2 恩讐は越えられず

 デイフォロス城の大広間は、一触即発の様相であった。

 その原因は、やはりグラフィス子爵とコカトリスたちである。ありあわせの衣服でたるんだ身体を覆ったグラフィス子爵は大広間の真ん中でふんぞり返っており、それと相対するコカトリスたちは憤激に双眸を燃やしていた。


「待たせたね。いったい何を騒いでいるのかな?」


 その場には、デイフォロス城の生存者の全員が集められている。領外に出撃した騎士たちは農園のほうに集められたはずなので、こちらで顔をそろえているのは72名の貴族たちと115名の従者たちだ。あれだけ激烈な戦いを経て、彼らは半数以上が生き永らえていたのだった。

 それらの人々のおおよそは恐怖に顔色をなくしているが、グラフィス子爵を筆頭とする数名だけは、居丈高な様子である。そしてその中には、大柄な体躯と赤ら顔を有するデイフォロス公爵も含まれていた。


「……ようやく来たのね、暗黒神様。あともう少しで、この醜い貴族の首を刎ね落としていたところよ」


 コカトリスが激情に唇を吊り上げながら言い捨てると、かたわらのエキドナが花火のようにわめき散らした。現在は翼や蛇の下半身をひっこめて、身体のあちこちに紫色の鱗だけを生やした、半人半妖の姿である。


「何も辛抱する必要なんてなかったのさ! コカトリスがやらないなら、わたいがこの豚野郎の首を刎ね落としてやるよ!」


「まあまあ、ちょっと落ち着いて。……騒ぎを起こされるのは困るね、グラフィス子爵」


 ナナ=ハーピィを抱きかかえたまま、僕はそちらに近づいていった。

 ちなみにナナ=ハーピィには目くらましの術式をかけておいたので、この場にいる人間たちは彼女の顔を認識できない。彼らの何割かは余所の領地に出奔するのであろうから、僕たちが娼婦に身をやつしてデイフォロス城に潜入した一件は悟られたくなかったのだ。

 そうして僕が大広間の中央にまで到着すると、グラフィス子爵は嫌悪に顔を歪めて後ずさった。


「なんと禍々しき姿だ。……其方がさきほどの声の主、暗黒神であるな。ならば、配下の魔物どもをしっかり管理するがいいわ」


「なんだい、その口の利き方は! あんた、自分の立場をわかってるのかい!?」


 僕はナナ=ハーピィをケルベロスのかたわらに下ろしてから、グラフィス子爵と相対した。

 グラフィス子爵も小柄ではないが、こちらは190センチを超える長身だ。僕よりも頭半分ほど低い位置で、グラフィス子爵は忌々しげに口もとをひん曲げていた。


「ずいぶんと鼻息が荒いことだね。僕も聞かせてもらいたいのだけれど、君は自分の置かれた状況を理解できているのかな?」


 オスヴァルドには相応の敬意を払っていた僕であるが、この御仁にまでそのような気持ちをかきたてられることはなかった。

 いや、人魔の術式の影響下から脱した彼が、人間がましい理性や節度を回復させていたのなら、僕の気持ちはもう少し異なっていたのであろうが――こうして見る限り、彼の傲慢さは昨晩のままであったのだ。


「ふん。其方の言葉は、この場にいる全員が耳にすることになった。その内容に関して、異議を申し立てさせてもらいたい」


「異議?」


「王都ジェルドラドやウィザーン公爵領に至るまでの間には、過酷な砂漠地帯や険しい岩場などが存在する。我々とて、それらの領地と交易を行うにあたっては、人魔の力を使っていたのだからな。あのように険しい道のりを人間の足で越えていくことなど、とうてい不可能なことであろう。よって、ロバと車の持ち出しを認めてもらいたい」


 僕は呆気に取られてしまい、とっさに返事をすることもできなかった。

 その沈黙をどう取ってか、グラフィス子爵は意気揚々と言葉を重ねる。


「それに、我々の保有する資産についてであるな。さきほどは水や食料以外の持ち出しを禁ずるなどと述べたてていたが、貴族たる我々にはそれぞれの資産が存在する。魔物に金貨や財宝などは無用であろうから、その持ち出しに関しても許可を願いたい」


