5 新生の日

 翌日の、朝である。

 その朝に、デイフォロスの民たちは自らの進むべき道を決することになった。

 デイフォロスの領土に留まって、魔族の支配を受け入れるか――あるいは、中央区域の他の領土に逃げのびるかだ。


 結論から言うと、農奴のすべてはデイフォロスに留まることになった。

 およそ10万から成る農奴のすべてが、魔族の支配を受け入れることになったのだ。


 やはり彼らは、余所の領地に逃げ込んでまで、同じ生活を送りたくはないと考えたのだろう。安価な労働力として扱われ、食うや食わずやの生活を強いられて、貴族や市民の思惑ひとつで簡単に生命を奪われる。そんな生活に未練を持つ者は、ひとりとして存在しなかったのだ。


 もちろん彼らも魔族を信頼しているわけではないし、その胸には恐怖と不安の感情が渦巻いている。裏切り者が出ないように、デイフォロスの全領民には記憶走査の術式を施すことになったので、彼らがそういう心境であることは、こちらもしっかり把握することができていた。


 しかしそれでもなお、彼らはデイフォロスに居残ることを選んだのだ。

 少なくとも、この地に留まれば、2度と人魔の術式にかけられることはない。意図的に心身を衰弱させられていた農奴たちにとって、負荷の大きな人魔の術式というのは、それ自体が拷問のようなものであったのである。


 デイフォロスに留まることを決断した人間は、治癒の術式によって手の甲の紋章を消されることになる。そうして農奴の証である焼き印を消されるなり、感涙にむせぶ人間は少なくなかったと、僕はそのように報告を受けていた。


 農奴は農民に名をあらためて、今後も農作業に勤しんでもらうことになる。

 これまで苦しんできた分、彼らには健やかな生活を送ってもらいたいところであった。


 そしてお次は、石の町に住まう市民たちである。

 彼らは全員が昨晩の戦いに駆り出されていたので、それ相応の戦死者が出ていた。

 とはいえ、僕は敵にも味方にもなるべく被害が出ないよう、部隊長たちにはひたすら守りを固めるように命じていたので、市民の戦死者は数百名ていどであろうという見込みであった。


 よって、およそ1万名という総人数に、大きな変わりはない。

 デイフォロスに留まることを選んだのは、その内のおよそ半数ていどであった。


 農奴に比べて、彼らはそれほど苦しい生活を強いられていたわけではないのだ。

 少なくとも、衣食住に困ることはなかった。必死に働けば、そうそう農園送りにされることもなかったし、時には貴族の嬲りものにされることもあったが、それも頻繁にある話ではない。また、日々の鬱憤は農奴を嬲りものにすることで晴らすことがかなったので、苦楽のつり合いはそれなりに取れていたのだろう。


 しかし、そんな彼らの基盤を支えていたのは、人魔の術式の影響による人格の変質であった。

 彼らの多くは破壊衝動や性衝動の虜になっていたゆえに、刹那的な人生を謳歌することがかなっていたのだ。その影響から解放された現在、半数の人間が「こんな社会は間違っている」と判じることになったのだろう。


 また、それとは別に、彼らが余所の領地への移住を恐れる理由が存在した。

 余所の領地に逃げのびても、市民として暮らすことはかなわず、農園送りにされてしまうのではないか――という恐怖心である。


 20年前にグラフィス公爵領が滅ぼされた際、このデイフォロスに逃げのびた市民の多くは、農園送りにされてしまったのだそうだ。

 まあ、市民の定員には限りがあったし、それに、城づとめであった従者たちの過半数は市民に降格されたという話であったので、それで定員割れを起こしてしまったのだろう。

 そういった風聞が、彼らに移住を躊躇わせたのであった。


 それでも、市民のおよそ半数である5000名ばかりの人間が、余所の領地に逃げのびることになる。その多くは、きっと農園送りにされるはずだ。そんな人々が、余所の領地の農奴たちにデイフォロスの現状を言いふらすことにより、どのような混乱が巻き起こるのか、結果が楽しみなところであった。


 それに僕は、彼らを解放するこの朝に、時限爆弾ともいうべき甘言を通告していた。

 その内容は、『その気になったら、いつでも戻ってくればいい』というものであった。

 いざ余所の領地に逃げのびてみて、そこで満足な生活を得ることがかなわなかったら、このデイフォロスに戻ってくればいいと、僕はそのように告げてみせたのである。


「くどいようだけど、僕が罪に問おうとしているのは、人間族の王ただひとりだ。人間族の王よりもこの僕に仕えたいという者であるのなら、この先いくらでも受け入れるつもりだよ」


 もしも市民や貴族の中に、農園送りにされる者があったなら、こんな甘言に救いを求めたくなったりもするだろう。

 そんな期待を込めながら、僕は理解ある支配者の姿を演じてみせたのだった。


 そして最後に、貴族とその従者たちである。

 彼らはそのほとんどが、余所の領地に逃げのびることになった。

 こちらも想定していた結果ではあったものの、それでもやっぱり想定以上であったというべきかもしれない。デイフォロス城の住人で、この地に居残る決断を下したのは、わずか9名であったのだ。


 もともとの総人数は、貴族が72名に、騎士が64名、そして従者が115名となる。

 その内で残留を希望したのは、貴族が2名、騎士が4名、従者が3名のみであった。


 貴族と騎士の多くが残留を望まなかったのは、やはり安楽で怠惰な生活を捨て難かったゆえであるのだろう。逃げのびた先で定員割れが起きれば市民として生きていくことになるのであろうが、それでも魔族に支配されるよりは上等である――と、彼らはそのように考えていたのだった。


 いっぽう、従者たちの過半数は、そんな貴族たちの命令によって追従することを選んだようだった。

 貴族の生存者の中には、領主であるデイフォロス公爵も含まれている。人魔の術式の影響から解放されてなお、彼らはデイフォロス公爵の支配から逃れられなかったのだ。


 もちろん、グラフィス子爵も残留を望むことはなかった。

 彼らとは、再び他の領地で刃を交えることになるのだろう。そのときこそ、僕は彼をバジリスクの仇として断罪するつもりであった。


 とまあ――領民たちの処遇に関しては、以上である。

 言葉にするのは簡単であるが、すべての事後処理が完了したのは、すっかり日も暮れてからであった。


 出奔を希望する人間には3日分の水と食料を与え、幼子の数に応じて、ロバと荷車も配布する。残留を希望する人間は手の甲の紋章を消しさったのち、ひとまず自宅での待機を命ずる。その際に、すべての人間の記憶を走査しなければならなかったので、それほどの時間がかかってしまったのだった。


 そうして明日からは、残留した人間たちの新たな生活を構築しなければならない。

 それに、出奔した人間たちは、2日か3日の後に余所の領地に到着することになる。その際には、こちらもあれこれ謀略を仕掛ける算段であるのだ。


 正直に言って、僕たちの正念場はこれからであった。

 この中央区域だけでも、人間族にはデイフォロスと同じ規模を持つウィザーン公爵領と、その3倍の規模を持つ王都ジェルドラドが存在する。僕たちが人魔の術式を破壊するすべを身につけたと知れば、それらの領地に住まう人間たちも厳戒態勢を敷くことになるだろう。それを打ち砕き、人間族の王を屈服させるのが、僕たちにとっては第一の目標であるのだった。


 道は、まだまだ果てしなく長い。

 その戦いを勝ち抜くために、僕たちは――すべての事後処理を終えた夜に、戦勝と壮行の祝宴を開催することに相成ったのだった。

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