第37話 波風
十一時になろうかというところで、風香は「そろそろお暇しますね」と言って帰って行った。
「通りに出て右に進むと駅方面に向かうバス停があるみたいです」
玄関で靴を履く風香の背中に喋りかける八尋。
「本当に送っていかなくてもいいんですか」
「だいじょうぶですよー。これから新居の準備とかいろいろあるでしょうし、バス停の場所も教えてもらいましたから」
靴を履き終えて「よいしょ、っと」と言いながら立ち上がった風香が「あ、そうだ」と言って振り返る。
「写真を一枚、撮ってもいいですか」
促されるまま、八尋と夜空も靴を履いて外に出て、二人で玄関扉の前に並んでいるところを収めるように風香が何回かシャッターを切った。それをカメラの液晶画面で確認し、「こんな感じですけど、どうですか」と八尋たちにカメラを向けた。
まず八尋と夜空がいて、その背景に狼のセーフハウスを大きく映り込ませる構図だった。ぎこちない笑顔の八尋に対し、夜空のにこやかな表情はとても自然だった。その写真を見ていると、まるで夜空の語ったストーリーが本物であるかのように錯覚しそうなくらいに。
「いい写真ですね」
素直な感想を口にすると風香は嬉しそうに「やった」と言って顔をほころばせた。
「今度プリントして持ってきますね」
夜空に語りかける風香。笑顔で「嬉しいです。ありがとうございます」と返す夜空。
「公園リベンジ、楽しみにしてますね」
最後にそう言って、風香は何度も後ろを振り返っては手を振りながら去って行った。
そうして、八尋と夜空の二人だけが取り残された。
「いい人ですね」
夜空はいつもの表情に戻っている。
「ああ」
「彼女を大切にしてください」
「わかってる」
「そのためにも、私はもう会わないほうがいいでしょう」
そう言って家の中へ入っていく夜空。胸に引っかかるものを感じつつ、八尋も後へ続く。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
夜空が改まるように言った。
「ん? なんだよ」
八尋はダイニングテーブルのマグカップを片付けている。
「どうして彼女に教えていないのですか」
八尋は片付ける手を止めて夜空を見た。
「……教えてないって、何を?」
何を訊きたいのかはわかる。だからこれは、質問ではなく確認だ。
「我々のような人間のことです」
夜空の答えは当然だった。それ以外、何がある。
「彼女には関係ないからだ」
八尋は片付けを再開し、マグカップをまとめてキッチンへ運んだ。
「関係ない、ですか」
夜空の語調にかすかに不満めいたものを感じるのは気のせいだろうか。
「そうだよ。関係ないだろ。彼女はホルダーじゃない。普通のヒトなんだから」
マグカップを洗いながらカウンター越しに夜空に目をやった。
「あなたはホルダーでしょう」
「言われなくても、知ってるよ」
どうして当たり前のことを聞くのだろうか。八尋は少し苛立った。
「あなたの友人であるなら、関係ないことはないでしょう」
言葉に詰まる八尋。が、すぐに「知らずに済むなら知らないほうがいい」と返した。
「なぜですか」
「危険だからだ」と答えながら、妙に食い下がる夜空を怪訝に思った。「どうしたんだよ。何か気に食わないことでもあるのか」
「それは」
珍しく夜空が口ごもった。しかしすぐに「危険とはどういう意味ですか」と切り返してくる。
「俺はどこで恨みを買っているかわからない」
洗い終えたマグカップを水切りかごに放り込んで、キッチンの上に両手をついた。
「悪事を働くホルダーの邪魔をするのが仕事みたいなものだからな。そうじゃなくても俺は、仕事を増やすなと同僚から煙たがられてる。外だけじゃなく中にも俺を嫌ってる連中がいっぱいだ。同僚連中は俺の顔を知っている分、たちが悪い。あいつらは俺に嫌がらせするためならなんでもやる。秋月さんが俺と親しくしているところを見られでもしたら大変だ」
「なんですか、それは」
その口調に、夜空は呆れているのかもしれないと八尋は思った。
「あなたを嫌っている人間に配慮して彼女を遠ざけているのですか」
「違う」反射的に否定する。「秋月さんのためだ。俺は、俺のせいで彼女を危険な目に遭わせたくはないんだ」
「だったら」ほんの一瞬だけ、夜空が語気を荒くした。「中途半端なことをしていないで、一切会わなければいいでしょう」
八尋は黙り込んだ。言葉が浮かばなかったわけではない。頭をよぎった台詞を口にしてはいけないと、理性がブレーキをかけた。
おまえに何がわかる。
それは反論になっていない、ただの感情そのものだ。そんなものをぶつけて何になる。
八尋は天を仰ぎ、手で顔を覆って深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。そして再び夜空に向き直った。自分をじっと見る彼女の目。いつも何を考えているかわからずにいたその瞳に、わずかな動揺を感じる気がした。
「……その通りだよ」
八尋は夜空の言葉を肯定する。その通りだ。八尋だってわかっている。
「本当に彼女の身を案じるのなら、会うべきじゃないんだ」
なのに、それができずにいる。
風香と過ごすと、ほっとして心が安らぐ。気持ちが和らいで穏やかになる。彼女と過ごす時間は、日が経つにつれ手放しがたくなるばかりだ。
しかしいずれは必ずその選択をしなければならない時が来る。想像がちらりと頭を掠めただけで、胸が痛い。
「申し訳ありません」
突然に夜空から謝罪があった。少し声のトーンが暗い。
「意地の悪いことを言ってしまいました」
「いや、いいんだ」八尋は首を振った。「夜空は間違ってない。俺こそむきになってしまった。すまない」
「私が余計なことを言ったからです。私はただ、あなたに……いえ、止めましょう。今更、言い訳にもならない。……二階に上がります」
「ああ。部屋は適当に選んでくれていい。俺は日用品の買い出しに行ってくる」
「よろしくお願いします」
夜空が階段を上がっていく音を聞きながら、八尋はひとつため息をつく。切り替えよう。そう自分に言い聞かせながら家を出た。
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