第9章 戦い終わりて

1 暗黒神の布告

 翌朝である。

 僕がデイフォロス城のバルコニーで朝日の美しさを堪能していると、ドリュー=パイアから念話が届けられた。


『暗黒神様、眠りこけてた人間どもが、ようやく目覚め始めたみたいだよ』


 人魔と化していた人々は、術式の崩落とともに意識を失っていた。それらの人々は戦いを終えた魔族たちによって、適当にデイフォロスの敷地内へと運び込まれている。そして彼らは、ドリュー=パイアを始めとする団員たちに、朝まで見守られていたのだった。


 目覚めると同時に魔物たちの姿を目にした人々は、さぞかし恐れおののいていることだろう。

 そんな彼らに、さらなる試練を与えるのが、僕の役割であった。


 僕はバルコニーに張り巡らされた石の柵に手をついて、朝焼けに包まれた領地を見下ろす。

 城を囲むように築かれた石の町と、町を囲むように築かれた農園だ。

 そのあちこちに点在しているであろう人々の全員に、僕は念話で語りかけてみせた。


『おはよう、人間族の諸君。君たちにとっては、最悪な目覚めだろうと思う。僕は魔族の君主、暗黒神ベルゼビュートというものだ』


 11万名を数えようかという人間のすべてに念話を送るというのは、ずいぶんと大がかりな術式である。

 しかしそのための下準備は昨晩の内に済ませておいたし、この数時間で僕の魔力は完全に回復している。ガルムたちのように肉や酒を摂取するまでもなく、人魔の術式の崩壊によって解放された大地の豊かな魔力だけで、僕には十分なご馳走だった。


『僕たちは昨晩、デイフォロス公爵領を制圧した。本日より、この領土は僕たち魔族のものとなる。君たちの頼みの綱である人魔の術式は2度と発動しないし、すべての魔術師は天に魂を返すこととなった。もはや君たちにあらがうすべはないということを、十分に理解してもらいたい』


 人々は、どんな様子で僕の念話を聞いているだろう。

 悲嘆に暮れて、泣き叫んでいるだろうか。怒りのあまり、かたわらの魔族につかみかかったりはしていないだろうか。

 そんな光景に心を乱されることのないよう、僕はこの場所で彼らに語りかけているのだった。


『そこで僕は、敗残者である君たちにふたつの道を提示したいと思う。なかなか冷静ではいられないだろうけれども、どうか心して聞いてもらいたい』


 見えざる群集が心を落ち着かせる猶予を与えるために、僕はそこでいくばくかの間を置いた。


『まずひとつ目の道は、僕たちの配下になること。人間の王や貴族に対する忠誠心を捨て、魔族の軍門に下るということだ』


 そこで、屋内に通ずる背後の扉がそっと開かれる気配がした。

 もちろん魔力に満ちみちた僕には、彼女の気配も感知できていた。扉の向こうの部屋で身を休めていたナナ=ハーピィが、ようやく目覚めたのである。


「やあ、ナナ。目が覚めたんだね」


「うん……ベルゼ様の声が、頭の中に響いてきたからさ」


 ナナ=ハーピィは、まだ夢うつつの表情でにこりと微笑んだ。僕の念話は人間だけでなく、すべての魔族にも届けられていたのだ。


 彼女は昨晩の戦い以来、ずっと眠っていた。ジェンヌ=ラミアは数時間ていどで覚醒していたのだが、やはりナナ=ハーピィのほうが無茶をしたために長きの休息が必要であったのだろう。


 ナナ=ハーピィは翼ある本性の姿で眠っていたはずだが、現在は人間の姿に変じており、そして僕が準備しておいたワンピースのような服を身に纏っていた。裸足の足でぺたぺたと歩きながら、僕のかたわらまで近づいてくる。


「お仕事の最中にごめんね。そばにいてもいい?」


 僕が「いいよ」と答えると、ナナ=ハーピィは嬉しそうに微笑んで、黒い鎧の腕に頭をもたれてきた。


『……魔族の軍門に下るというのは、きわめて屈辱的であると同時に、また、大きな恐怖をもたらされることだろう。僕たちは250年に渡って戦い続けてきたのだから、それが当然だ。ましてや、人魔の術式に頼らない限り、君たちは魔族にあらがうすべもない。そこまで力の差のある相手に命運を握られるというのは、恐怖以外の何ものでもないのだろうね』


 ナナ=ハーピィの体温を右腕に感じながら、僕はそのように言いつのった。


『ただし、僕たちがむやみに人間族を傷つけることはないと、ここに約束しよう。魔族にあらがうように命じたのは、人間の王なのだろうからね。現時点では、王以外の人間に責任を問うつもりはない。人魔の術式から解放されて、ぐっすり眠りこけていた君たちに危害を加えなかったことを、その証とさせてもらおうか』


 人々は、どのような様相であろうか。

 しかし、泣こうがわめこうが怒り狂おうが、僕の声は頭の中で容赦なく響き続ける。これも念話の利点であった。


『魔族の軍門に下るなら、君たちは配下だ。配下の安全は、この僕が保証する。君たちが僕の定めた掟を破らない限り、君たちの身が脅かされることにはならない。そもそも、人魔の術式を失った君たちを痛めつけたって、僕たちには何の得にもならないのだからね。これからは、せいぜい僕たちのために働いてもらおうと思う』


