第27話 宗一郎の誘い(1)
夜空の着替えの買い物を済ませ、八尋は狼の母屋へと戻った。時間はまもなく午後五時になろうとしていた。外は相変わらずの曇天で、一日薄暗いまま夜を迎えようとしている。雨に降られなかっただけでもマシかと思うことにする。
夜空には室内着と下着をそれぞれ何着かずつ購入した。外出用の衣服は緊急時のために一着だけ買っておいた。残りは後日ネット通販などを利用して夜空に選んでもらうつもりだった。「私はどんなものでも構いませんが」と夜空は言うが、どうせ買うのなら自分が気に入るものを買ってもらいたかったのだ。
さっそく着替えた夜空は、上下セットで販売していたシンプルなルームウェアに身を包んでいる。ゆったりとしたシルエットと肌触りが良くて軽い生地が売りらしい。
「ありがとうございます」
丁寧に礼をする夜空。八尋は「気にしなくていいよ」と返してから、夜空が手にしている制服が目にとまった。
「それ、クリーニングに出しておこうか」
「これですか」
夜空は制服を目元の高さまで持ち上げてみせてから、「いえ。あちこち破れてましたから。捨てたほうがいいでしょう」と告げた。
「いいのか? 大事なものなんじゃないのか」と口にしてから、なぜ制服を着ているのだろうかという疑問に行き当たった。学校に通っていたわけではないだろう。
「特に思い入れはありません。見知らぬ男性から貰い受けたものですから」と無表情に言う夜空。それだけで八尋は何があったのかをなんとなく察する。
「えーと……そうだ、夕食は何がいい」
話題を切り替えることにする。
「お構いなく。食事を摂る必要はありませんから」
「え」八尋は呆気にとられた。「おなかが空かないってこと?」
「はい。この能力を身につけた瞬間から、私の身体だけ時間が止まっているかのように、一切の変化が起こらなくなっています。髪も爪も伸びませんし、切っても次の瞬間には元に戻ります。私は見かけ上では呼吸をしていますが、恐らく私の肺では酸素と二酸化炭素の交換は行われていないのでしょう。呼吸を止めても私は死にません。胸に手を当てれば心臓の鼓動を感じますが、ただ動いているだけなのでしょうね」
自分の胸元に手を当てながら淡々と語る夜空を、八尋は呆然と見つめた。
その時、八尋のスマートフォンが着信を知らせた。ディスプレイの表示は宗一郎からのコールだと示している。
『よう、昨日はお疲れ。そろそろ仕事も終わるだろ。予定がなければこのあと飯でも行こうぜ』
八尋も宗一郎に兄妹のことなどを相談したいと思っていたので好都合ではある。だが夜空のことが気にかかった。ちらりと視線をやると、彼女と目が合う。
「お気になさらず。行ってください」と夜空が八尋に告げる。宗一郎の声が聞こえたのだろう。
『おっ。誰かいるな。彼女か?』
宗一郎にも夜空の声が聞こえたらしい。
「違うって」と八尋は慌てて訂正する。「わかった。行くよ。昨日あのあと色々あって、俺も相談したいことがあったんだ」
『よかったらその子も連れてこいよ』
「あー……」と八尋は思わず口ごもった。「それは難しい、かな」
『そうなのか』
宗一郎が残念そうに言う。
「ちょっと事情がね。それも含めて話すよ」
『了解、じゃあ時間と店はメッセージで送るから確認してくれ』
「うん。それじゃあまた後で」
電話を切った八尋は、夜空を見て「お言葉に甘えて、ちょっと出かけてくるよ」と伝えた。「忙しなくてごめん」
「私はあなたが狼から借りてきてくれた本を読んで過ごしていますから。お気遣いなく」
夜空はそう言って、テーブルの前に座ると本を開いた。自分が気にするほうが彼女も居心地が悪くなってしまうかもしれないと考え、八尋もそれ以上は声を掛けずに出かけようとする。
しかし、部屋を出ようとしたところでふと思って、振り向いて「夜空は」と彼女の名前を呼んだ。本から顔を上げた彼女の目が八尋を見る。
「夜空は食事をした時、味は感じるのか」と問いかける。
「味、ですか」と夜空が復唱し、「そう。甘いとか、しょっぱいとか、美味しいとかさ」と八尋が補足する。
「ええ。味覚はあります」と答えた夜空に、八尋はなんだかほっとしたものを感じる。
「それじゃあ、よかったらだけど、今度から一緒にごはんを食べよう。食べる必要はないのかもしれないけれど、味を感じられるなら食事が無意味ってこともないだろ? それに、俺も一人で食べるよりは誰かと一緒に食べたほうがいいから」
夜空はしばし無言のまま八尋の顔を見て、それから「あなたが望むのなら、そのように」と応じた。
「よかった」と八尋は自然と笑顔になった。「それじゃいってきます。帰りは遅くなると思うから先に寝ててくれ」
「……いってらっしゃい」
淡々と告げて、再び本へ目を向ける夜空。
そうしているだけなら、どこにでもいるような女の子の姿にしか見えない。妹がいれば、こんな感じなんだろうか。ああでも、彼女は見た目こそ高校生くらいだけど、実際はずっと長く生きているのだから、たとえるなら姉か。
八尋はそんなことを考えながら母屋を出た。
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