第34話 風香(1)
アクシデントが起きた。
その結果、八尋は今、夜空と、八尋の友人である
順を追って説明しよう。
八尋はまず、セーフハウスまでの移動手段をどうするか考えた。
夜空を連れて公共交通機関を利用することは危険なため、電車とバスは不可となる。止まり木所有の車が使えればいいが、駐車場までの交通手段が同様に問題となるし、コンテナ埠頭方面とは逆方向にあるので遠回りをすることになってしまう。
そこで、今日のところはタクシーを使うことにして、車通りの多い幹線道路方面へ向かうことにした。
夜空は昨日買っておいた外出着のカットソーとスラックスパンツを着用し、八尋の私物のカーディガンを羽織っている。早めに着替えを購入しておいたのは正解だった。とはいえ、さすがにこれほど早く居所を移すことになるとは思っていなかったが。
狼の母屋を離れてほどなく、大雨は止んだ。本当に局地的に降っていたらしく、進んだ先は路面が濡れてすらいなかった。黒い雲が見える場所以外には青空が広がっている。
二日程度滞在するだけでこうなのだから、夜空の言った「壊滅的な災害」の規模はどれほどのものなのだろうかと想像してぞっとした。
幹線道路まで特段の問題なく到着し、さて通りがかるタクシーを探そうとしたところで、目の前を通過したバスが左手すぐにあるバス停に停車した。
そのバスから降りてきたのが風香だった。
「あれっ、橘くん」
先に気づいたのは風香のほうだった。八尋はバスが停まる気配を感じた際にちらりと目をやったものの、すぐにタクシーを探すために右方へ首を向けていた。だから名前を呼ばれて反射的に振り向いた先に彼女がいた時には、文字通り飛び上がって驚いた。
「そんなに驚かなくても」と風香がクスクス笑うのを見て、真っ先に浮かんだのは「可愛い」という感想だった。
鎖骨の下あたりまで伸びたグレージュカラーのウェーブヘアにニット帽をかぶり、ゆったりとしたシルエットのプルオーバーパーカーとデニムパンツを合わせた服装で、首からは一眼レフカメラを下げている。風香がスカート以外を履いているところを初めて見た八尋は、彼女が魅せた新たな一面に少しの間、心を奪われた。
が、すぐに「今はまずい」と我に返る。
風香はホルダーではない、ただのヒトだ。八尋がホルダーであることも知らない。
だから八尋は、自分の勤め先を「福祉支援団体の職員」であると彼女に説明している。止まり木の対外的な説明と辻褄を合わせたのだ。
今、八尋の隣には夜空がいる。夜空は風香をじっと見ており、風香もまた夜空に視線をちらちらと向けていた。もはや八尋の連れであることは誤魔化しようがない。
実際はともかく、夜空の見た目は高校生かせいぜい大学生くらいにしか見えない。そんな年頃の女性を連れている理由として真実味のある言い訳は何か、八尋は必死に考えた。
福祉支援の現場では一般的に、若い女性のケアを同年代の男性が担当することは少ない。人員の都合等の理由でやむを得ない場合でも、女性の職員を同行させるとか上司を伴わせるとか、何かしらの配慮をするものだ。異性であることに起因する当事者間のトラブルを抑制するためでもあるし、何も起きていなくても世間の人間は眉をひそめたり好き勝手に噂したりするのでそれを防止する意味合いもある。
八尋が一人で夜空を連れている、この状況は「仕事」と説明するには不自然なのだ。
夜空の対応は呪いが発動しない八尋にしかできないが、ホルダーの存在を知らない風香にそのまま説明するわけにもいかない。
どうするどうする、と思考が空転するだけで一向に進まない。時間にして数秒程度だったが、八尋が固まっていることを不審に思ったのだろう、「もしかして」と風香のほうが先に口を開いた。
「彼女さんですか?」
「なっ」
八尋は絶句した。そして、少し申し訳なさそうにしている風香に気づき、慌てて「違いますよ」と否定した。
「いとこです」
夜空が発した言葉に、八尋は驚いて彼女の顔を見た。夜空は素知らぬ顔をして風香を見ている。はっとした八尋も視線を風香に戻す。ここで自分が狼狽えていたら、せっかくの夜空のアシストが無駄になってしまう。
「あっ、そうだったんですね。変なことを言ってごめんなさい」
風香は謝ると、夜空に向き直り「はじめまして。私は橘くんの友達の秋月風香っていいます」と挨拶をした。
「橘夜空です」
返事をして会釈する夜空。
「よろしくね」と言って風香が夜空に握手を求める手を差し出した時、八尋は背筋が凍った。
反射的に止めに入ろうとしたが、それよりも早く夜空が一歩退いた。そして困ったような笑顔を浮かべながら首を横に振り「ごめんなさい」と言った。
「私、皮膚に障害があって他の人と触れ合うことができないんです」
風香は手を引っ込めながら「ご、ごめんなさい。私、知らなくて」と気まずそうに言った。夜空も笑顔で「気にしないでください」と言って風香をなだめている。
八尋はそんな二人の様子を、特に夜空の振る舞いを、唖然としながらも態度に出ないよう注意して見守っていた。こんな社交的な言動もできたのかと我が目を疑うようだった。
「それで、橘くんたちは今からお出かけですか?」
にこにことした顔を八尋に向ける風香。夜空が語ったでっちあげを疑っていない、彼女のつぶらな瞳に、八尋の中の罪悪感がむくむくと膨らんでいく。「お出かけっていうか、ええと」と口ごもったところを、夜空が助け船を出してくれた。