 魔族の面々にも納得してもらえるように、僕は飴と鞭を使いこなす必要があった。


『とはいえ、大した能力も持たない君たちに大きな期待をかけているわけじゃない。僕たちが求めるのは、せいぜい美味しい食事と酒ぐらいだからね。僕たちを満足させるだけの食事と酒を準備したならば、あとは好きにするといい。人魔として戦うことは2度とないのだから、人間らしい幸福やら安息やらいうものを追求すればいいと思うよ』


 そこで僕は、ふっと息をついた。

 次の言葉は、受け取る人間によって飴となるか鞭となるかが変じることだろう。


『ただし、何もかもがこれまで通りというわけにはいかない。魔族である僕たちに不要であると思えるものは、撤廃しなくてはならないからね。その第一段階として、僕は人間社会の身分制度というものを撤廃させていただく』


 ナナ=ハーピィはあくびを噛み殺しながら、ふにゃりとまぶたを下げていた。寝不足の猫みたいに、愛くるしい表情だ。


「……ナナは、こんな話を聞かされても退屈だろうね」


「ううん。ベルゼ様の声が頭に響いてるだけで、あたしは幸せだよー」


 僕は幸福そうに微笑むナナ=ハーピィの頭を軽く撫でながら、言葉を重ねた。


『君たちの社会というものは、きわめて非合理的かつ不平等なものだった。それは、人魔の術式というものを主軸にして、王や貴族にとって都合のいいように構築された社会であったからだ。また、君たちは結界や人魔の術式の影響で、本来の人格を歪められていた。それらの術式が完膚なきまでに破壊された現在、自分たちがどれほど歪んだ社会の中で生きてきたか、実感できている者も多いんじゃなかろうか? ……まあ、君たち自身がどう思おうとも、僕は僕の好きなように今後の掟を定めさせてもらう。その第一歩が、身分制度の撤廃になるわけだね』


 朝焼けに包まれた世界は、あくまでも静謐だ。

 しかしそこには、多くの人々の悲嘆や混乱が渦巻いているのだろう。


『もちろん、農園で働く人間は必要だし、町で働く人間も必要だろう。君たちの従事する仕事の内容に、大きな変化が生じるわけではない。ただ、農園で働く人間ばかりが貧しい生活を強いられるというのは、ひどく納得のいかない話だ。今後、農奴は農民と名前を改めて、市民と同じ階級に身を置いてもらう。大事な労働力である農民を正当な理由もなく害するという行いも、今後は固く禁じさせていただくよ。……まあ、人魔の術式がもたらす破壊衝動から解放されたのなら、そんな心配も不要かもしれないけれどね』


 僕たちの提案した脱出計画に加担した農奴たちも、もちろん同じ言葉を聞いている。彼らが胸を撫でおろしていれば、幸いであった。


『また、貴族に関しても、それは同様だ。僕はまだ、この社会で貴族たちがどのような仕事を果たしていたのかもわかっていないので、現時点では確たることも言えないのだけれど……貴族が何か仕事を為していたのなら、その仕事の重要度に則した豊かさを得られるだろう。何も仕事をしていなかった貴族というものが存在するのなら、これを機会に勤労の喜びというものを味わっていただこうと思うよ。僕の故郷には、働かざるもの食うべからずというありがたい格言があるんでね。今後は身分や血筋というものにもたれかかって安楽な生活をすることは許されない。魔族たる僕たちに身分や血筋などといったものは無意味であると、理解してもらうしかないだろうね』


 城内が、いくぶん騒がしくなったように感じられた。

 貴族たちはあの大広間に集められて、ケルベロスたちに監視されているのだ。少なくとも、農奴や市民の人々よりは、絶望的な心地であることだろう。


『現時点で言えるのは、これぐらいかな。まとめると、人間の王や貴族が定めた身分制度は撤廃する。魔族に逆らったりしなければ、生活を脅かされることにもならない。あとの細かい点については、君たちがこれまでどういう暮らしをしていたかを検分して、定めさせてもらおうと思うよ』


 これで僕は、8割がたの言葉を伝えることができた。

 そして残りの2割は、これまでの8割に匹敵するぐらいの重要性を持っていた。


『さて……僕は最初に、ふたつの道を提示すると宣言したよね。ずいぶん時間がかかってしまったけれど、もう片方の道を提示させていただくよ』


 これはすでに、兵団の団員たちにも周知している内容であった。

 ルイ=レヴァナントとともに構築した、現王政に対する戦略である。


『僕が提案した新たな生活に不服がある者は、デイフォロス公爵領から退去してもらおうと思う。この中央区域に残された人間の領土は、王都ジェルドラドとウィザーン公爵領だ。好きなほうに逃げ込んで、これまで通りの生活を満喫するといいよ』


