第35話 風香(2)
狼のセーフハウスは二階建てで、道路から玄関までの間に広めの前庭があり、砂利が敷いてあった。
狼が言ったように隣家との距離も十分そうではあるが、垣根の植木はやられてしまうだろう。八尋は心の中で見も知らぬ隣人に謝罪を述べつつ家の中へと入った。
玄関を入り、廊下を曲がった先はLDKに繋がっていた。四人掛けのダイニングテーブルと、三人掛けソファーにローテーブルが配置されていてもまだスペースに余裕がある。広々としたペニンシュラ型のシステムキッチンであることも相まってかなりの開放感がある部屋になっていた。
LDKと玄関を繋ぐ廊下扉の右脇に、二階への階段があった。更に右側が洗面所とバスになっている。
この規模だと、通常はファミリー世帯が居住するタイプだろう。狼がなぜこのサイズの家を借り上げているのかは謎だった。
「ちょっと二階を見てきますね。秋月さんは座って休んでいてください」
夜空と話をしたかった八尋がそう言ったところ、目配せするには及ばず「私も行く」と夜空が続いてきた。
階段を上った先の廊下はやや広めのスペースがあり、そこに扉が三つと引き戸が一つある。
扉の先はそれぞれサイズの違う寝室になっていて、壁面にクローゼットがあるほかは、簡素な机とベッドが一つずつ部屋に置いてあるだけだった。よく整えられているが生活感はない。
引き戸を開けると納戸があった。ちょうどいい。八尋は夜空を中に入れると扉を閉める。
「色々と言いたいことはあるけど、ひとまず助かったよ。ありがとう」
「私こそ差し出がましい真似をしました」
もはや見慣れつつある無表情で夜空が言う。先ほどまでの外向けの表情は消えていた。
「そんなことはない。本当に助かった。ただ、こんなことを言うのは失礼かもしれないけど、正直意外だったよ」
「誰にでも無愛想に対応すると思っていましたか」
そう言いながら夜空はにこりと笑った。
「必要があれば表面くらいは取り繕います。ご希望でしたら以後あなたの前でもそうしましょうか」
「……遠慮しとく。普通にしておいてくれていい」
作り笑顔だとわかっているのなら感情が読めないことに変わりはない。それなら自然体でいてくれたほうがよっぽどいい。
「そうですか」夜空はすんとした顔に戻ると「彼女は私たちとは違いますね」と聞いてきた。
「そうだ。秋月さんはホルダーじゃない」
「あなたがホルダーであることも教えていない」
「……そうだ」
「わかりました。その手の話はしないように留意します。あなたも、今日以降は彼女を私に近づけないように気をつけてください。私は意図せず彼女の命を奪うかもしれないのですから」
「言いたいことっていうのはそれだ。どうしてわざわざ彼女をここに呼んだんだよ」
危険があると自覚しているのなら尚更だ。
すると、夜空は目を伏せて、少しだけ困ったような様子を見せながら「私にもよくわかりません」と答えた。
「わかりません、って……」
予想外の反応だった。
「ただ、自然な流れではあったと思います」目を上げた夜空の顔からはわずかに見せた困惑の色は消え去っていた。「彼女も喜んでいましたよ」
「それはそうだけど」
「それに、あのまま彼女と別れて、妙な誤解をされるのはあなたも困るのではないですか」
「むう……」
「私が彼女と知り合いになれば疑念を持たれる可能性は下がると思いますが」
夜空の言うことにも一理あった。八尋は降参するように「意図はわかった」と言った。
「俺のことを気遣ってくれたんだな。ありがとう」
「礼には及びません」
涼しい顔をして夜空が言う。
「私自身、意外なのです」
「え?」
「私にとっては全てがどうでもよかった」夜空がぼそりと呟くように言った。「私が動いても、動かなくても、人間は死ぬ。私の周りから命が消えていく。だから私の行動に意味はない。ずっとそう考えてきました。それは今も変わっていません。そのつもりでした」
「だったらどうして俺に手を貸してくれるんだ」
「それが不思議なのです」
夜空はじっと八尋を見つめたまま、近づいてきた。彼女の見上げる顔が眼前に迫る。八尋も視線を返したまま、その場を動くことができなかった。二人の顔が、相手の吐息を感じるほどに近づく。夜空の透けるように白い肌と吸い込まれそうなほど黒い瞳がよく見える。
「あなたは特別なのでしょう」
「特別?」
夜空は顔を離すと、八尋に背中を向けて引き戸のほうを向いた。
「私の力が及ばない存在。ただ殺すことしかできない、それ以外に何の変化も起きなかった私の生に突如現れた異変。あなたは私のせいで死ぬことはない。だから、あなたがいれば私の行動にも意味が生まれると、私は考え始めているのかもしれませんね」
引き戸を開けて納戸を出ていく夜空の背中を見送る八尋。
着実に訪れている変化。その変化が正しいのか、どこか自信を持てずにいる自分を感じつつ、弱気な心を打ち払うように大丈夫、大丈夫と内心呟いた。
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