「……本当に、君は何を言っているのかな?」


 まだちょっと頭の整理も追いつかぬままに、僕はそのように答えてみせた。


「君たちは敗残兵であり、捕虜であるんだよ? そんな君たちが、どうして対等の立場でものを語っているのかな?」


「我々は、王国を統べる貴族である。たとえ戦いに敗れても、相応の敬意を払うべきであろうが?」


 グラフィス子爵は、むしろいぶかしそうに眉をひそめながら、そのように言いたてた。


「それに、そちらの不利益になる申し出ではなかろうが? ロバも車も金銀財宝も、魔物などには不要の長物であろう? ならば、正当なる所有権を持つ我々に、それを返してもらいたい」


 僕はあらためて、他の貴族たちを見回してみた。

 やはり、8割がたの人間は、恐怖に打ち震えているようだ。この場には数多くの魔物たちも集っているのだから、それが当然の話である。誰もが魔力の消費を抑えるために、半人半妖の姿を取っているとはいえ、人間にとっては恐怖心を喚起させられる姿であるはずだった。


 ただ――人間というものは、魔力を感知することができない。よって彼らは、魔物の外見に恐れおののいているだけなのかもしれなかった。


(野生のゴリラやライオンよりも危険な存在と向かい合ってるってのに、それが理解できていないのかな)


 だとしたら、ずいぶんとお粗末な危機管理能力であると言わざるを得ない。

 僕は溜め息を噛み殺しながら、グラフィス子爵に向きなおった。


「結論から言わせてもらうと、君の提案は却下させてもらう。持ち出しを許すのは、3日分の水と食料だけだ。それ以外の持ち出しは、認められない」


「なんと! ならば、解放と見せかけた処刑も同然ではないか! 余所の領地までの道のりが、どれだけ険しいものであると――」


「そのようなものは、こちらもとっくに検分しているよ」


 僕は力を込めて、グラフィス子爵の言葉をさえぎってみせた。

 たちまち、周囲の貴族たちがびくりと身体をすくめる。


「検分した上で、ロバや車は不要であると判断したんだ。それはもちろん安楽な道ではないだろうけれど、人間の足で踏み越えられないほどではない。でも、そうだな……10歳に満たない幼子には、ちょっと難しい道のりであるかもしれないね。退去を決めた幼子の人数に応じて、相応のロバと車の持ち出しを認めてあげようかな」


「ほう」と、グラフィス子爵が唇を吊り上げた。

 その醜悪な笑顔に、僕は神経を逆なでされる。


「言っておくけれど、そのロバや車を奪おうという考えであるのなら、やめておいたほうがいい。車には使い魔をつけて、監視させていただくよ。僕の取り決めを破ろうとする人間が現れた場合は、速やかに処罰を下させてもらおう」


 グラフィス子爵は、たちまち苦々しげな顔になった。

 どうやら彼は、僕を恐れる気持ちがとりわけ希薄であるようだ。もしかしたらこの甲冑姿は、半人半妖である他の魔族たちよりも、迫力が足りていないのかもしれなかった。


「グラフィス子爵、僕からも、ひとつ尋ねさせてもらおうかな」


 内心の苛立ちを抑えながら、僕はそのように言ってみせた。


「人間というのは人魔の術式の影響で、人格などを歪められていたはずだ。結界や人魔の術式が破壊された現在、君たちは元来の理性や人間性を取り戻せたはずなのだけれど……これまで自分たちが行ってきた所業に関して、後悔や反省などはないのかな?」


「後悔や反省?」


「君たち貴族は、市民や農奴に不当な処遇を与えていた。あまつさえ、君は数多くの娼婦を殺めてきたはずだ。真っ当な心を持つ人間であるのなら、後悔するのが当たり前なんじゃないのかな?」