 城のほうが、また騒がしくなってきた。

 歓喜の雄叫びでもあげているのだろうか。

 そうだとしたら、気の毒な話である。


『僕の言葉に従えない者は、僕の領地に必要ない。決して処罰を与えたりはしないから、このデイフォロスから出ていくといい。退去を申し出た人間には、3日分の水と食料を与えよう。ロバや車を与えることはできないけれど、徒歩でもそれだけの時間があれば、好きな領地に逃げ込めるはずだ。どこへなりとも、逃げのびるがいいよ』


 いったいどれだけの人間が、その道を選択するだろうか。

 それはまったくの不明であったが、僕たちの側に不都合はなかった。


『期限は、明日の朝までとする。1日かけて、自分たちの進むべき道を決断するといい。その間、人間同士で争うことも許さないよ。中には、他人の富を奪って逃げのびようとする者もいるかもしれないからね。領地を出るのは、明日の朝。持ち出すことが許されるのは、3日分の水と食料だけだ。この禁を破る者こそ、厳重に処断させてもらう。現在のデイフォロスは魔族の力でしっかり監視されているので、夜の間にこっそり逃げ出すことも不可能だよ。そういったことを肝に銘じて、今後の身の振り方を決断してもらいたい』


 そうして僕は、最後の言葉でこの布告を締めくくることにした。


『ずいぶんと甘っちょろい話だから、これも何かの罠なんじゃないかと勘繰る人間もいるかもしれないけれどね。そんな心配は、不要だよ。……人間ごときが僕たちに逆らったって、脅威には成り得ない。明朝、デイフォロスを出る人間は、後日にジェルドラドかウィザーンの領民として、再び僕たちと戦うことになる。それまでの束の間を、せいぜい楽しく暮らすがいいよ。これまで通りに王や貴族に仕えるか、僕たち魔族の軍門に下るか、選ぶのは君たちだ。……僕からの言葉は、以上だね。何かつけ加えることがあったら、また頭の中にお邪魔させてもらうよ』


 僕は念話を打ち切って、かたわらのナナ=ハーピィに向きなおった。


「お待たせしたね。ひとまず、仕事は終わったよ」


「うん、お疲れ様。……ねえねえ、ひとつだけ聞いてもいい?」


「うん。なんでもどうぞ」


「せっかく屈服させた人間たちを、どうして逃がしちゃうの? 他の領地に逃げ込まれたら、そいつらはまた人魔になれるんでしょ? そしたら、こっちが損するばっかりじゃん」


「ああ、ガルムたちにも同じことを言われたよ。……でもね、人魔の術式で使える魔力は領地の規模に比例するから、どれだけ領民が増えたって戦力の増大にはつながらないんだよ。貴族と市民の数は一定で、あぶれた人間は農奴に身をやつすしかない。で、その農奴もあまりに数が増えすぎたら、1体ずつの魔力が弱まることになるんだろう。だから、どれだけの人間が他の領地に逃げ込んだって、僕たちの苦労に大きな差は出ないのさ」


「ふーん。……でも、わざわざ逃がしてやる必要はないんじゃない? 言うことを聞かない人間なんて、皆殺しにしちゃえばいいのに」


「いや。そうやって他の領土に人間を逃がすことこそが、戦略なんだよ。これで僕の言葉は、他の領地の人間たちにも伝えることができる。身分制度の撤廃なんていうお題目をあげられて、他の領地の市民や農奴はどんな気持ちに陥るか――そうやって、人間社会に混乱をもたらすのが、こちらの戦略というわけだね」


 ナナ=ハーピィは「うーん」と可愛らしく首を傾げた。


「よくわかんないけど……ここの農奴たちみたいに、自分の意思で逃げ出したいって考える人間がいるかもしれないってこと?」


「そうそう。よくわかってるじゃないか」


 僕が頭を撫でてあげると、ナナ=ハーピィは「えへへ」と笑った。

 まだ魔力が完全に回復しきっていないためか、彼女はずっと弛緩したままである。普段の溌剌さが損なわれているのは痛々しくも感じられてしまうが、それと同時に、彼女はとても――年齢相応の女の子みたいに、可愛らしかった。


「……あのさ、ナナ。昨日は君のおかげで――」


 と、僕が御礼の言葉を言おうとしたとき、背後の扉が乱暴に開けられた。

 姿を現したのは、ケルベロスである。


「よー、暗黒神様。乳繰り合ってるとこ悪いけど、ちっとこっちに来てくれねーか? 貴族どもが騒ぎまくって、どうしようもねーんだよ」


「貴族たちが? でも、べつだん危険はないだろう?」


「危険なのは、貴族どものほうだろうな。あっちには、コカトリスたちが顔をそろえてるんだぜ?」


「ああ、それは確かに、危険だね」


 バジリスクの仇であるグラフィス子爵も、生命冥加に生き永らえているのだ。彼が下手に騒ごうものなら、コカトリスたちの怨念が爆発してしまうはずだった。


「すぐに行くよ。ナナも、歩けるかい?」


「ううん、歩けない」


 ナナ=ハーピィは、ごろごろと咽喉でも鳴らしそうな様子で、僕の胸もとに頭をこすりつけてくる。

 僕は温かい気持ちを噛みしめながら、そのほっそりとした身体を武骨な鎧の腕で抱きあげることにした。

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