第36話 風香(3)
「内緒のお話は終わりましたか?」
一階に戻った八尋は、笑顔の風香にそう訊ねられた時、思わず息を呑んだ。が、八尋が固まったことが不思議だったのか、風香は微笑んだまま少し小首を傾げた。
「夜空ちゃんがそう言ってましたけど」
「えっ」
八尋は咄嗟に夜空の姿を探す。いた。キッチンで飲み物の用意をしている。話は聞こえているだろうに目も合わせず素知らぬ顔だ。
八尋は「あはは。まあなんとか」と笑って誤魔化す。「ええと、内緒話というか、どの部屋をどっちが使うかとか、そういう相談をしてました」
上手くはぐらかせたのかどうか怪しかったが、「部屋のチョイスは大事ですもんね」と言う風香に訝しんでいる様子はない。
「夜空ちゃんがお茶の準備をしてくれてるんですよ。お手伝いを申し出たんですけど断られちゃいました」
「秋月さんはお客様ですから。ゆっくり座っていてください」とキッチンにいる夜空が風香に笑いかける。そうしていると本当に自然で、どこにでもいる女の子のようだった。
「八尋も突っ立ってないで、秋月さんと一緒に座っててください。あなたが座らないと秋月さんも座りにくいでしょう」
夜空に言われはっとした八尋は、「気が利かなくてすみません」と頭を下げつつ、風香にダイニングテーブルの椅子を勧めた。風香はクスクス笑って「まるで夜空ちゃんのほうがお姉さんみたいですね」と言いながら腰を掛けた。同感だと思いつつ、曖昧に笑いながら八尋も風香の前の席に座る。
「秋月さんと八尋はいつごろ知り合ったんですか」
コーヒーの入ったマグカップをトレイで運びながら夜空が言った。八尋と風香は顔を見合わせる。
「去年の五月頃でしたよね、秋月さんが声かけてくれたの」
「あれからもうすぐ一年半も経つんですね。早いなあ。思い出すと恥ずかしくなっちゃう」
夜空がテーブルにマグカップを置きながら「何かあったんですか」と風香を見て興味深そうにしている。八尋はカップの一つを風香に手渡しながら、このいかにも興味がありそうな様子が本当に演技なのだろうかと妙なところで感心していた。
「何かあったんです。うう、恥ずかしい」と顔を手で覆う風香に八尋は笑ってしまう。
「俺は気にしてませんよ」
「橘くんは優しいですからね」
手の隙間からちらりと八尋を見る風香。
「でもそういう問題じゃないんです。私が気にしてるんです」
「いいじゃないですか。教えてくださいよ」と夜空が唆す。
「実はな」と八尋が口を開こうとすると、「あーっ! だめです、自分で言いますから!」と風香が制止したので八尋は声を上げて笑ってしまった。夜空も笑っている。
「あまり引っ張ってもハードル上がっちゃうので言いますね。『えっ、そんなに恥ずかしがるほどのこと?』って思うかもしれないんですけど」
「思いませんよ」
夜空は微笑んだまま風香に先を促す。
「そのですね……恥ずかしながら、泣いてしまいまして」
夜空はきょとんとして「泣いた?」と復唱している。八尋もその時の光景を思い出してしまい小さく笑った。
「はい。出会うなり号泣です。その節はご迷惑をおかけしました」
深々と八尋に頭を下げる風香。
「いえいえ迷惑なんてそんな」と八尋も礼を返す。それから「びっくりはしましたけどね」と笑った。
「八尋に何かされたんですか」
夜空が気の毒そうに風香を見る。思わず「何でだよ」とツッコんでしまった。
「橘くんには助けてもらったんですよ」
「助けた?」
夜空が首を傾げる。
「私、短大生の時に男性に襲われかけたことがあるんです」
そう言って風香は小さく笑った。その様子が、彼女の中で事件の傷が癒えていないことを物語っている。無理もないだろうと八尋も思う。
「もうだめだと諦めていたところで、橘くんが助けてくれたんです」
彼女を襲った男はホルダーだった。自分を一時的に傷つける〝自傷〟のギフトを持ち、それを使って当たり屋詐欺や窃盗を働く小物だったが、たまたま知り合った風香に惚れてしまったらしい。
男は風香を脅し、恐怖で動けなくなった彼女に関係を迫った。そこを、止まり木の任務で男を追っていた八尋が偶然救う形となったのだった。
風香と再開したのはそれから二年後のことだ。街を歩いていたところで彼女に声をかけられた。
「その頃、私は就職のためにこちらに引っ越してきたばかりで友達も少なくて、少し寂しい思いをしていたところだったんです。そんな時、橘くんを見かけました。一目見た瞬間、間違いないあの人だって思って、急いで声をかけなきゃって無我夢中でした」
「でも、俺は最初、秋月さんに気づかなかったんですよね」
確か、肩を叩かれて振り向くと、見知らぬ可愛らしい女性がいて「私のこと憶えてますか」と訊ねてきたのだ。記憶を探りながら「ええと……」と口ごもっていると、風香が「あの、二年前に」と口にしたことでようやく八尋も思い当たった。そうすると、突然に風香が涙をぼろぼろとこぼし始めたのでずいぶんと狼狽えたものだ。
「橘くんに思い出してもらおうと言葉を探してたら、当たり前ですけど記憶も一緒に甦ってきて、あのシーンがフラッシュバックしちゃったんですよね。軽いパニックを起こしてしまって、落ち着くまで橘くんに介抱してもらっちゃったんです」
「最近は、体調のほうはどうですか」と八尋は訊ねた。事件以降、風香は心身に影響が出てしまい、心療内科に通っていることは聞いていた。
