第五章
第51話 リバウンド
二日経った。
八尋は強烈な喉の渇きを感じ目を覚ます。寝間着が寝汗でべったり濡れていて肌にまとわりつき気持ち悪かった。布団まで湿っている。
セーフハウスで八尋が使用している寝室の壁掛け時計は八時過ぎを指していた。閉められたカーテンの隙間から日の光が射し込んでいる。掛け布団をめくると冷たい空気が身体を冷やした。服が濡れているから尚更寒く感じる。早く着替えないと風邪を引きそうなほど部屋の中が冷えていた。
手早く着替えて一階に下りると夜空が調理中だった。八尋に気づき「おはようございます」と挨拶してくる。
あれ、と八尋は気づく。心なしか、彼女の漂わせる空気が柔らかかった。
「体調はいかがですか」
「おはよう。うん、もう大丈夫だ。熱も下がったみたいだし」
「それはよかった」と言う夜空はやはりどこか穏やかだった。
「今、朝食を用意しています。少し待っていてください」
「ありがとう」
八尋は水を飲むと、言われた通りダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。テレビをつけながら、頭の中では二日前の出来事を思い返していた。
花は「八尋のギフトを他のホルダーの身体に流し込めば、相手のギフトそのものを消せるはずだ」と唐突に告げた。
八尋は「単なる思いつきで期待を持たせるようなことを言うな」と花を非難した。「何が起こるかわからず危険だ」とも言った。
しかし「可能性があるのならやってほしい」と涙ながらに懇願するあずさの姿に、最後は根負けしてしまった。
結果として、それはあっけなく成功した。
あずさの求めに応じて、まずは妹のちゆきから行うことになった。ちゆきはこれから何が行われるか不安だったのだろう、顔や腕の皮膚が爬虫類の鱗へと変身していた。
八尋はちゆきの頭に触れ、自分の周囲を覆っている見えない力を彼女の身体に流すイメージでギフトを操作する。
思惑通りに自分のギフトが相手の身体に流れてその全身を覆ったので、八尋のほうが驚いてしまった。まるで昔からできたことのようにあまりにもスムーズだった。
まずいつも吸収の感覚があり、ちゆきの変身が解除された。それから不意に、ギフトの塊とでも形容すべき巨大な力を吸収した感覚が襲ってきた。
八尋が手を離すと、あずさが「ちゆ、トカゲに変身してみてごらん」と期待を込めた目をしながら声をかける。
あれほど「駄目だ」と言われてきたことを今度は「やってみて」と言われ、ちゆきは戸惑った様子を見せたが、「いいの?」と何度も確認し、やがて嬉しそうな笑顔で変身しようとふんばり始めた。が、すぐにその表情が曇っていく。そして遂に「できない」と首を振ってぐずり始めた。あずさは喚声を上げて喜んだ。
変身できないこと以外は、ちゆきに変化はなさそうだった。
異変があったのは八尋のほうだ。
五感が鋭敏になっている。身体が熱いのに、意識は澄んでいる。加減を誤ると触れた物を全て破壊してしまいそうなほどの力が全身にみなぎっているのを感じる。
過剰な身体強化が起きていた。
あずさは続けて颯汰のギフトも消してもらいたがったが、八尋の様子を見て花が「後日にしましょう」とストップをかけた。
シェルターを後にする八尋と花に、あずさは何度も頭を下げていた。涙を流して喜んでいるその姿に、これでよかったのだと八尋は自分を納得させることにした。胸の内のざわつきは自分の中だけに留めておけばいい。
「わたしが運転するよ」と申し出た花に鍵を渡して、八尋は助手席に乗り込んだ。それで正解だった。
しばらくしてから、それは唐突にやってきた。
強化が切れたと感じた直後、激しい全身の痛みが襲ってきた。体中が燃えているように熱いのに悪寒がしてガタガタと震える。嘔気に耐えられず何度か車内で吐き戻した。気づいた時にはセーフハウスで寝かされていた。意識を失ったらしかった。ベッド脇には花がいる。
「オーバーヒートだよ」
横になったままの八尋に花が告げた。
八尋は熱と苦痛で朦朧としながらも彼女の話に意識を向けていたが、目に映るものが全て歪んで見えて気持ち悪かった。
「八尋はギフトを吸収すればするほど強くなれるけど、ギフトの核を吸収することは限界を超えちゃうんだろうね。一時的な超強化と、代償としてのダメージを受けてしまう。要はリバウンドだね。ま、寝てれば治るさ。脱水だけは気をつけてね」
「……なんでおまえが、治るなんて言い切れるんだよ……」