「これから新しいお家に行くんです」
夜空は微笑をたたえながら滔々と話す。
「私、この障害のせいで日常生活に制限があって。当然、学校にも通えませんでした。それは仕方なかったと今では受け入れてます。ただ、やってみたいことがあっても、実家は田舎なので選択肢が少なくて、それが嫌だったんです。だから思い切って、八尋が住んでるこっちに引っ越したいって親に相談しました。親も初めは渋っていたんですけど、八尋が一緒に住むなら安心ということで最終的に了承してくれました。私が住む家として親が借り上げてくれた一軒家は海に近いところにあるんですけど、私がこっちに到着した昨日は八尋のお仕事の関係もあってそちらへは行けなかったんですよね。そうしたら、八尋の同僚の方が『職場近くにあるし使ってないから』と仰ってくれて立派なお屋敷を貸していただけることになって。本当に親切ですよね。私、感動しました。それで、ご厚意に甘えて昨晩はそこに泊まらせていただいて、今日ようやく一軒家のほうへ向かうところなんですよ」
八尋は呆気にとられた。創り話をよどみなく話す夜空の能力に感心すらした。
風香は、急に饒舌になった夜空に少したじろいでいる様子はあったが、「そうだったんですね」と笑顔で相槌を返す表情からは疑っているような気配はない。
夜空の物語に乗るしかないと八尋も腹を決め、内心で彼女の語った設定を復唱する。夜空はいとこで、昨日田舎から出てきて、これから一緒に住む一軒家を見に行く。OK。
とはいえ、これ以上突っ込まれてボロが出ても堪らないので、「そ、そういえば秋月さんはどうしてここに?」と八尋はやや強引に話題を切り替えた。
風香は「あ、私はこの近くにある公園に写真を」と言うまでは朗らかだったが、途端に暗い表情になって「撮りにきたはずだったんですけど……」と続けた。
「どうかしたんですか」
「さっきバスのなかで調べてたら、ちょうど今日、園内防火設備の点検で臨時休園するってお知らせに気づいたんです」
「あらら。それはお気の毒に」
八尋は見舞いの言葉を口にしたが、風香は「いえ。出発前によく調べなかった私が悪いんです」と気丈に振る舞おうとした。
「私、こういうこと昔からよくやっちゃうんですよね。下調べが足りないというか、そそっかしいというか。そのたびにへこむんですけど成長がなくて。あはは」
見るからに元気をなくしている風香がかわいそうで、八尋はなんとか彼女を元気づけようとして話題を探した。そして、「その公園って写真撮りに行きたくなるような何かがあるんですか」と聞いてみた。
風香は少し明るさを取り戻して「洋館とその庭園に咲くバラが特に有名な公園なんですよ」と教えてくれた。
「へえ。知らなかったな。でも、バラですか。バラって春に咲くものじゃないんですか」
「バラにもいくつか種類があって、年に一度だけ咲くバラと、適温さえあれば通年花を咲かせる四季咲きのバラというのがあるんです。一季咲きのバラが主に咲くのがちょうど春ごろだからバラは春の花っていうイメージが強いんですけど、今はちょうど秋バラの見頃なんですよ。咲かせる花の数は春には及ばないんですけど、その代わり一輪一輪がより綺麗に、香りも良くなることが多いみたいです」
「へえー。そうだったんですね」
八尋が素直に感心すると、風香は「なんて言いつつ、私も春に写真を撮りにその公園に行くまで知らなかったんですけどね」と照れ臭そうに笑った。
「バラの庭園と背景の洋館が調和していて、すっごくきれいなんですよ。まるで絵画の世界みたいで」
説明をする風香は楽しそうで、八尋もなんだか嬉しくなる。天真爛漫とはこういう人のことを言うのだろう。
「だから秋のバラも絶対撮りにきたいと思っていて、楽しみにしてたんですけどね」
残念そうに言う風香に、八尋が「今度一緒に行ってみますか」と声をかけたのは、がっかりしている彼女を励ましたくて咄嗟に思いついたことで、それ以上の他意は無かった。
しかし風香の喜びようは八尋の予想を超えていた。
「えっ。いいんですか。やったあ!」
跳び上がらんばかりの勢いで喜ぶ風香に、八尋は言い出した手前、引けなくなる。
「それじゃ、日程をいつにするか決めましょう」と風香がにこにこしている。
「それなら、秋月さんも一緒に行きませんか」
そう言った夜空はいつの間にか八尋の横から移動していて、通りがかったタクシーに合図しているところだった。
「立ち話もなんですから」
黒いセダンのタクシーがするすると歩道に近づき、そして夜空の前で停車して後部座席のドアを開けた。夜空はそのまま乗り込んでいく。
その後ろ姿を見送りながら、突然何を言い出したのかと夜空の真意を測りかねてるうちに「いいんですか?」と風香が八尋を見た。もはや合わせるしかない。
「秋月さんさえよければ」
風香の顔がぱあっと輝いて「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいますね」と嬉しそうだった。
八尋は時計を見た。午前九時二十三分。経過時間と、風香と夜空の接触にだけは注意しなければならない。八尋は胃が痛み始めているのを感じている。
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