「あっ、もうだいぶよくなりました」と風香は笑顔で答える。「カウンセリングは続きますけど、日常生活の支障はほとんどないです」
「それはよかった」
八尋は心からそう思う。
「襲われかけたというのは、暴力を振るわれそうになったんですか」
夜空が神妙な顔をして風香に問いかけた。
「おい」八尋は眉をひそめた。踏み込みすぎで失礼な質問だと思った。
「いえ、あの人が傷つけたのは自分自身でした」
しかし風香は穏やかに話し始めた。
彼女が無理をしているように八尋は感じて、「話さなくてもいいですよ」と声をかけたものの、風香は首を横に振り「大丈夫ですよ」と応じた。
「言葉にして感情を整理することはカウンセリングで何度もやったことですから。それに橘くんにはまだお伝えしてませんでしたしね。いい機会なのでお話しさせてください」
「……秋月さんが構わないのであれば」
風香はにこりと微笑んで、それからひとつ大きく深呼吸をすると、「彼は、自殺を仄めかして私に関係を迫ったんです」と語り出した。
「何をどうしたのかはわかりません。ただ、気づくと彼は顔中血塗れで、だけど目だけはぎらぎらと輝いて、俺と付き合わないと死んでやるぞって言ったんです。私は身体が固まって動けなくなってしまいました。逃げるための扉は私の後ろにあったのに、です。事件のあと、友達にもよく叱られました。『そんな奴、死んだってどうでもいいじゃん』『逃げればよかったんだよ』って。普通だったらそうするべきだったのかもしれません。でも、私にはできなかった。今でも、そういうふうには考えられずにいます。私が逃げることで、本当にあの人が死んじゃったらどうしよう。あの人が死んじゃうくらいなら、私が我慢すればいいんじゃないかって、考えちゃったんです。もちろん私だって、嫌なことは嫌ですよ。痛いのも怖いのも嫌です。でも、それでも、誰かが死ぬくらいなら、私が痛い思いや怖い思いをするほうがマシなんじゃないかって、考えちゃうんです」
「その結果、死んだほうがマシだとあなた自身が考えてしまうようになるかもしれなくても、ですか」
そう訊ねる夜空は真剣な顔をしていた。
「それは……考えてなかったな」風香は苦笑する。「死にたくないけど、死にたくなるほどの酷い目に遭わされたら、死にたくなっちゃうのかな。いやだな」
ほとんど独り言のように呟いた後、風香は「私、弟がいたんです」と続けた。
「事故で亡くしてしまったんですけど」
「そうだったんですか……」
八尋はかける言葉がない。
「これまでは避けてきたんです。死について考えず、向き合わないようにひたすらに目を逸らしてきました。だって目が合ってしまうと、弟を思い出してしまって、悲しくて、寂しくて、つらくて、どうしようもなくなってしまうから」
風香の声が震えている。目元が涙で濡れて光っていた。だがそれでも彼女は語ることを止めない。深呼吸をしてから「でも、このままじゃだめだって思い知りました。いえ、このままでいたくないんです」と続けた。
「脅迫という形でも、死を眼前に突きつけられただけで、恐怖で自分の身を守ることもできなくなる。それじゃ、弟が心配しちゃいますから。僕が死んだせいでお姉ちゃんが傷ついたって思わせちゃったら、かわいそうですから」
八尋は風香に改めて敬意を抱いた。恐ろしい目に遭ってなお、「このままではいたくない」と前を向く彼女の強さに憧れた。
「秋月さんは立派ですね」
夜空の言葉も、こればかりは演技ではなく心の底からのものであると信じたかった。
風香は照れくさそうに「偉そうなことを言ってしまいましたが、まだまだ全然なんですけどね」と謙遜をした。
「どうして秋月さんは、八尋を見かけた時に声をかけたんですか」
夜空が風香に尋ねる。
「お礼が言いたかったんです」と穏やかな表情で風香が答える。「事件当時の私はほとんど自失したような状態だったので、ちゃんとお話ができなかったのがずっと心残りだったんです」
「嬉しかったですよ。面と向かって感謝を伝えられることなんてあまりないですから。本当に嬉しかったです」
自分の行動が人の役に立ったのだと実感をもって感じることができたのは、得難い経験だった。あの時は、自分が存在する意味を少しだけ感じられたようにも思えた。
「えへへへ」照れたように風香が笑う。「そう言ってもらえると頑張って伝えた甲斐がありました」
「秋月さんから見て、八尋ってどんなふうに見えてますか」
夜空の唐突な質問に八尋はたじろいだ。何を訊いているんだ。顔が熱くなるのを感じる。
「そうですねえ」
風香は手元のマグカップに視線を落とし、何かを考えている様子だ。それから夜空の顔を見て「橘くんは、すごく優しい人です」と言った。八尋は面映ゆくて、風香の顔が直視できなくなる。
夜空はじっと風香を見つめていた。表情は変えず、唇を結んだまま、言葉の続きを待っている。
「人の痛みがわかり、相手に寄り添うことのできる人だと思います。自分にできることをしようといつも努力している。誰にでもできることじゃありません。すごいと思います」
風香が言葉を切ったので、八尋はちらりと目を向けた。どこか物思いにふけるように、彼女の視線は虚空を見つめている。
「どうかしましたか」
夜空が発した声にはっとしたかのように、風香は首を小さく横に振ると「だから、橘くんは私の尊敬する友人です」と笑顔で締めくくった。
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