やっとの思いで絞り出した声はかすれて震えていた。
「そりゃ、一回見てるからね」あっさりと答える花。「君がこうなるのは二回目だ」
花の言っていることの意味が理解できなかった。考えようにも高熱で浮かされた頭はうまく働いてくれない。
不意に気力が尽きた。眠気が襲ってきて、もう面倒だと八尋は考えることを止め、目を閉じた。途端、身体が沈んでいくような感覚があり、自分が眠りに落ちていくことを感じる。そんな中、花の声だけが聞こえてきた。
「わたしと初めて会った時の八尋もあの力を使えたんだよ。そして今と同じように倒れた。目を覚ました時には、記憶と一緒に力の使い方まで忘れてしまっていたようだけれど、思い出せたみたいでよかったね。……寝たかな? おやすみ八尋。もうひと頑張りだよ」
そうして花の言った通りに八尋は回復した。なんだか彼女の手の平でいいように転がされているような気分で、いまいち釈然としない。
夜空の用意してくれた食事を口にしながら、花の言葉を思い出す。
半分寝入っていたのでおぼろげだが、彼女と出会った時にも八尋は他者のギフトを消す能力を使ったと言っていた。
八尋には覚えがないが、記憶障害を起こしたのだとしても納得はできる。あの苦痛は強烈だった。当時十一歳の子供だった八尋の身体では耐えられなかったのかもしれない。
もうひと頑張りだよ。花は最後にそう言った。卵焼きに箸を伸ばしながら、どういう意味だと考える。
ふと顔を上げると、茶碗を手にしてもくもくと白米を噛んでいる夜空がいた。八尋が見ていることに気づいた夜空が口中のものを飲み込んでから「何か」と言ってわずかに首を傾げた。
八尋は花の言葉の意味を理解した。
「夜空。もしかして花から話を聞いてるのか」
夜空は箸を置いて「ええ」と肯定した。
「あなたが他者の能力そのものを消去できるようになったと」
そうだ。八尋は夜空の呪いをかけてしまうギフトを消すことができる。
だから夜空の漂わせる気配が違うのかと合点がいった。彼女の二百年来の念願が叶う時がきたのだから、当然だろうと思う。
しかしなぜか八尋は戸惑っていた。夜空に何を言えばいいのか、言葉が出てこない。
突如けたたましいベルの音がして、驚いて身体が跳ねる。部屋の隅の黒電話が鳴った。母屋と同じく、なぜかこの家にも古めかしいこの電話が設置されているのだ。
いつまで経ってもこの音には慣れないなと思いつつ受話器を取る。この電話にかけてくるのは狼しかいない。
『今日は、酒はあるのか』
「今日? 何の話だよ」
相変わらず要件だけを一方的に告げる男だ。
『酒があるなら俺も行こう』
「だから」話を聞け、と言おうとしたところで、「今日は宗一郎の送別会では」と夜空が口を挟んだ。
「花がそう言っていましたが、あなたは知らないのですか」
狼との通話を切ってすぐさま花に電話をかけると、『あれ、言ってなかったっけ。ごめんごめん』と全く悪びれた様子がない声で謝罪された。
『宗一郎が明日にはもうここを発つっていうんだよ。八尋は倒れちゃってたからさ、もろもろわたしが手配しといたから安心していいよ。午後六時に食堂集合。時間厳守でお願いします。気になる会費はなんとゼロ円。お花さんの餞別です。ヒュー。え、お酒? もちろんあるとも。だけどあいつが飲むのってウイスキーでしょ。知らない? そうなんだよ。今度一緒に飲んでみるといいよ。あいつ、酔うと面白いから。それはともかく、こっちは缶のハイボールくらいしか用意しないから、良い酒持ってこいって言っといて。わたしも飲みたいし。んじゃまたあとでねー』
通話が切られる。
少しするとまた狼から電話があったので花が言ったままを伝えると『滝澤に分けてやるつもりはないが、持って行くことにする』と狼は答えて会話が終わった。
なんだかどっと疲れた気がした。食卓に戻り、少し冷めてしまったごはんを口にする。
「私の力を消してもらうのは明日以降ですね」と言った夜空の顔を、八尋ははっとする思いで見た。
「送別会があるのに倒れるわけにはいかないでしょうから」
「あ、ああ。そうだな」
八尋は笑顔を作って応じた。それから少し考えて、「その、おめでとう」と伝えた。言わなければならないと思った。
「役に立てるなら俺も嬉しい」
「ありがとうございます」
夜空が無邪気な笑顔を見せた。彼女が初めて見せた表情を、八尋は可憐だと思った。
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