そして八尋は、風香の言葉を思い出して内心自嘲した。
秋月さんは俺を買いかぶっている。深い理由なんて、俺にはない。
駅に着いていた。この話はここまでだ、と八尋は決めた。ホルダーではなく、事情を知らない、それを説明することもできない彼女に、これ以上話しても意味が無い。
「おやすみなさい秋月さん。今日はありがとうございました」
礼を述べる八尋に、風香は何かを言おうとしかけて、躊躇った様子を見せ、それからふっと微笑むと「こちらこそ、ありがとうございました。おやすみなさい」と告げた。
改札の向こうへと消えていく風香を見送り、八尋は踵を返すと、タクシーを捕まえてセーフハウスへと帰り着いた。
夜中零時を過ぎた頃、布団に入っていたものの寝付けずにいた八尋のもとに花からメッセージが入った。無事に夜空をセーフハウスに送り届けたとの報告だ。礼を告げる内容を短く返し、八尋は目を閉じた。
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