「ふん。何を言い出すかと思えば――」


 と、グラフィス子爵は頬肉を震わせて嘲笑った。


「余は、余に与えられた権力を行使したまでだ。余の行いが不当であったのなら、王国の法が余を裁いていたことであろう。余の行いに、恥ずるべきところなどはない」


「なるほど。それが君の答えなんだね」


 言いざまに、僕は右手の指先をグラフィス子爵のほうに突き出した。

 鉤爪のように鋭い指先が、グラフィス子爵の額にとんと触れる。その瞬間、グラフィス子爵の肥え太った顔はだらしなく弛緩した。


 ルイ=レヴァナントから習い覚えた記憶走査の術式で、グラフィス子爵の脳内をスキャンする。

 それで、僕のひそやかな期待は完全に打ち砕かれることになった。

 彼は虚勢を張っているのではなく、嘘偽りのない真情を述べたてていたのだった。


 グラフィス子爵は、自らの行いを何ひとつ悔いていなかった。

 その心には、魔物などに不覚を取った屈辱と、この先の人生に対する不安感だけがどろどろと渦巻いていた。


 魔物に対する恐怖心も、希薄である。その理由は、僕がさきほど述べあげた布告の内容であるようだった。

 魔物たちの君主である暗黒神に、自分たちを処刑するつもりはない。そして、暗黒神というものは意外に人間めいた気性をしているようである。ならば、口先ひとつで懐柔することも可能なのではないか――と、彼はそのように考えていたのだった。


(グラフィス子爵は、人魔の術式とは関係なく、もともとこういう人格だったってことだな)


 僕が記憶走査の術式を完了させると、グラフィス子爵は夢から覚めたように目をぱちくりとさせた。

 僕は身を引き、この場にいるすべての人間たちに宣言してみせる。


「それじゃあ、話はおしまいだ。君たちにも、家族や縁者があるんだろう? この場に留まるか、余所の領地に逃げ出すか、じっくり語り合うといい。期限は、明日の朝までだからね」


「待て。それでは、資産に関しては――」


 グラフィス子爵がこちらに詰め寄ってこようとしたので、僕はおもいきり右腕を振り払ってみせた。

 その風圧で、グラフィス子爵は2メートルばかりも吹き飛んでいく。巻き添えになった他の貴族たちが、悲鳴をあげることになった。


「僕はすでに答えを返している。それに不服があるのなら、造反者として処断させていただくよ。そうしたくてウズウズしている者たちがいくらでもいるのだから、少しは身をつつしむことを覚えたほうがいい」


 何名かの同胞を下敷きにしたグラフィス子爵は、死にかけた豚のようにうめいている。か弱き人間には、十分に手痛い罰であったことだろう。


「それに、他の面々にも通達しておこう。君たちは、デイフォロス城の支配者層だ。何か我々にとって有益な情報を備えている可能性があるので、明日の朝までに全員の記憶を覗かせてもらうよ」


「記憶を、覗くだと?」と、デイフォロス公爵が顔をしかめた。

 その脂ぎった赤ら顔を見返しながら、僕は「うん」とうなずいてみせる。


「逆に、僕たちにとって不都合な情報を備えている可能性もあるからね。その場合は気の毒だけれども、余所の領地に逃がしてやることもできなくなる。まあ、処刑したりするつもりはないから、このデイフォロスで新生活を楽しむといいよ」


 貴族たちの何名かが、悲嘆に暮れたような声をあげた。

 デイフォロス公爵は、ますます顔を引き歪めている。


「どのように言葉を飾っても、しょせんは魔物か。この地に居残れば、さぞかし苦痛と屈辱にまみれた生を強いられるのであろうな」


「そう思うなら、出ていけばいい。僕たちの側に知られて困る秘密なんてものはそうそうないから、たぶん居残りを強制するようなことにはならないと思うよ」


僕はナナ=ハーピィを抱きあげて、きびすを返すことにした。


「ひとつ言わせてもらうなら、これまで苦痛と屈辱にまみれた生を強いられていたのは、農園で働いていた人々だ。彼らに苦痛と屈辱を与えていたのはどこの誰なのか、胸に手を当てて考えてもらいたいものだね」


 デイフォロス公爵は、何も答えようとしなかった。

 僕もまた、答えを期待していたわけではなかった。

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